第18話は青木家です
第18話は摂津国麻田藩の青木家です。主に初代藩主青木一重さんの話です。麻田藩というのは、現在の大阪府豊中市から池田市あたりに1万石で存在した藩です。豊臣家の七手組の頭で大坂の陣まで豊臣家の家臣として仕えていた青木一重が人生の最後で思わぬことが起こり、徳川の大名として残った話です。かなりマイナーな話だと思いますが、おつきあいください。
青木家は美濃国安八郡青木村が発祥とされています。青木家の藩祖で青木一重の父である青木重直は、享禄元年(1528年)に美濃国で生まれます。美濃国の守護であった土岐頼芸に仕え、土岐頼芸が斎藤道三により追放されると斎藤道三に仕えます。その後、斎藤義龍、斎藤龍興と仕えます。斎藤家が織田信長によって滅ぼされると、織田家に仕えるようになり、丹羽長秀の与力に付けられます。丹羽長秀が亡くなり、丹羽長重の代になると、羽柴秀吉による丹羽家家臣引き抜きが行われ、青木重直も秀吉の家臣となります。摂津国豊島郡(現在の大阪府池田市あたり)に1400石、その後摂津国莵原郡(現在の神戸市東灘区あたり)に360石が加増されます。また、秀吉の御伽衆となります。
青木一重は重直の長男として、天文20年(1551年)に美濃国で生まれます。青木一重は、若い頃に父の下を離れて今川氏真に仕えます。戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居しますが、元亀元年(1570年)に徳川家康に仕えることになります。同年に行われた姉川の戦いでは、朝倉家の武将真柄隆基を討ち取る武功を挙げます。
さらに、三方ヶ原の戦いでは、高天神城の守備を務めています。この戦いで弟の渥美重経が武田勢を食い止めるために戦死しています。同年、父の下に戻り丹羽長秀に仕えます。天正13年(1585年)丹羽長秀が亡くなると父と同じように秀吉さんに仕えるようになります。摂津国豊島郡内及び備中国・伊予国など併せて1万石を与えられます。また、天正16年(1588年)七手組頭の一人とされます。
秀吉さんが亡くなると、豊臣秀頼に仕えています。関ヶ原の戦いの時も七手組頭として大坂城の守備を担当しています。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣の時も七手組頭として、大坂城の守備でした。同年の12月に和議が成立します。
翌慶長20年(1615年)豊臣秀頼と淀殿から和議の礼節使節を駿府の大御所徳川家康の許へ派遣することになり、その一員として選ばれます。他の方は常高院(浅井三姉妹の真ん中で淀殿の妹)、大蔵卿局(淀殿の乳母)、正栄尼(秀頼の乳母)等がおられたようです。そして、駿府からの帰路で京都所司代の板倉勝重の下にいる時に、青木一重は拘禁されます。家康さんの意向で青木一重さんを大坂城で死なせたくないということだと推察されます。
慶長20年(1615年)大坂夏の陣が始まり、大坂城落城の報を聞くと、青木一重は剃髪し、隠棲します。
その後、青木一重は二条城にて家康さんに召し出され、徳川家に再び使えることになります。父の遺領と合わせて1万2千石を与えられます。このうち2千石を旗本として徳川家に仕えていた弟の可直に分与して1万石となります。麻田藩の成立です。
青木一重は幕府への配慮からか、大坂夏の陣で一重の代理で戦った養嗣子の正重を廃嫡します。そして新たに弟可直の長男である重兼を養嗣子とします。元和元年(1619年)に青木一重は隠居します。青木重兼が2代藩主となります。麻田藩は明治維新まで続きます。
これは筆者の個人的見解ですが、青木一重さんは秀頼公のお供をして、あの世へ行くつもりだったのではないかと思います。それが、家康公の「三方ケ原で討死した重経の武功も含めて青木一重を死なせるわけにはいかない。」という思いの方が強かったのかと思われます。
筆者は、以前豊中市立郷土資料館「とよみゅー」に行きました。常設展示室に、麻田藩のことが少しだけですが載ってました。青木一重さんの肖像画(複製)もありました。
これで第18話は終わりです。ではまた第19話でお会いしましょう。




