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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第17話は亀井家です

 第17話は亀井家です。江戸時代初期に津和野藩に移封しましたが、明治維新まで続きました。主に亀井玆矩さんの話です。

 亀井玆矩は尼子氏の家臣である湯永綱の子として弘治3年(1557年)に生まれます。亀井の名前となる前の名前は湯国綱です。永禄9年(1566年)尼子氏が毛利氏に降伏して、戦国大名として滅亡した時はまだ10歳で、流浪の身となります。

 元亀3年(1572年)までは、出雲国で尼子旧臣の下にいたようですが、この年に因幡国山宮の井村氏に身を寄せます。さらに、天正元年(1573年)尼子勝久、山中幸盛(鹿之助)ら尼子再興軍の活動を知ると桐山城に幸盛を訪ねて、そこからは行動を共にします。天正2年(1574年)には幸盛の養女時子(尼子家の家老であった亀井秀綱の二女、幸盛の妻の妹)を妻にして亀井の名跡を継ぎます。この時から亀井玆矩と名乗ります。

 尼子家再興軍の旗頭にされた尼子勝久は、尼子新宮党と言われた尼子誠久の五男として生まれます。生まれてすぐ、父や兄が尼子家当主の晴久から粛清され、まだ幼かったので救出されて僧侶となっていたのですが、尼子旧臣の山中幸盛。立原久綱らに担がれて還俗しています。尼子再興軍は、月山富田城の奪還を試みたり活動していたのですが毛利軍に撃退されていたので、織田信長を頼ってきます。織田家では、中国方面軍司令官として羽柴秀吉に播磨攻略を命じていた時期でしたので、秀吉軍に与力として付けられます。

 秀吉軍による播磨攻略の一環で上月城が落城すると、上月城は尼子勝久(再興軍)に与えられます。しかし、秀吉さんが他方面に出ている隙に、毛利の大軍が上月城を攻め包囲します。救出に向かえば味方も損害が大きくなるため、秀吉さんは主君である信長さんに伺いをたてます。信長さんの返事は、大局的な判断で「尼子再興軍を見捨てる」ことでした。上月城は開城し、尼子勝久は自刃します。山中幸盛は捕らえられて移送中に殺害されます。

 亀井玆矩は尼子旧臣や山中幸盛の正室(亀井秀綱の長女で、亀井玆矩の妻の姉)らを引き取ります。そして、以後は秀吉さんに従います。鳥取城攻めでは、天正8年(1580年)に鹿野城の守将となります。天正9年(1581年)に鳥取城が落城すると、亀井玆矩は鹿野城と気多郡の所領1万3800石を与えられます。(1万3500石と書かれたものもありました)

 亀井玆矩は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、少人数ながら東軍として参加しています。関ヶ原本戦が終わると、因幡国に戻って、因幡国や伯耆国の西軍と戦っています。戦後、高草郡2万4200石を加増されて合計3万8000石となっています。

 亀井玆矩は慶長14年(1609年)、隠居して家督を政矩に譲ります。そして慶長17年(1612年)に亡くなります。

 亀井政矩は、大坂の陣の後の元和3年(1617年)に石見国津和野に国替となります。そして、亀井家は明治維新まで続きます。

秀吉さんが中国大返しで姫路に戻った時に 亀井玆矩さんに「出雲半国を与える予定」だったので、代わりの恩賞地はどこが良いかと聞いたところ、「琉球を賜りたい」と答え、秀吉さんが扇子に「亀井琉球守殿」と書いて与えたという話が残っています。面白いことをいう奴だと思ったんでしょうね。

 これで、第17話は終わりです。では、また第18話でお会いしましょう。

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