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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第20話は有馬家(摂津有馬氏)です。

 第20話は有馬家(摂津有馬氏)です。村上源氏である赤松氏の支流で、摂津国有馬郡(現在の神戸市北区有馬町や三田市あたりです。有馬温泉が有名です)を本拠としたため有馬氏を称しました。九州の肥前国の有馬氏と区別するため、摂津有馬氏と呼ばれたりします。九州の肥前有馬氏と間違えやすいのは、摂津有馬氏が江戸時代の初期に九州の筑後国久留米藩に国替えとなったためかと思われます。

 今回は主に豊臣秀吉に従うようになって飛躍した有馬則頼さんと有馬豊氏さんの話です。

 室町時代初期に足利尊氏を助けた幕府創業の功臣で播磨国の守護となった赤松則村(円心)の孫である赤松則祐の五男である義祐が摂津国有馬郡の守護(分任守護)となり、(※地頭に補せられたとする解説もありました)。その地に移り住んで有馬氏を称しました。明徳2年(1391年)山名氏清が反乱した「明徳の乱」で赤松一族は満則が戦死する等大きな犠牲を払いましたので、戦後の恩賞として赤松義則は美作・播磨・備前三か国の守護となります。その時に義祐に有馬郡の守護が与えられたものです。

 有馬持家の時に第6代将軍足利義教に側近として仕えます。しかし、今度は嘉吉元年に赤松満祐が将軍足利義教を殺害するという「嘉吉の乱」を起こします。赤松宗家が衰退すると、有馬氏は細川氏(京兆家)に接近していきます。有馬村秀の時は、細川氏の家臣であった三好長慶の傘下に入ります。

 織田信長が台頭してくると、摂津一国の支配を任された荒木村重に従うようになります。荒木村重の妻の妹を有馬国秀に嫁がせることになり安泰かと思われたのですが、荒木村重から有岡城に呼び出され、不義があったと問われ、身の潔白を示すために国秀は自害します。有馬家嫡流は子がないため廃絶します。

 分家にあたる有馬重則は、播磨国三木の三津田城(満田城)を本拠地としますが、三木を本拠とする別所氏と対立するようになります。天文23年(1554年)三好長慶に従い、別所方の淡河城(現在の神戸市北区淡河町)を奪ったものの永禄元年(1558年)に奪われています。

 有馬則頼は天文2年(1533年)播磨国三津田城(満田城)で生まれます。三好長慶やその後に別所長治に従っていましたが、天正8年(1580年)織田信長の家臣である羽柴秀吉が中国攻めを開始すると、これに協力し、播磨国淡河3200石を与えられます。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍しますが、その時長男有馬則氏が秀次軍に従って戦死しています。有馬範頼は茶人としても有名であり秀吉の御伽衆にもなります。その後、伏見城築城等の功績もあり、1万5千石まで加増されています。 

 秀吉の死後は、次男の豊氏と共に徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として本戦に参加しています。その功により、慶長6年(1601年)摂津有馬郡三田2万石となります。有馬氏縁故の地です。翌慶長7年(1602年)有馬範頼は亡くなります。

有馬豊氏は永禄12年(1569年)に三木の三津田城にて生まれます。兄の有馬則氏がいたので、姉婿である渡瀬繁詮に仕え、家老を務めていました。文禄4年(1595年)に豊臣秀次事件が起きますと渡瀬繁詮は連座して改易・切腹となります。そして、その時秀吉の命でその所領と家臣を引き継ぎ、遠江国横須賀3万石の領主となります。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と同様に東軍として参加します。戦後、3万石を加増されて丹波福知山6万石となります。慶長7年に父の死によりその遺領三田2万石と合わせて8万石となります。

 さらに元和6年(1620年)に13万石を加増され、筑後久留米21万石となります。大坂の陣の功ということですが、それほど目立った武功がなかったという趣旨のことを子孫が述べられている話が残っています。



 摂津有馬氏は、赤松氏の分家の小領主から秀吉さんとの出会いで、小大名へ。そして、徳川家に接近して飛躍して21万石にまで領地が増えていきます。多様な出自の家臣団で構成されていたため、藩の中では派閥争いがあったそうです。また、江戸城の普請等を引き受けたため、藩の財政を圧迫していたそうです。苦労話も残っているんですね。有馬家の子孫からは、JRAの第2代理事長を務めた方がおられ、その方が創設された中山グランプリは後に有馬記念と名前を改称されているという話も載ってました。

 これで、第20話は終わりです。そして、今回が最終回となります。今まで、お読みいただきました皆様、ありがとうございました。

 新年からは、旗本等で残った戦国大名の話で雑談していこうかなと思ってます。それではまた。

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