5.守れなかった守護騎士
しばらくの間、高く登っていく煙をぼんやりと眺めていると、前方からフードを目深に被った人物が歩いてくることに気づいた。
シルエットから背が高く体格の良い男性だとわかるが、どこかフラフラと覚束ない足取りで、初めは「ここで酔っ払いに絡まれるのは困るな」と思っただけだった。
しかし彼のローブから覗く特徴的な白銀の制服と腰に佩いた剣を認めて、クロエはさっと顔をこわばらせた。
(守護騎士だわ!)
『守護騎士』は一般的に知られる騎士ではなく、古い戦乱の時代に教会組織を外敵から守るために組織された武装司祭を指す言葉だ。
大きな紛争のない現在では、教会施設内の警備や治安維持、聖女や高位司祭の護衛が主な任務となっており、クロエも一応は聖女だったので、もちろん全員とはいかないが多少顔は知っている。
まさかクロエを探しに来たのかと一瞬焦ったが、落ち着いて考えてみればこの姿を見てクロエだと気づく人間などいるはずがない。
(でも、どうしてこんな所に? 今首都にいる守護騎士のほとんどは、あの処刑場の警護任務に駆り出されていた気がするけど……旅装用のローブってことは、別の任務中なのかな? ………とはいえ、ちょっと様子が変ね)
目的があって歩いているにしては、守護騎士の足運びはひどく緩慢だった。
人気のない場所でひとり座り込んでいるクロエに注意を払う様子も見られない。
そして近づくごとに、彼の纏う気配が冥界を彷徨うという幽鬼のように陰鬱なものであることが伝わってくる。
重い身体を引き摺るように歩く彼が目の前を通り過ぎる瞬間、クロエが少し身構えながらも視線を上げてフードの中を覗き込んでしまったのは、そうすべきだという何か予感めいたものが働いたからかもしれない。
そこに見知ったアッシュグレイの髪を見つけて、クロエは大きく息を呑んだ。
(えっ? ルーウェン・シュトラム………⁈)
教会の奥にあるクロエの私室の前には、警護と称して常時守護騎士が付けられていた。
誰が付くかは日によって違う上に、基本的に彼らは部屋に入らず廊下で待機するだけなので、直接言葉を交わす機会は決して多くない。
ただ、彼らは明らかにクロエを軽んじていた。
そもそも教会内部でも『影の聖女』の真実を知っている者はごく一部だ。
それ以外の人々にとってクロエは『表向きの仕事ができない訳アリの聖女』という認識で、それは守護騎士たちも同様だった。
口には出さずとも彼らの侮りや蔑みは伝わってくるが、特に不都合はなかったのでクロエがそれを気に病んだことはない。
しかし、二年ほど前からクロエの部屋の護衛任務に加わるようになったこのルーウェン・シュトラムという守護騎士だけは違っていた。
初めてルーウェンが警護任務についた日。
就任の挨拶に訪れた彼は、黒いヴェール越しにクロエと目が合った瞬間その場で跪き、最上位の騎士の礼を取ったのだ。
そんな守護騎士はこれまでいなかったので、クロエはものすごく驚いた覚えがある。
それ以降も、役目以上の私的な言葉を交わすことはなかったが、いつも行動の端々に配慮が感じられて、クロエも彼が担当の日は安心感があった。
そしてそれは最後まで変わることがなかった。
訳アリ聖女を軽んじなかった唯一の守護騎士、それがルーウェンだった。
クロエの向ける視線に気づいたのか、彼が俯いていた顔を少し上げる。
互いの視線が絡んだ瞬間、ルーウェンの足がその場に縫い留められたように止まった。
零れそうなほど見開かれた守護騎士の赤い瞳が、聖女とわからないはずのクロエを凝視している。
クロエの方も、ルーウェンの瞳を遮るものなくこれほど近くで見るのは初めてのはずだが、奇妙な既視感を覚えて目が離せなくなった。
(?………この柘榴色の瞳………どこかで……………)
脳裏で瞬いた遠い記憶を手繰り寄せようとクロエが腰を浮かせたとき、ルーウェンは突然、糸が切れた傀儡人形のように膝から崩れ落ちた。
「うひゃ⁈」
クロエが驚きで素っ頓狂な声を上げるのに構わず、守護騎士はなぜか突然頭を振り上げたかと思うと、思い切り地面に打ちつけた。
ゴツッ、と重い音が響いた。
(………⁈ え? えええ⁈)
理解不能の衝撃でクロエが固まっている間にも、ルーウェンは再び頭を振りかぶって地面に打ちつけ続ける。
何度も、何度も。繰り返し。
「あの……ねえ! ちょっと! 止まって! 駄目よ、止まりなさい!」
ようやく我に返ったクロエは、更なる暴挙を続けようとする守護騎士のローブを渾身の力で引っ張る。
本来なら鍛え上げた男性の力に太刀打ちできるはずもないが、引き留める力に気づいたか、制止の声に反応したのか、ルーウェンはぴたりと動きを止めた。
反動で被っていたフードがパサリと肩に落ち、硬質さを醸すアッシュグレイの髪が陽の下にあらわになる。
数秒の間を置いてのろのろと振り返った男は、どこか途方に暮れた目でクロエを見上げた。
熟れた柘榴のように赤々とした瞳。
打ちつけて割れたのか、額から幾筋かの血が高い鼻筋や整った輪郭の縁をひたひたと流れ落ちている。
彼の瞳の中で、御しきれない感情が荒れ狂っている気がした。
(まるで、血色の涙みたいね)
じっと見つめると、ルーウェンは俯いてクロエから視線を外した。
「もうやめてください。見ている方が怖いです。どうしてこんなことするんです?」
クロエが血に染まった守護騎士の額に手を伸ばそうとすると、すぐに手を払われた。
軽い力だったが、ぱちんと音が鳴る。
「うるさい。俺に構うな、ガキ」
痛みやショックからではなく意外さで、クロエの目が真ん丸になった。
教会で見る彼は、常に礼儀正しく誠実で、任務に忠実な守護騎士だった。
しかし遮るヴェールもなくこうして間近で見ると、少しばかり印象が違って見える。
(思ったより荒っぽい感じ? ひょっとしてこっちが素なのかな)
ガキと言われてしまったが、本当の年齢はクロエの方が二、三歳ほど年上のはずだ。
もちろんルーウェンがそのことに気づくはずもないけれど。
クロエは一度の拒否など構うことなく、こてんと細い首を傾げた。
「教会の守護騎士様が、こんなところで何をしてるんです? 今日は大切なお仕事があったんじゃありませんか?」
「………」
今日、大罪人の処刑が行われることは広く告知されていた。
ならば守護騎士にそれなりの任務が与えられると考えるのは当然で、クロエの問いかけは何もおかしなものではない。
色々とおかしいのはルーウェンの方だ。
(まさかとは思うけど、任務を放棄してきたの? 生真面目だったあなたが……一体どうして)
しかし彼は一瞬鋭い目でクロエを睨み、またすぐに視線を外した。
そのまま胸元に下げていた首飾りを乱暴に外し、地面へ叩きつける。そして長い脚を上げ首飾りを思い切り踏みつけた。
「………こんなもの」
小さく呟いた言葉がクロエの耳に届く。
ルーウェンが踏み躙ったのは、聖なる銀で作られた『聖証』だった。
教会に所属する者が常に身に付けている、神に仕える者である証。
ほんの数日前にはクロエの胸元にもあったものだ。
処刑が決まったあと、すぐに取り上げられてしまったけれど。
「こんなもの、なんの意味もない」
吐き捨てられた言葉が、彼の深い失望を表しているようだった。
クロエはルーウェンの足元を見つめ、静かに問いかける。
「………捨ててしまうの?」