第16話は喜連川家(鎌倉公方の足利家)
第16話は喜連川家です。足利尊氏の四男(正室赤橋登子の次男)足利基氏が鎌倉公方として鎌倉に下向したのですが、その子孫が豊臣秀吉の小田原征伐の後に下野国の喜連川に領地が与えられて、喜連川氏に改めて、江戸時代に1万石未満ながら10万石格の大名に準ずる別格の家として残った話です。
鎌倉公方は、室町幕府が関東10か国(相模・武蔵・安房・上総・下総‣常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)を統治するために設置した鎌倉府の長官です。足利尊氏の四男(正室赤橋登子の次男)基氏が初代の鎌倉公方です。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置されました。
最初はうまく機能していたようですが、世代が変わると鎌倉公方は幕府に対して反抗的な態度を取るようになります。2代目氏満、3代目満兼の時も未然に関東管領上杉氏が諫めていました。
4代目足利持氏の時に永享の乱が起こります。詳細は省きますが、足利持氏対関東管領上杉憲実+幕府軍の戦いとなり、持氏は敗れます。いったん、和睦となりますが、6代将軍義教は許さず、持氏及び嫡男の義久は自害します。上杉憲実も出家します。鎌倉公方は一時不在となります。
その後、足利持氏の遺児である成氏が幕府に認められて鎌倉公方になります。また、関東管領も上杉憲実の長男憲忠が就任します。しかし、今度は享徳の乱が起こります。足利成氏は上杉憲忠を殺害します。足利成氏は上杉軍に鎌倉を攻められ下総国古河に逃げます。古河を拠点とするようになったので、古河公方と呼ばれるようになります。幕府は、足利成氏を鎌倉公方から外し、新たに足利政知を鎌倉公方に任命します。しかし、関東の武士の支持を得られず、鎌倉に入ることができず、伊豆国堀越に留まります。堀越公方と呼ばれます。将軍家が上杉氏を支持したので、足利成氏は不利でしたが、上杉内部で長尾景春の反乱が起きたこともあり、文明11年(1479年)上杉顕定は足利成氏と和睦します。
第3代古河公方足利高基の弟義明は、小弓公方を名乗って反抗します。第4代足利晴氏と北条氏綱の連合軍と足利義明の戦い(第1次国府台合戦)となり、義明は戦死します。義明の子頼純は里見氏を頼って安房国に逃げます。
北条氏の勢力が伸びると、山内上杉家の上杉憲政と扇谷上杉家の上杉朝定は手を組み、さらに古河公方足利晴氏を味方に引き入れます。そして、川越城を攻めます。北条氏康は夜襲で連合軍を攻めます(河越夜戦)。この戦いで、北条氏康は勝利し、勢力を拡大していきます。
天文23年(1554年)、北条氏康が古河を攻めて、足利晴氏は降伏します。晴氏は相模国に幽閉され、晴氏の子義氏が第5代古河公方となります。しかし、北条氏の庇護下でのものでした。天正11年、足利義氏が亡くなると、娘の足利氏姫が相続します。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐があり、古河公方の領地も没収されます。その後、秀吉の命で小弓公方足利国朝と足利氏姫が結婚します。国朝には、下野国喜連川400貫(3500石相当)の領地が与えられます。この時に喜連川氏に改めます。文禄2年、足利国朝が病死すると、弟の足利頼氏と氏姫が再婚します。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、足利頼氏は出陣はしなかった(上杉軍の南下に備えて領地にて在陣していたという解説もありました)ものの、戦後に戦勝の祝賀使を遣わしたため、1602年に1000石が加増されています。
幕府が成立すると、喜連川藩となります。石高は1万石未満でしたが、10万石格の大名に準ずる格式が与えられ、参勤交代や諸役も免除されていました。喜連川藩は明治維新まで続きます。
喜連川藩は石高が少ないのに、高い格式を維持するために財政的に苦しかったそうです。奥州街道に宿場町があり、大名が参勤交代で利用する場合は潤ったそうで、藩主が出迎えたという話が残っています。
これで第16話は終わりです。では、また第17話でお会いしましょう。




