卒業試験
風が心地よく肌をなでた。
乾いた空気の中に、ほんのりと草の匂いが混じっている。
どこか遠くで鳥が鳴き、太陽の光がまぶた越しに差し込んでくる。
「……ろ……」
誰かの声が、遠くから波のように押し寄せてくる。
「……おき……ろ……」
目を閉じたまま、声の主を探ろうとするが、頭の中は靄がかかったようにぼんやりしていた。
「起きろ、トキオ!」
――はっ、と意識が引き戻された。
目を開けると、鋭い光を反射する眼鏡越しに、先輩の厳しい顔がこちらを覗き込んでいた。
「おい。今日が何の日か、わかってるんだろ?」
重たいまぶたを指でこすりながら、僕は体を起こす。
「……卒業試験か。出ないって選択は――」
「あるわけないでしょ。寝ぐせ直して、ローブのシワも伸ばして! ほら、行くよ」
呆れたような口調に急かされ、僕はあわてて灰色のローブの裾を払う。
土のついた袖を軽く叩くと、パラパラと細かい埃が舞った。
「そうは言っても、召喚なんて……今まで一度も成功したことないんだけど」
「知ってるわよ。でも、決まりだから仕方ないでしょ」
彼女はメガネを鼻に押し当てながら、ため息をついた。
「君が召喚士としての修行を途中で諦めたのは理解してる。その代わり――」
「剣の腕ならそれなりに上げた。気も、ちょっとは操れるようになった」
「ふぅ……君は本当に……」
彼女は呆れ顔のまま、くるりと背を向けた。
「黒の派閥に所属してるのに、召喚ができないなんて、前代未聞なのよ。君はきっと黒の派閥に所属していた第一号の傭兵になるわね」
「それ、悪口に聞こえるな」
「事実を言っているだけよ」
彼女は前を向いて歩きだした。
僕は苦笑しながら、彼女の背中を追った。
王都の西端にある黒の派閥の本館は、巨大な黒曜石のような建物だった。
壁は光を吸い込むように黒く、まるでそこに存在しないかのような威圧感がある。
その建物に一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気に包まれる。
今日は、僕の十八歳の誕生日。
そして、召喚士としての資格を試される日だった。
孤児院で空腹に耐えていたあの頃。
偶然通りかかった黒の派閥の召喚士に魔力の素質を見抜かれ、僕はここへと引き取られた。
以来、何年も修行を積んできた。
――けれど、どの召喚石も、僕の声に応えることはなかった。
それでも、生きていくために剣を学び、体を鍛え、気の流れを感じる訓練も続けてきた。
もし召喚士として認められなかったとしても、外で生きていけるように。
案内されたのは、僕が最初にこの派閥に来たときに通された試験室だった。
懐かしさと緊張が、胸の奥でざわざわと渦巻く。
コンコン――
「入れ」
鋭く短い声が返ってきた。
深呼吸してから扉を開け、静かに部屋へ入る。
部屋の中央には、黒のローブを着た三人の召喚士が並んで立っていた。
壁には召喚術に関する古文書や図像がびっしりと貼られ、重苦しい空気が部屋全体を支配していた。
僕が一歩踏み出すと、彼らの視線が一斉にこちらに向いた。
しかしその眼差しには、明らかに期待や興味といったものは感じられなかった。
それも当然だ。
彼らは僕に一度だけ召喚術の手ほどきをし、失敗を見届けているのだから。
「名を名乗れ」
「……トキオ、十八歳です。本日は、よろしくお願いします」
無表情な召喚士の一人が、鼻を鳴らした。
「では、得意な召喚術を試みたまえ」
中央の机には、大小さまざまな召喚石が並べられていた。
赤、青、白、黒――それぞれが違う属性を持ち、呼応する者を待っている。
本来なら、自分と相性の良い石は、近づくだけで温かくなったり、光ったりするはずだ。
僕は、祈るような気持ちで手をかざしていった。
しかし、石たちはまるで僕の存在を無視するかのように、何の反応も見せなかった。
――やっぱり、僕は……。
「時間がない。手短に頼むぞ」
召喚士の一人が苛立たしげに言ったその時。
ふと、机の下にある箱が目に入った。
それは、光沢もなければ整備もされていない、使い古された木箱だった。
中には、どの試験でも使われない「失敗石」と呼ばれる召喚石たちが、雑に押し込まれていた。
色が濁り、ひびが入り、魔力の通りが悪い――そんな“使えない”石たち。
けれど、僕は不思議な引力を感じていた。
誰にも選ばれず、忘れ去られたそれらが、今の自分と重なって見えた。
僕は箱に手を入れ、ひとつの石を手に取った。
それは、紫色――と言っても、純粋な紫ではなく、赤みがかっていたり、茶色く見えたりと、どこか不安定な色合いをしていた。
だが、手の中で妙にしっくりと馴染んだ。
「これにしよう」
僕はその石を両手で包み込むように持ち、部屋の中央へ進む。
目を閉じる。
意識を集中させ、ありったけの魔力を石へと流し込んだ。
すると――
空気が変わった。
部屋の温度が一瞬で下がり、壁に貼られていた紙がパサパサと揺れ始める。
「……我、ここに在り」
声が――口から勝手に漏れた。
まるで、自分の中の別の存在が言葉を紡いでいるかのように。
「……望む………………」
僕は、何を望むのだろうか。
自分のすべての魔力をそそぎ、僕は――
風が渦を巻き、部屋の中心に向かって集まり始める。
周囲の音にかき消されながらも、僕の口が何かを唱えているように見えた。
そして――
魔力の奔流が石を軸にして広がり、空間が震え、光が――
爆ぜた。