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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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3/21

第2話のPART2です

第2話のPART1では、古処山城が落城して、秋月文種さんと晴種さんが自害し、秋月種実さんが脱出したところで終わってましたので、その続きです。

 弘治3年(1557年)に古処山城を脱出した秋月種実は、毛利氏を頼って落ち延びます。

 それから2年後の永禄2年(1559年)、秋月氏の家臣であった深江氏は毛利氏の支援を得て、秋月種実を迎えると、古処山城を奪回し、領地を取り戻します。

 そこから8年後の永禄10年(1567年)に大友氏の重臣高橋鑑種が反旗を翻すと、秋月種実も挙兵します。休松の戦いで夜襲を成功させる武功をあげています。この後、毛利氏の九州侵攻も始まるのです。その後大友氏も反撃し、永禄12年(1569年)に多々良浜の戦いで大友軍が毛利軍に勝利したため、秋月種実は大友義鎮(宗麟)に降伏します。

 しかし、そこから9年後の天正6年(1578年)に大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗します。大友氏が衰退するとみると、秋月種実は再度大友氏に反抗します。

 天正12年(1584年)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津氏・有馬氏連合軍に敗れ、隆信が討ち死にすると、秋月種実は島津氏に従属します。秋月氏は、大友領を侵食してゆき、筑前・豊前・筑後北部に36万石の勢力となります。秋月氏の最盛期です。

 しかし、ここに当時の日本最強軍団がやってきます。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定戦です。秋月氏以外のところは省略します。

 まずは、岩石城の戦いです。岩石城は秋月氏の支城で、豊前国にあった城です。現在の福岡県田川郡添田町です。標高約450mの岩石山に築かれた険阻な堅城でしたが、圧倒的多数の鉄砲を使っての攻撃により一日で陥落します。

 さらに、岩石城が陥落した翌日には古処山城が秀吉軍によって包囲されます。包囲して2日後に秋月種実は降伏を申し入れ、剃髪して出頭します。「楢柴肩衝」(茶入れ)を献上し、娘竜子を人質に差出します。命は助けられたものの、肥後方面の先陣を命じられます。また、領地については、日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封されます。失意の種実は、家督を嫡男の種長に譲って隠居します。

 秋月種長は永禄10年(1567年)に秋月種実の長男として生まれます。秀吉の九州平定戦では、父と共に降伏します。父が隠居したため、家督を継いで当主となります。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して大垣城を守備していましたが、関ヶ原本戦で西軍が敗れた直後に東軍に内応し、弟の高橋元種や九州の大名である相良頼房と共謀して、熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統らを城中で殺害して降伏します。これによって徳川家康から所領を安堵されます。徳川幕府が成立すると、高鍋藩初代藩主となります。

 


第2話PART2はこれで終わりです。戦国時代は、秋月氏にとって厳しいものでした。従属先を変更すると攻撃を受けたり、領地を取り返したと思ったらさらに強い敵がやってきたりと試練が続きました。そして関ヶ原の戦いでは、後ろめたいことをしてまで生き残ったんだなと思うと少し哀しいものを感じました。

 では、また第3話でお会いしましょう。





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