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なんとか残った外様の小大名の話(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第10話は 播磨国 龍野藩 脇坂家です

第10話は最終的に播磨国龍野藩となった脇坂家です。賤ヶ岳の戦いの七本槍の一人である脇坂安治さんと嫡男の安元さんの話です。

 脇坂氏の名は近江国の脇坂野に居住したことが由来と言われています。

脇坂安治は天文23年(1554年)近江国浅井郡脇坂庄で生まれます。養父脇坂安明からみて妻の妹の子にあたります。脇坂安治は、最初は近江国の戦国大名である浅井長政に仕えていましたが、天正元年(1573年)小谷城の戦いで浅井氏が敗れると織田信長に従属します。

 織田家では、明智光秀の与力として、天正3年(1575年)~天正7年(1579年)の丹波平定戦の一つである黒井城の戦いで活躍します。この時、丹波の赤鬼と言われた赤井(荻野)直正に賞賛されています。てんの皮を贈られたという話がありますが後世の創作かもしれないそうです。

 しばらくすると、脇坂安治は、羽柴秀吉の家臣となります。本人の希望によるものとのことですが、何があったのでしょうか。秀吉さんの下では、播磨三木城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに従軍しています。領地も山城国で3000石→播磨国で1万石→大和国で2万石→淡路洲本3万石と少しずつ増えていってます。天正15年(1587年)には、水軍の指揮官になります。豊臣家の水軍は、他に九鬼嘉隆さんや加藤嘉明さんがいます。小田原征伐では、北条氏の水軍の拠点である下田城を攻めています。

 天正20年(1592年)の文禄の役と慶長2年(1597年)の慶長の役では、水軍・陸軍共に参加しています。武功により、淡路国で3000石の加増を受けています。

 関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に際して、安治は大坂に居て、嫡男の安元を派遣しようとしたのですが、途中で石田三成軍に阻まれ、大坂に戻ります。この時、安元は使者を家康に送って状況を説明、承諾を得ています。

 関ヶ原本戦では、西軍として参戦せざるを得なかったのですが、小早川秀秋が大谷吉継隊を攻めたタイミングで、他の3武将と共に寝返り、平塚為広・戸田勝成を攻めています。さらに石田三成の居城である佐和山城攻めにも加わっています。戦後の論功行賞では、所領安堵となっていますが、藤堂高虎の口利きがあったそうです。その後、伊予大洲5万3000石に国替えとなっています。

 慶長19年(1614年)から始まる大坂の陣では、嫡男の安元が参戦しています。安治さんは元和元年(1615年)に隠居し、寛永3年(1626年)に亡くなっています。

 2代目の安元さんの時に信濃国飯田5万5000石に国替えとなり、3代目安政さん(堀田正盛の次男で養子)の時に播磨国龍野6万石に加増移封されます。その後、明治維新まで脇坂家は続きます。

 2代目の安元さんが、徳川譜代大名の堀田正盛(老中を務めた方)から養子を迎えたのは、豊臣恩顧の大名が改易されている状況を見て、脇坂の血統が絶えても大名家を存続させて家臣たちを路頭に迷わせないためだったそうです。時代の流れとはいえ、思い切った決断ですね。

 第10話はこれで終わりです。ではまた、第11話でお会いしましょう。

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