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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第15話は北条家です

 第15話は北条家です。北条家は戦国時代に小田原城を本拠に関東に五代約100年間勢力を誇ったのですが、豊臣秀吉の小田原征伐によって関東での支配を失います。しかし、その後僅かながら北条氏規の系統が河内国狭山藩として江戸時代に残りました。

 北条氏の初代は北条早雲(伊勢宗瑞)です。昔は素性がよくわからない浪人が成り上がったかのように書かれていたようでしたが、最近の研究では室町幕府の政所執事を務めていた伊勢氏を出自とする考えが主流となっているそうです。そして、今川義忠に姉(または妹)の北川殿が嫁いでおり、義忠が遠江侵攻中に戦死した後の跡目争いに北川殿の子である竜王丸(後の今川氏親)を支援したことにより、興国寺城と領地を与えられ、今川氏に仕えるようになります。明応2年(1493年)伊豆の堀越公方足利茶々丸を攻め、伊豆へ進出します。さらに明応4年(1495年)に相模国の小田原城の大森藤頼を攻め、城を奪取します。そして、その後永正13年(1516年)三浦氏を滅ぼし、相模国一国を平定します。

 2代目氏綱の時代に姓を北条に改姓し、さらに領国を武蔵・下総方面へと拡大していきます。

 3代目氏康の時代に、天文15年(1546年)の川越合戦に勝利し、山内・扇谷の両上杉氏を関東から追い出しています。

 4代目氏政の時代に、永禄4年(1561年)の上杉謙信、永禄12年(1569年)の武田信玄による小田原攻めを退けています。5代目氏直に家督を譲った後も実権は握っていました。

 天正10年(1582年)に武田氏が滅亡し(甲州征伐)、次いで本能寺の変で織田信長が亡くなると、上野・下野方面へ進出し、北条氏の支配領域は最大となります。

 しかし、天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏は敗れ、関東での支配を失います。この時の処罰では、北条氏政・氏照(氏政の弟)は切腹、北条氏直・氏規(氏政の弟)は高野山へ蟄居となります。

 その後、北条氏直は秀吉から赦免され、1万石を与えられますが、病気(疱瘡といわれています)のため亡くなります。氏直の遺領のうち4千石は北条氏盛(氏規の子)が継ぎます。また、北条氏規にも別に河内国狭山で7千石が与えられています。慶長5年(1600年)氏規が亡くなると、氏盛は家督と遺領を継ぎ合計1万1千石の大名となります。

 北条氏盛は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に参加(徳川家の家臣西尾吉次隊)しています。所領は安堵され、江戸幕府が成立すると、河内国初代藩主となります。

 2代藩主北条氏信の時、元和2年(1616年)に狭山の地に陣屋が設けられています。(それまでは、大坂屋敷で政務を行っていました)

 その後の北条家は明治維新まで続きます。


 筆者は、豊臣秀吉が主人公のドラマ等では小田原征伐で北条氏政が切腹し、北条氏直が高野山に送られ、北条家は滅亡したように描かれていたような気がしてたのですが、嫡流ではないけれど、北条家は江戸時代に大名として残っていたんだと感心しました。

 これで第15話は終わりです。では、また第16話でお会いしましょう。

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