第19話は新庄家です
第19話は新庄家です。新庄家は近江国坂田郡新庄の出身で、常陸国麻生藩(現在の茨城県行方市あたり)3万3百石の大名となった新庄直頼さんの話です。
新庄氏は藤原秀郷の後衛と言われた一族の一つで、俊綱の時に今井氏を名乗り、今井遠俊の時に足利尊氏に従って功があり、二代将軍足利義詮に仕えた今井俊名の時に坂田郡新庄に居住して新庄氏を名乗ったと言われています。
新庄直頼の祖父新庄直寛は12代将軍足利義晴に仕えていましたが、直頼が生まれた天文7年(1538年)に討死しています。
歴代の居城は箕浦荘の新庄城でしたが、戦国時代になり新庄直頼の父である新庄直昌の時に湖上交通の要港である朝妻湊を支配するために朝妻城を築いています。その父も天文18年(1549年)に摂津国江口の戦い(管領細川晴元と三好長慶の戦い)で晴元側の三好政長方に加勢して、討死しています。
新庄直頼は、11歳(数え歳だと12歳)で父の跡を継ぐことになります。足利幕府の力が弱くなってくると、近江国では浅井氏と六角氏の勢力が拡大していきます。永禄3年(1560年)野良田の戦いで浅井長政は六角氏に勝利します。新庄直頼は、他の北近江の国人衆と同様に浅井氏に従うようになります。
元亀元年(1570年)に姉川の戦いが起き、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が戦います。新庄直頼は浅井軍の第四陣で約千人の手勢を率いてました。この戦いで、浅井・朝倉側は敗れます。
その後、織田方は浅井方の国人衆の調略・攻略に手を伸ばします。元亀2年(1571年)磯野員昌が佐和山城を開城。降伏します。磯野員昌には代わりに高島郡が与えられています。新庄直頼の朝妻城も丹羽長秀に攻められ、降伏します。新庄直頼は、織田の武将羽柴秀吉の与力となります。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、坂本城の守りを担当します。この頃、大津に1万2千石の領地を与えられます。また、佐久間盛政の娘虎姫を引き取り、養女にしています。(佐久間盛政の妻と新庄直頼の妻が姉妹)その後、虎姫は秀吉の仲介で中川秀成に嫁いでいます。
その後は、領地も大和宇陀城、さらに摂津高槻城3万石と替わっています。また秀吉の馬廻り衆となり、御伽衆にも選ばれています。
秀吉の没後、徳川家康が上洛する際は、加藤清正や浅野幸長らと共に伏見向島にある徳川屋敷の警固の役割を担っていたようです。かねてから、交流があったのかもしれません。警固中は家康さんの囲碁の相手をしていたという話が残っています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時は、新庄直頼の領地周辺の大名が西軍であったため、やむなく西軍として参加して、筒井定次の拠城である伊賀上野城を占拠しています。筒井定次が関東から戻ってくると、城から退去します。また、家康さんに西軍に付かざるを得なかった事情と詫びの手紙を送付しています。しかし、新庄直頼は改易されます。身柄は蒲生家預かりとなります。
その後、慶長9年(1604年)新庄直頼は、常陸国と下野国の8郡合計3万3百石を与えられて大名に復帰します。常陸国麻生藩初代藩主となります。
麻生藩は、途中で石高が減りますが、明治維新まで続きます。
これは、あくまで筆者の推測ですが、新庄直頼さんが大名として復帰できたのは、個人的な交流があったという面と秀吉の没後の政情不安な時に警固に駆けつけてくれたことに対して家康さんが恩義を感じていたためなのかと思われます。
これで第19話は終わりです。ではまた第20話でお会いしましょう。




