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飛労録

作者: 大和大陸

朝目覚めるといつものように閉まりきったはずのカーテンから朝日が捻り込んでくる。

重たい体を捻り上げすぐさまシャワーへむかう。

五分ほどで寝汗と朝の憂鬱を流しきり、シャワー室を出ると買っておいていた食パンを2枚、焼くこともせず頬張りながらドライヤーで頭を乾かす。

散らかった部屋の中で適当に目についた衣服を着て、出し入れもせずおいてあるカバンを手に取り家を出る。


今のバイト先は自宅から徒歩と電車を含め30分程度で着く。

まずは真夏の炎天下の中、駅へとむかう。十分程度で駅に着いた頃には、清潔だった体はもう無い。

電車に乗るとピーク時は過ぎているので人がまばらで涼しいエアコンの風に気持ちが良くなる。

電車がバイト先の最寄り駅についてからは徒歩の所要時間は5分程度しかない。

しかし日本の夏は年々暑さが増し5分歩いただけでも汗がこみあげてくる。


バイト先に着くと少しだけ気合いを入れて店に入る。

「おはようございまーす!」

声のトーンを上げ大きな声で挨拶をする。

出勤する時は誰よりも大きな声で挨拶をすることが自分なりのこだわりだ。


「おはよう」「おはやうございます」「おはようぐぉざまぁす」

バイト仲間は皆それぞれタイミングも声量もバラバラだが返事を返してくれる。

「今日も2分遅刻じゃないか」

店長の西田が言ってきた。

そう言われて時計を見ると、そこで初めて遅刻していることに気づく。

「あ、すみません。時間見てませんでした」

いつも通りの失態による落ち込みと店長への申し訳なさからテンションが少し下がってしまう。

「またそれか、いつもいつも注意しているのに治らないんだなお前は。明日からは気をつけるんだぞ」

おまり怒ってなさそうな西田の様子に少し安堵した。

西田は当店の店長で無愛想ではあるが悪い人ではない。バイト仲間達にもそれなりに慕われている。

いつも遅刻やミスばかりの俺にもあまり怒ることなく優しく接してくれる。

ちなみに俺の遅刻は常習的なもので、なぜかいつも時間が過ぎるのを忘れ行動してしまう。

朝起きてシャワーを浴びるまでは時間のことは気にしているのだが、シャワーや支度をしていると気づけば時間が無くなっている。

そんな風にして気が付けばいつも遅刻している。


因みにアルバイト先の店はカフェ西田という、少しアンティークな雰囲気のあるお洒落なカフェだ。

お洒落さが魅力で、料理も美味しいので若い女の子たちや昼休憩のサラリーマン達にも人気の店だ。


出勤すればまず開店準備から始まる

仕事の出来ない俺でもこのルーティンワークは問題無く済ませられる。


いざ開店すると同時にホールとして接客が始まる。

接客も簡単で、きた客を席に案内し注文を聞いてキッチンに伝え、品ができたら持っていくだけだ。

ただこんな簡単な仕事でさえミスをしてしまうのが俺の無能さだ。

以前あったのは会計をしたのになぜか金を受け取らずそのまま帰らしてしまったり、コーヒーとココアの違いが見分けれず提供してしまったり、などと世間一般の凡人には理解できないミスを何度もしてきた功績がある。


この日のピーク時は問題無くこなした。

夕方ごろになり、人も少し減ってきて安心し切っていた時に問題は起きた。

カラン!と扉についたベルが鳴った。客が入ってきた合図だ。

サラリーマン風の五十代くらいの男が入ってきた。

「一人」

とボソッと言った男は入ってきてから一度も目が合っていない。

そんな客はたくさんいるので特に気に留めることもなく席に案内する。

席に座るとすぐその男は注文を始める。

「アイスコーヒーで」

「エスプレッソとアメリカーノありますが、どちらがよろしいですか」

「どう違うの?」

「エスプレッソはコーヒー特有のコクと旨味が凝縮されてるものです。アメリカーノは後味のスッキリした飲みやすいものになってます!」

マニュアル通りの完璧な返しだ

「ふーん、まあハードかソフトかの違いみたいなものか」

「そのような感じですね!」

「じゃアメリカーノで」

「かしこまりました。注文は以上でしょうか?」

「少し小腹が減ってるんだが、コーヒーに合う食べ物なんかある?」

「そうですね、サンドイッチかスイーツとかですかね」

「スイーツねぇ、わらび餅あるんだ珍しいね」

「そうなんですよね、見た目もお洒落なんで若い人にも人気なんですよね」

「ふーん、じゃあこの15種のフルーツサンドで」

「かしこまりました、アメリカーノコーヒーと15種のフルーツサンドですね!少々お待ちください」

「因みに君長いの?」

突然なんでもない質問を投げかけてきた。

「それなりに長いですかね」

これもマニュアル通りの答えで、ほとんど聞かれることはないがこの類の質問をされれば、舐められないように長く働いているふりをするのがこの店の教えだ。

「へ〜、大学生かなんか」

「いやフリーターです。くすぶって生きてます!」

冗談っぽく返すと、無愛想なその男も少し笑みを浮かべてきた。

「そうか、頑張って」

「ありがとうございます。」

意外といい人そうだなと思いながら厨房に帰る。

久々に客と納得できる接客が出来たことにより、満足したせいなのか厨房に戻る頃には注文を通すことを忘れていた。

厨房に戻るとまだ洗われていない食器を洗い出した。

その後も別の客の接客などをし3-40分以上たっていた。

「おーい」

先程のサラリーマン風の男に声をかけられた。

その時、すぐに自分のミスに気がついた。

「すみません、さっきの注文の件ですよね」

「そう、どうしたの?遅いよ」

「すみせん中房との連携ミスで注文通ってなかったみたいです」

自分の保身のため咄嗟に嘘をついた。

「ほんと?忘れてたんじゃないの?」

図星だ。胸がぎゅっと引き締められた気がした。

「あの〜ちょっと確認してきます」

そう言って逃げようとすると

「『確認してきます』じゃなくて、どうなの?」

簡単に逃してくれないタイプの人間だ。

「すみませんでした」

「そうじゃなくて、どうなの?忘れてたんじゃないの?」

すぐに適当な嘘では逃してくれないことを悟った。

「すみませんお客様、注文を通すこと忘れてました。申し訳ございません。」

「そうだよね?ありえないよね」

さっきの優しそうな雰囲気の男とは全く別人のように見える。

「注文忘れるのもありえないけど、客に嘘つくことなんてもっとありえないよね」

言っていることが正論なので余計に心に刺さる。

「どうなってんだ!ここの教育は!さっきのメニューもめちゃくちゃわかりずらかったしさ!なあ!」

徐々に声を張り上げる。

「すみません」

「すみませんじゃないだろうがよ!謝り方ってもんがあんだろうがよぉ!」

流石に土下座まで要求されるほどのミスではないとたかを括っていた、先程までの自分を殴りたい。

しかし簡単には土下座ができない。どれだけ自分のことを卑下していてもそう簡単に体は動かない。

「おい!聞こえてんのかぁ!」

「すみません」

聞こえるか聞こえないかくらいの声で絞り出した。声が精一杯の謝罪だった。

騒ぎを聞きつけた店長が飛んできた。

「どうされましたかお客様」

「どうされましたかじゃねえんだよ!こいつが俺に嘘をついてきたんだよ!どうなってんだ!」

「う、嘘ですか?」

「こいつが俺の注文を厨房に通すのを忘れてたくせに、連携ミスだって言ってきやがったんだよ!」

「あ、そうでしたか、申し訳ございません。沼中には厳しく言っておきます。」

「厳しく言っておくだけか!こんなにも客の尊厳を傷つけて、それだけしかしないのがこの店なのか?あぁ!」

「申し訳ございません。今回のお代はいただきませんので、申し訳ございませんでした」

西田は深々と客に対して頭を下げる。

その光景を見て自分のミスで頭を下げさせている自責の気持ちと、大したミスでもないのにここまで言われる必要があるのかと釈然としない混沌とした感情が心の中で渦巻いていた。そんな表情を読み取られないように自分も頭をさげ顔を見えないようにする。


「沼中ちょっといいか」

客が帰り騒ぎが治ると西田に呼び出された。

自分のミスではもちろんあるが、多少理不尽ではあったため、そこまで厳しく咎められることはないとたかを括っていた。

そんな俺に今までに聞いたことのない声量で雷が落ちた。

「お客様に嘘をつくとはどういうことだ!」

感情をむき出しにして詰め寄ってくる西田を冷静に諭そうとする。

「店長、嘘をついたのは間違ってはいませんが、厨房との連携ミスということにしておけば、少しは怒りを抑えることができるんじゃないかと思いまして」

「確かに最初はいいだろうけど、その後はお客様の様子をてもっと柔軟に対応するんだよ!」

正論をぶつけられると何も言葉が出なくなる

「君はいつもそうだ余裕がないんだよ、だから遅刻するし客にうまく対応できねぇんだよ!」

色々と溜まっていたのだろうか、堰を切ったように感情をぶつけてくる。

「いつまで俺に迷惑かけたら気が済むんだ、いつまで経っても遅刻はなおんねぇしよ、ミスばっかりするし、恥ずかしくはないのか?君はどうすれば・・・」

このまま長く続くことを悟った俺は心の中で耳を塞ぎ感情も殺した。


「お〜い!お〜い!」

「あっ!」

気がつくとは目の前からいなくなっていて、バイト仲間の東が俺の顔の前で手を振っていた。

「大丈夫ですか?中山さん」

「中山?」

「いや違った、沼中さんでしたね。ぼっーとしちゃってましたよ。」

「そうでしたか、すみません。どれくらいここいました?」

「さぁ?五分くらいですかね。まっ、ミスは誰にでもありますし、仕事に戻りましょ」

そう言われて、少し気持ちが楽になり、仕事に戻る。

気持ちを切り替えて仕事に戻るが、働きながらも西田に言われた言葉が頭から離れずなかなか集中できないまま時間だけが過ぎていった。



今日も変わらず一日が始まる

雨音のせいで少し早めに起きた。

カーテンを開けて外を見ると、まるで天がバイトに行くことを阻止しているかのように窓に雨が突き刺している。

どんな天気でも憂鬱な気分なのは俺だけなのだろうか。

いつも通り体を捻り上げ、考えずとも体が勝手に覚えているルーテーィンで朝の支度をして家を出る。


どれだけ憂鬱な気分でもただのバイトだと自分に言い聞かせながら電車に乗る。

駅から徒歩で10分程度でバイト先に着き、事務所の前で一度大きく深呼吸する。

事務所の扉を開けるといつも通り

「おはようございまーーーす!」

普通の人の倍くらいの声量で挨拶するのが自己流だ。

「おはようございまーす!」

「おはようございまーす!」

気持ちのよい挨拶が返ってくるのが今のバイト先だ。

今日は時間通り間に合った。最近入ったばかりなので流石の遅刻魔の俺でも気が引き締まる。

今のバイト先は活気がある、何処にでもあるような居酒屋だ。

ちなみに入社して一週間だが、周りのバイト仲間たちはみんな友好的に接してくれている。

今の段階でもうすでに楽しめているので、ようやく長く続きそうだと感じながら仕事に入る。


「おはようございます。4日目ですね、まずは前回のおさらいからしましょうか」

教育担当の海界すずだ。いつも愛嬌があって可愛らしく接しやすい、年下の先輩だ。何も出来ない俺にも優しく接してくれていて好感を持っている。

客が少ない間に研修を一通り終えた。忙しくなってくると客から注文を取り厨房に伝えるという単純な作業が始まった。

しかしこと居酒屋の場合は注文をとるという単純そうな作業であっても難易度が高い。

客はこちらの状況など考慮することなく飲食の欲求をぶつけてくる。

その注文を聞き漏らさないことも大変だが、その中にも酔っ払って、何を言ってるかわからない客もいれば声が小さくて聞き取れない客やでかい声で横の客の声をかき消す輩なんかもいる。


「お兄さん!」

「はい!お伺いします」

20代前半くらいの若い男の声だ。

席には20前半くらいのチャラチャラしてそうな男女4人組が座っていた。

通路側に座っていたホストのような見た目の金髪の男が言い出す。

「生4つと枝豆、カリカリポテト、串の盛り合わせ、唐揚げ、だし巻き、海老マヨ、アボカド刺身、アヒージョ」

そう言うと男は黙ってメニューをメニュー棚に戻した。

「以上でよろしいでしょうか」

「当たり前だろ?」

「かしこまりました」

反発感情が口から出ないようにグッと堪えて言っい、注文をメモに取る。

すると男の対面に座っている髪の明るい女が言ってきた。

「あ、あとユッケとナムルの盛り合わせで」

『注文あるじゃねぇかよ!』と言いたくなったがこれもグッと堪える。

「ユッケとナムルですね、かしこまりました」

雨のように降ってきた注文をメモしている最中なのに、なんの配慮もない注文の仕方に少し腹が立つが、客なんてそんなものだと自分に言い聞かせる。

注文を厨房に通すとまたすぐに呼ばれる。

忙しい時間の居酒屋であればよくある事だ。

「お兄さん!」

ついさっき聞いた耳残りのある声だ。

「はい!」

厨房を出るとさっきのいけ好かない男がこちらを見て手を上げている。

「お兄さん!」

「あ、はい!」

席に近づくとすぐ話し出す。

「やっぱさっきのだし巻き、海老マヨ、アヒージョなしで」

「あ、かしこまり..」

「その代わり、餃子と刺身の盛り合わせ!」

「かしこまりました。」

『最初っからもう少し考えて呼べよと』思いつつ注文を復唱する。

このような客にすぐ腹を立てている俺はまだ不慣れなだけなんだろうと思いながら厨房に戻る。

注文をキッチンに伝えたのち、すぐにホールに戻る。

「すぃませぇん!」

するとまた先程の席にいる女に声をかけられる。

席にいる派手髪で派手爪の女が少し強めの声で言う。

「最初に注文したやつをなるはやで持ってきてもらえますか〜?お腹空いてて待てないんですけど〜」

「すみません、混み合っておりまして少々お待ちください」

「は〜い」

女はこちらの返答に興味を示さずに、徐にタバコに火をつけだす。

態度の横柄な客にはやはり腹が立つ。店内の客の数を考えればそんなにすぐには品は出てこないとは簡単にわかるはずだ。

そんな正論を客にぶつけても何も生まれないことはわかっているので言葉を飲んで席を離れる。


少し時間が経った頃に注文を受けた商品を先程のイケすかない卓に持っていく。

「お待たせしました!」

「やっときたよ〜」

「すみません、お待たせしてしまって」

俺が卓に品を置く前に、食に飢えた野獣達がお盆に乗った品を貪り取る。

「あのぉ!」

「はい!」

「餃子と刺身まだ来てないんですけど」

「あ、、まだもう少しかかると思いますので少々お待ちください」

こっちの発言には一切反応を示さない連中

想像の中ではもうすでに二発ほど殴っているが、そんなことをすればクビどころでは済まなくなるので感情を殺して仕事に戻る。


出来上がった餃子や刺身の盛り合わせを持って、いきたくもない卓に持っていく。

「すみません、お待たせしました」

そう言って品を卓に置くと、卓とは手を切るつもりで言う。

「ご注文は以上でお間違いないでしょうか」

「あの〜海老マヨまだ来てないんだけど」

一瞬思考が停止したが、頭を整理しすぐ答える。

「先程キャンセルとおっしゃっていたのでキャンセルさせて戴きました」

「いや、違うよ、何言ってんだ!俺がキャンセルしたのはだし巻きとアヒージョだけだ」

いや間違い無くこいつらは海老マヨをキャンセルしたはずだ。いくら客だとは言えど簡単に引くことはできない。

今までこいつらに溜まっていた苛立ちが溢れ出てくる。

「いえ、間違い無くお客様は海老マヨをキャンセルされました、もう一度注文をするということでしたら改めて注文を通します」

「は?なんだその態度は!」

男が席を立ち上がり鬼の形相で顔を近づけてくる。

「こっちは客だぞ舐めてんのかテメェぇ、こっちが海老マヨキャンセルしてねぇって言ってんだからしてねぇんだよ!」

簡単に冷静さを失った客に俺も応戦する。

「お客様は間違いなく海老マヨキャンセルしました!改めて頼みたいと言うことであれば、まずお客様がご自身の謝りを修正してください!」

「はぁ?!やんのかテメェ?喧嘩売ってんだろ?なぁ?」

「なんですか!いくらお客様だとは言えどそんな態度はないですよ!」

俺もここまで言ってしまえばもう引くことはできない。喧嘩を買うように客の柄の悪いツラに顔を近づける。

「おぉやるってことだな!表に出やがれ!」

そう言うと男は俺の首根っこを掴んで店の外に引っ張り出そうとする。

「辞めてください!」

「はぁ?お前が喧嘩売ってきたんだから、さっさと来いよ」

「お客様!」

すると後ろから女の高い声が、気づけばすっかり静まり返っていた店に響き渡る。

海界の声だ。

海界は獲物を追うチーターのようなスピードで俺と客の前に立ち塞がる。

すると間も無く土下の体制を取り頭を床につける。

「お客様本当に申し訳ございません、お客様は一切悪くありません。注文ミスも全てこちらの連携ミスです。

沼中には厳しく注意しておきますのし、お題ももちろん頂きませんので今日のところはどうか、どうかお許しください」

土下座をしながら、涙声で言った海界の言葉により男も押し黙った。

そして若い女の土下座を見て、少し動揺した様子で客は話始める。

「そ、そうだろ悪くねえよな?全部こいつが悪いんだよな?」

「左様でございます」

「そうだ、それでいいんだよ。お前このねェちゃんに感謝しろよ、殺されずに済んだんだからな!もういいいくぞお前ら」

店中の奇異の目に耐えられなくなったのか客達は店を去る。

俺はそんな光景をただ見ながら、海界に土下座をさせてしまった自分への情けなさと理不尽な出来事への怒りに困惑しその場で立ち尽くした。


「おい、なにぼっーとしてんだ早く片付けろよ」

別のバイト仲間の声でふと我に帰る。

気づけば店の静寂がとけ騒がしい店内に戻っていた。

ふと目の前に居たはずの海界の姿がないことに気づいた。

周りを見渡すと、涙で腫れた顔のまま、出て行った害客の卓を片付けていた。

そんな顔を眺めながら自らも残ったグラスや皿を片づけを始めた。

「すっ、すっ」

すみませんの言葉が何故かどうしても言えなかった。

海界は俺が様子を伺っていることに気づくこともなく、あるいは、気づかないふりをしているのか、俺なんかを気にも留めず、片付けを終わらせ淡々と仕事に戻った。


結局この日は海界の様子を伺うことに全ての集中力を費やし、仕事ではミスを連発しバイトを終えた。

「お疲れ様でーす!」

閉店作業が終わると海界は明るい声で挨拶をし、そそくさと帰っていった。

結局土下座の件があって以来一度も海界と口を聞くことはなかった。

「お疲れ様です!」

海界が帰った後、五分程度で店を出る。店の閉店時間は11時と居酒屋にしてはやや早めだ。

この時間になると飲み会帰りのサラリーマンや学生で賑わっている。

賑やかな街を1人、人だかりを突っ切りながら駅に向かう。

いつもは音楽を聴きながら何も考えずただ歩き続ける。

しかしこの日は今日の出来事を整理することで頭がいっぱいだ。

海界に土下座をさせてしまったことを後悔している。そして素直に謝ることができなかった自分への情けなさに気持ちが落ちて行く。

そんな感情がずっと頭の中を駆け巡りながら処理されることなく渦巻いている。

俺はそんな風になると、いつも目も耳も生きてはいるが脳にまで信号が届かない状態だ。

そんな中、目の前に何かが立ち塞がっていることに気が付いた。

すぐに立ち止まり目と耳の信号を脳に送った。

「沼中さん?」

「海界さん!」

海界の方から声をかけてくるとは想定外で、驚きのあまり少し大きな声が出た。

「今日はお疲れ様でした。あの後、ずっと声をかけられなくて、なんというか少し気まずくて」

「そ、そうですよね、さっきはほんとすみませんでした」

相手が怒ってないとわかるとすんなり謝ることができた。

「いえいえ全然気にしないでください。ああいう理不尽なお客さんがいるとやっぱり少し腹がたっちゃいますよね。沼中さんは最近入ったばかりだし居酒屋も初めてですよね?気持ちすごくわかります!少しずつ慣れていきましょうね」

海界は想像以上に広い心の持ち主だった。

「ありがとうございます。そう言っていただけるとすごく助かります。でもなんでまだこの辺りにいたんですか?」

「あ、...なんと言うかその..沼中さんに一声かけたくて。バイト中に声かけられなくてちょっとだけ後悔?しちゃってたんですよね」

「なるほど...」

「へっ、ちょっと気持ち悪いですよねそんなの。声かけれなかっただけで沼中さんのこと待ってるなんて、すみません迷惑でしたよね」

「いえ、そんなことないです。自分も謝りたかったですし」

「ならよかった!」

安堵した様子で笑顔を見せた。

「沼中さん確か割鳥駅でしたよね。私も同じなので一緒に帰りましょ」

こうして二人で一緒に帰ることになった。偶然にも同じ路線で最寄り駅も近いことから帰り道で色々な話をした。

話をしていて分かったのが、海界さんは声優を目指している夢追い人だということ。

事務所に所属しながらレッスンなどを受けつつ、バイトを掛け持ちしているらしい。

しかももう一つのバイトは探偵事務所という少し珍しい仕事だ。

また、俺と海界さんの趣味が洋画鑑賞で一緒だということも分かった。

帰りの電車では好きな映画の話で盛り上がった。

「お疲れ様でした!また来週よろしくお願いします。次回はお客さんと喧嘩しないでくださいね!じゃあ」

そう言って軽く笑顔を見せ、最寄りの駅で降りて帰って行った。

思わぬ展開で少し仲良くなり、嬉しくなった。

バイト先の人と仲良くなれれば働くのも苦じゃなくなる。

帰り道はずっと海界のことを考えていた。

愛嬌があって優しい心の持ち主だ。自分とはまるで正反対のようなそんな彼女が少し気になる。

また声優を目指しているらしいが彼女の声は透き通っていて綺麗だ。見た目も割とかわいい方でバイト先の男達からも人気があるみたいだ。

家に着くともうすっかりバイト中に起きた出来事のことは忘れていた。

こんなにも次の出勤が楽しみになる日はなかなか無いはずだ。

嫌なことがあったのに今日はすぐに眠りにつけた。



目覚ましが鳴る前に外からの朝日が瞑った目に刺さり目を覚ます。

起こしたくもない体を起こしおそらく以前からやってるであろうルーティンをし朝の支度を始める。

まずシャワーを浴び髭を剃る、それから食パンを食べコーヒを流し込んで家を出る。

体が勝手に動くので特に何も考えずこなしている。

今のバイト先は某大手配達業者の倉庫の品出しの仕事だ。

働き出してもう2週間程度はたっているが、これといって嫌なことは無くかなり気楽に働いている。

一緒に働いている人たちは、自分より年上の人もたくさんいるが、同世代の人間も案外いる。

意外と楽しくやれていて、社員の人たちも若いアルバイトには基本的に優しく接してくれている。

自宅からは電車で30分程度で着く、都心から離れた郊外にある。


「おはようございます!」

「おはようございます!おはようございます!」

出勤すればいつも通り更衣室に直行し作業服に着替える。

「よう、沼」

これもいつもの通りで、出勤すればバイト仲間の中森が話しかけてくる。

「おう!おはよう」

「今日チーフ休みだってよ」

「フゥー!」

俺たちはこの掛け声でグータッチを交わす。

「てか昨日の北陸チャンピオンズの動画見たか?」

「どつきあいバトルロワイヤルだろ?」

「そうそう、あれおもろかったよかな〜」

中森は同世代のバイト仲間で俺より半年ほど先輩だ。ひょうきん者で明るく同世代ということもあって波長が合う。

バイト仲間としては最高の人材だ。

いつも2人で仕事中も休憩中も何気ない会話をしながら、つまらない仕事をこなしている。


「キンコンカンコン」

日勤のタームが終了する合図だ。

このチャイムが終わるとみんなそそくさと、終礼を行う場所に集まり、終礼が終わるとすぐにロッカールームへと直行する。

「いや、今日も疲れたなぁ」

「そうだなぁ、早く帰ってYouTubeでも見てぇわ」

「まじそれ。てか腹減ってきたわ。なんか食いかね?」

「おう、いいよ。何食べる?」

「そうだね。やっぱりラーメンとかかな」

「俺もラーメンの気分」

「じゃあ決まりだな。じさっさと着替えて、こんな場所からずらかろうぜ」

「こんな場所からずらかろうって、バイト先を何だと思ってんだよ!」

「へっ、こんな場所地獄だろ」

「言い過ぎだろ!」

話をしながらも、俺たちは誰よりも先に着替え、仕事場を出る。

2人でよく行く仕事場の近くのラーメン屋へより、たわいもない話をしながら、2人でラーメンを胃に駆け込む。食べ終わると長居することもなく店を出て駅に向かい歩き出す。

「食った食った。腹いっぱいで死にそうだわ。」

「いつも食いすぎなんだよ。うまいもんつのは腹八分で充分なんだよ。」

「それは間違いないんだけど、やっぱ食っちゃうんだよね」

「てか、沼中は彼女とかいねぇの?」

「まぁ、おそらくいねぇなぁ」

「なんだよ。おそらくって、自分でわかるだろ!まさかお前ミステリアスな男にでもなろうとしてんのか?」

「そんなんじゃねぇよ、まぁ色々あんだよ」

「やっぱりミステリアスな人間になろうとしてるじゃねぇかよ!やめとけ、お前にはそっち路線は向いてねぇ」

「うるせぇな!」

そう言って軽く頭を叩く

「おい、やったなテメェ」

中森が軽く俺の腹を蹴る。

そうして未だに大人になり切れていない2人が戯れあっている中、背後から女性に声をかけられた。

「中沼さん!」

戯れあっていた体を止め振り返ってみると、そこには見知らぬ女性が立っていた。

「ちょっと久しぶりですね。たまたまこのあたりを通りがかって。最近全然会えなかったから心配だったんですよ」

見知らぬ若い女性から話しかけられると、俺はすぐにこの状況を察した。

「おい沼、彼女いるなら言っとけよ!びっくりするじゃねーか」

当たり前だが、俺の横にいるこの男はこの状況を何も理解していない。

ただこの俺さえもこの子の正体が何者なのかまだ確信は持てないでいる。ただ敬語で話しかけてきている以上、恐らく今の彼女とかではない。

「いえ、彼女とかでは無いんですよね。お友達というか、以前バイトで一緒に働いてたことがあるんです」

「なんだよ!彼女じゃねーのかよ。違うなら違うってちゃんと言えよ」

もちろん否定できるなら否定していた、しかし出来ない。なぜなら俺も今この女性が彼女では無いということを今明白になったのだから。

「てか沼の友達にこんなかわいい子いるんだ!」

そう言うと中森は俺の耳元でささやく。

「彼女じゃ無いんなら俺もお友達になってもいいよな!」

そう言って俺に顔の左半分をシワクチャにして左目を閉じた謎のサインを送り、彼女にすり寄っていく。

「初めまして中森翔って言います!あの〜お名前なんて言うんですか?」

「あ、初めまして海界すずって言います。沼中さんとは昔から仲のいいお友達なんですか?」

海界すずって言うのか、名前を知ることが出来ただけでもかなり楽だ。

初対面でも関係なく積極的に話しかけられる中森の能力には感心する。

「いえ、最近知り合ったばかりなんですよね、でも昔から知ってるくらい仲良いよ。てかすずちゃんかわいいよね、彼氏とかいるの?」

「いえ、今は」

俺は中森の猛凸を体でカットインし話にわって入る。

「お久しぶりです。元気にしてたかな?」

とりあえず適当に話す。見た限りだと同世代くらいで、向こうは敬語で話しているのでおそらく年下だろう。

「お久しぶりです!私はいつも元気です!でも沼中さんは本当に大丈夫でしたか?3週間くらい前に突然バイトに来なくなってからそれっきり連絡もつかなくなってしまって。」

「何してんだよお前!こんなかわいい子の連絡無視しやがって」

「いや、違うんだケータイなくしちゃってさ連絡できなかっただけなんだよ、ごめんな。バイトも辞めようと思ってたとこだしさ、ただ連絡も出来なくてそのままになっちゃてた。」

「そうだったんですね。でもダメですよ」

「え?」

「だって携帯無くしても連絡の仕方はあるじゃ無いですか。ちゃんと連絡しなくちゃダメですよ」

「そうだよな、すまん」

できることなら俺もそうしてる、でも出来ない訳があるのだ。

「今から行きますよ!」

「え、どこに?」

「バイト先!」

「え、えっとそれは流石に気まずいな〜ははぁ」

そんなこと言われると思ってもみなかったので困惑し、誤魔化そうと適当に笑う。

「気まずいとか関係ありません!行きますよ」

海界はそう言うと俺の手を取り歩きだす。

「え、え、いやちょっと待ってよ」

「お、いいじゃねえか沼。デートじゃん!」

「そんなんじゃねえよ!」

中森のガヤを無視して、引っ張り続ける海界。

「さすがに何週間も前に飛んだバイト先にいくのは気まずすぎるっていうか、相当勇気いるよ」

「沼中さんが気まずいとか関係ありません!迷惑かけたんだからちゃんと謝りに行けえないと」

この子の言う通り俺が本当にバイトを飛んだのならば迷惑をかけているに違いない。ただ今まで飛んだバイト先に行ったことなんてないし、どんな顔をして行けばいいかわからない。今更謝っても説教を食らって終わりだ。謝るくらいなら最初からそんなことをするなと思われるだけだ。


結局海界に連れられ、前のバイト先だと思われる居酒屋に着いた。

「さぁ行きますよ。一言謝るだけです。沼中さんなら出来ます。」

店の前に着くとやはり緊張する。どんな顔をされるのだろうか想像もつかない。

海界が店の裏口の扉を開け俺の手を引きながら入っていく。

「店長!」

「お?どうしたすずちゃん」

「沼中さんです!偶然会って連れてきました」

「おぉ!!沼中!元気にしてたか?どうしたんだ心配たんだぞ」

そう言いながら店長と思わしき人物が俺の肩に軽く触れる。

「どうしたんだ!飛んだやつが戻って来るなんて滅多にないぞ」

「沼中さんが謝りたかったらしくて」

「え?」

そんなことは言ってないと言いかけたが、流石にここまできて海界を困らせるわけにはいかないと思い口を閉ざした。

「そうなのか?沼中」

「はい、連絡もなくやめてしまってご迷惑をおかけしました。」

そう言って頭を六十度ほど下げる。

すると一瞬の沈黙のあと店長が話し始める。

「仕事を飛ぶなんて社会人としては失格だ。ここは居酒屋だから1人でも急に抜ければ他のスタッフが大変なんだ。それは分かってるよな?」

「はい。」

「ただな沼中、俺も若い頃は何度もバイト飛んだことある。みんなそういうもんだ。ただバイト飛んでから謝りに来た奴なんて、今まで1人もいなかった。おそらくすずちゃんに連れて来られたんだろうけど、それでもしっかり謝れるやつはそんなにいないぜ」

てっきり説教を食らうと思っていた俺にとって、店長の言葉は意外なものだった。

店長の言葉で安堵し、それと同時にここで働いていた時の記憶が蘇った。

チンピラのような客と注文のことで大揉めした記憶だ。この海界という女性が俺の目の前で客に土下座していた姿を思い出した。

そしてその日、家に帰った時に店の連絡先や一緒に働いてる人たちのも消していた。

こんなにも海界に迷惑をかけてしまっていたのだとようやく思い出した。

「店長、沼中くんもこうやって謝りに来たんだし、復帰してもらいましょうよ」

「んー人手が足りないから、増える分にはありがたいんだけどな...沼中はどうなんだ?」

正直またあの現象が起きてしまうのではないかという不安しかない。ただこんなにも俺に優しくしてくれた人はなかなかいない。

海界は俺のことを気にかけてくれているみたいだ。その気持ちを無碍にはできない。

「…もう一つバイトをしたままでも、可能であればぜひ働かせて頂きたいです」

「いいよ、わかった、次は飛ぶなよ!」

「よ、よろしくお願いします」


駅までの帰り道、海界と2人で話をしながら帰ることになった。

「沼中さん!よく謝れましたね、えらいえらい」

海界はそう言いながら俺の頭を子供をあやすように撫でた。

「ふ、やめろよ」

照れ隠しで海界の手を払う。

「しかも沼中さんが戻ってきてくれてよかった」

「そ、それはよかった」

「ふーん」

そう言って海界は俺の顔を覗き込んでくる。

「なんかあったんですね、だって今日久しぶりに会った時から様子おかしいですもん」

「そ、そうかな?何もないけど」

「なんかよそよそしいというか、、もしかして私のこと忘れてました?」

一瞬、胸の奥にある線のようなものが絞られた感覚に襲われた。

「そ、そんな訳ないよ、久しぶりに会ったからじゃないかな?ほら、俺人見知りだし」

「ふーん、本当にそうならいいですけど」

おそらく俺は今まで誰にも言ったことのない秘密がある。

それをこの子に見透かされつつある。

でも見透かされてもいいのかもしれない、むしろ言ってしまったほうが楽になるのではないかと思っている。

「あのさ…」

「はい?」

やはり言えない。勇気が出ない。こんなことを言ってしまえば嫌われてしまうかもしれない。せっかく仲良くなったのに。

「いや、あのさ海界さんってどこの駅から帰るんだったけ?」

「え!?」

明らかに困惑した表情をした後、俺を蔑んだ目で見ている。

「え、なに?なんか変なこと言った?」

「やっぱり私のこと忘れてる!あれだけ楽しく一緒に帰ったのに!もういい!」

そう言うとそそくさと短い足を車輪のように回転して歩き、十メートル、二十メートルと俺から離れていく。

「ちょっと待ってくれよ」

俺は走って追いかけ、海界の腕を引っ張り引き留めた。

「やっぱり忘れてたんじゃないですか?」

「そ、そんなことないよ!」

「じゃあ、私の最寄りの駅はどこなんですか?」

「え、えっーと」

海界のことで思い出したのは、居酒屋での土下座をさせてしまった時のことだけだったが、なんとかして記憶の奥底から引き出そうと考えた。

「やっぱり覚えてない!もういいです。バイト復帰する話もなかったことにしましょう。」

海界はそう言って俺の腕を振り解き、再び駅の方へと向かい始めた。

こんなにも俺のことを気にかけてくれる子のことも思い出せない、自分への嫌悪感に苛立った。

「ちょっと待ってって言ってんだろ!」

苛立ちから思わず声を荒げてしまった。

すると一瞬で繁華街中の時が止まり、側から見ればカップルが喧嘩しているように見える俺たちは衆目を集めた。

海界も一瞬足が止まったが、振り向くこともせず歩き続けた。

それでも俺は追いかけ再び腕を引っ張っり引き留めた。

「待ってよ、話聞いてくれよ」

「話すことなんかないです」

そう言うと、また腕を振り解こうとするが、今度は俺が海界の腕を強く掴み返した。

「もう放してください!どうせ適当な言い訳するだけでしょ」

そんな中、サラリーマン風の男が声をかけてきた。

「お姉さん、大丈夫ですか?」

「この人が離してくれないんです」

「あんた何やってんだ、女に手出してよ、警察呼ぶよ!」

「俺、記憶喪失なんだ!」

咄嗟に出た言葉だった。面倒になることを察してか、それとも彼女になら言ってもいい気がしたのか、秘密を明かしてしまった。

「何言ってんだあんた!」

「どういうことですか?」

海界は不思議そうな顔をしながらも、どこか納得したような表情で俺を見つめながら言った。

「今まで誰にも言ってこなかったんだけど、俺記憶が消えてしまう病気なんだよ」

「…」

「正直今までの人生であったことを何一つとして覚えてないんだよ。どこで育ったのか、なんで今東京にいるのか何も思い出せないんだよ。

バイトですらも過去にどこでやっていたとか、そういうことも全く…」

「じゃあ、私のことも?」

「正直言うとそうなんだ。たださっき店長に謝りに行った時に断片的に少し思い出したんだ。君が俺のためにお客さんに土下座して謝ってくれたこと、俺を気にかけてくれていたことは少し」

「なんで、言ってくれなかったんですか?」

「え?なんでって、言ったらやばいやつだと思われて離れていくと思ったんだ」

「そんなことないですよ!言ってくれれば、理解します!」

「そ、そうか?」

「はい、全然やばい奴だなんて思いません!それは列記とした沼中さんの個性ですよ」

「個性?」

「そうです!誰だって一つや二つ、人にはない個性があるんです。私だって言っちゃいけないことも平気で言っちゃったりして、それで何度も大変な目に遭ったことあるんですから。直そうと思っても直せなくて、病気だって人に言われたこともありますし。大小あれど沼中さんのもその一つに過ぎません」

「そ、そうなのかもな」

「はい!」

病気が個性だということは、なんとなく納得し切れていない部分もあったが、海界の言葉には少し心が軽くなったのを感じた。

「そうだ!いいこと考えました!」

「いいこと?」

「私が沼中さんの記憶を取り戻すお手伝いをします!」

「え、記憶を取り戻すって…そんなことしたこと多分した事ないし」

「どうやってやるのかはわかりませんが、やってみないことには何もわかりません」

「そんな事をしてもまたすぐ全て忘れてしまうんだよ。また海界さんのことだって傷つけてしまうかもしれない」

「そうなったら、またその時に考えればいいんです。それに分かっていれば傷つきませんし」

「そ、それならいいけど」

「これからなんかあったら、私を頼ってください。沼中さんの唯一の理解者ですから!」

「ありがとう」

そう言うと、俺は少し涙を落としてしまった。

「やめてくださいよ、そんな深い意味で言ったわけじゃないですし」

俺は心がすごく軽くなった気がして、涙が止まらなくなっていた。

「人もいっぱいみてますし…」

「いや、こんなに俺のことを気にかけてくれた人、今までにいなかった気がするから…」

海界は人目を気にしながらも、俺のそばにいて気持ちを落ち着かせてくれた。


結局俺たちはそのまま俺の家の近くの公園で話をしていた。

「でもよく考えたら、記憶がなくても役所には記録が残ってますよね、以前の住所とか本籍地とか、それって調べたこととかってあるんですか?」

「あるみたいなんだけど、最初に記憶を無くした時、身元がわかるものが無かったらしく何処の誰かもわかってない状態なんだ」

「そうだったんですか…でも沼中って名前はどうしてわかったんですか」

「本名じゃないんだ。年齢とかも適当に二十四歳って言ってるだけ。役所に行って新しく戸籍をとったみたいなんだよ。これも覚えてはないんだけど、家に置いてあったメモにそう書いてあった」

「ん〜じゃあ今のところ過去を思い出すための手がかりはないんですね」

海界は眉間に皺を寄せながら何かを考えて、また話出す。

「ただ過去のこと思い出すこと出来るかもしれませんよ」

「ん、どうやって?」

「だって、さっき店長に謝りに行った時に少し思い出したんですよね?」

「う、うん」

「なら、もしかすると、何かしらのトリガーによって、記憶を思い出すことができるかもしれませんよね?」

「まぁそうかもしれないな」

「以前、小説で少し読んだことがあるんです。記憶を失う病気の原因は過去に強いストレスやトラウマを受けたことだって。なので、沼中さんの過去に遡れば、病気の原因となった出来事があると思うんです。そのことがわかれば、今までのことも全て思い出すかもしれないですね。」

「要は、過去のトラウマを解消していけば、なくなった記憶も思い出すかもしれないってことだね」

「あくまで私の推測でしかないので、やってみないことにはわかりません。ただやってみる価値はありそうです」

「でもどうやって過去のことを調べるんだ?携帯にも何にも過去の事は残っていないんだよ。」

「んー、アルバイトで探偵をやっている私からすれば、お家には必ず何か手がかりが残っているはずなんです。なので、沼中さんのお家に行ってみましょう」

「え、今から?」

「はい!」


「家汚いから、ちょっとここで待っててくれる?」

海海さんは結局俺の家にまで来た。一人暮らしの若い男の家なんて大抵が汚い。そんな部屋を女の子に見せるわけにはいかない。

「ちょっと待ってください!」

海会は閉めようとした扉を手で抑える

「今の状態の方が手がかりが残っている可能性が高いです。だから部屋は片付けないでください。」

「そ、そう言われても、俺の部屋、かなり汚いよ?」

「別に構いません。そもそも沼中さんの家がきれいだとなんて思ってませんよ」

「それどういうことだよ!」

「とりあえず入りますよ。お邪魔しまーす。」

そう言うとズカズカ俺の家に入ってくる。

「確かに、想像以上に汚いですね。食べ物のゴミとかもたくさん散らかってますし」

「だから言ったじゃないか」

「とりあえず何か手がかりになるものがないか探してみましょう」

そして俺たちは汚れた部屋の中を物色し始めた。


1時間以上、探していたが、特に手がかりとなりそうなものは見つからなかった。携帯やパソコンの中にも、以前の職場の連絡先や手がかりになるものも全て消去されていた。

「何にも見つからないなぁ」

「そうですね。ただ沼中さんの病気のことを少しわかったかもしれません」

「ん?何か?」

「もしかすると、沼中さんの中には、もう一つの人格があるのかもしれません」

「え、どういうこと?」

「以前の職場や友人の連絡先、過去につながるための手がかりは全て消されていると言う事は、山中さんが意図的に消していると言うことになります」

「いや、俺はそんな事はしてはずだ」

「本当ですか」

「ほんとだよ。もし連絡先が残っていればすぐに連絡するし、バイトだって飛んだりしない」

「そうなんですね。…今の沼中さんの人格では、連絡先を消そうとする意識がない。」

「うん、そんなことするはずがない」

「という事は、つまり沼中さんの中には、もう1人の人格がいて、その人が連絡先を消しているかもしれません。」

「確かに、俺以外の誰かが連絡先を消すとかは考えにくいよな」

「そうなんです。つまり沼中さんのもう1人の人格が記憶が消えてしまうことを分かっていて連絡先なども消したということになります。」

「なるほどな。」

「沼中さんのことが少しでも分かったので一歩前進ですね!」

「まあそうなんだけどさ、探しても何んにもみつかりやしねぇな。コンビニ弁当とか何かのレシートとかゴミしかなくて、肝心なものは何にも残ってねぇ」

「ん?レシート…ゴミの中にもお宝があるかもしれませんよ」

「何言っての?」

「レシートですよ!」

「え?」

「レシートってお店の名前と日時が書いてあるじゃないですか。なので沼中さんが私と一緒に働き始めた時よりも前の日時のものが見つかれば、何かの手かがりになるかもしれません!」

「なるほど、俺が鳥男爵で働き出したのっていつだっけ?」

「確か8月頭の方です。なので、8月よりも前のものを探しましょう。」

「わかった」

そして俺たちは散らかった部屋の中からレシートを探した。


「海界さん!見つけた!」

ゴミの中からレシートのゴミを探し始めて20分程度経ったところだった。

「ほんとですか!?」

「これ見てくれよ」

「八月三十日って書いてますね。場所は原家のコンビニで書いてますね」

「一年前ってとこか。家からも離れているし、何かしらヒントになることがあるかもしれないね」

「そうですね!行ってみるしかありませんね」

「さすがに今からは行かないよね?」

「今日も遅いので、また明日行きましょう」

気づけば、夜中の1時を過ぎていた。

海界を家まで送り、戻ってきた頃には1時半を過ぎていた。

「てか、この家に女の子が来たのは初めてなんじゃね」

寂しさを感じさせないはずの散らかりきった部屋で久々に寂しさを感じた気がして、ふとつぶやいた。

「とうとう俺の家にも女の子が来たのかー!忘れたくねー!」

ドンドン!

横の部屋から壁を叩く音がした。

女の子が家に来ただけで高揚していたが我に帰り恥ずかしくなった。


次の日俺たちは約束通り、原家に来ていた。

「ここですね!中沼さんが来ていたコンビニ」

「そうだな、間違いない」

「じゃあ、早速聞き込みしますか!」

「え、聞き込み?」

「はい!ここに来ていたこと以外何も手掛かりがない訳ですから、聞き込みするしかありません!」

「聞き込みっていっても、何を聞くんだよ」

「とりあえず、行きましょう!」

「お、おい」

海界は店に入ると一直線で店員の方へ向かう。

「あの、すみません」

「はい!」

「つかぬことをお伺いするんですが、お姉さん去年の八月ごろもここで働いていましたか?」

「え、はい」

「因みに、この人よくこのお店に来ていましたか?」

「いや〜ちょっと覚えてないですね」

店長は苦笑いを浮かべ返答する

「じゃあ、そっちの男性の店員さん!」

「あ、はい!」

「この人ここのコンビニに以前来ていたみたいなんですけど、覚えていらっしゃいますかね?」

「い、いえ」

「本当ですか、よく見てみてくださいこの顔!見覚えとかありませんか?」

「いや〜」

「そうですか、んー」

「な、何かありましたか?」

「いえ特には、ありがとうございました」

俺は咄嗟にこの空気から逃れたくて答えた。

「この人記憶喪失なんです!」

「なんで俺が今まで秘密にしてたこと、あっさり言っちゃうんだよ!」

「別に良いじゃないですか、店員さんお忙しい中ありがとうござました!」

海界の活力と配慮の無さに呆れながら一緒に店を出る。

「やっぱり、そう簡単には手掛かり見つかりませんでしたね」

「まぁ、そりゃそうだろ」

「ただ、地道に捜査するのが探偵の仕事です。他にもこの辺りを回ってみましょう!」

「ほんとに見つかるかなぁ」

「沼中じゃん!」

突然、後ろから男の声で声をかけられた。

振り向くと、そこには、見知らぬ高身長イケメンが俺に向かって声をかけていた。

「久しぶりじゃん!何してんだこんなとこで」

「お、おう」

「なんだよ、俺のこと覚えてねーのか?俺だよ。西薩摩」

「も、もちろん覚えてるよ。元気にしてたか」

「やっぱ覚えてたか忘れるわけねーよな。あんだけ仲良くしてたんだから。」

「お、おう、忘れる訳ねぇよ」

「この子は、彼女?」

「そういうのじゃないんだ、友達だよ」

「初めてまして海界と言います」

「あ、はじめまして西薩摩です」

「2人は何してたの?」

「ちょっとまぁぶらぶらと」

「そっか、デートかいいじゃん」

「沼中さん実は記憶喪失なんですよ!」

「え、どういうこと?」

「だからなんでそんなあさっり言っちゃうんだよ!ずっと隠してきてたんだぞ!」

「本当に言ってんの?」

「いや、まぁ」

「そうなんです。この人何かしらのトリガーが起こるとそれまでの記憶が全て無くなっちゃうんですよ」

「沼中、本当なのか?」

「まぁ、一応」

「だからさっき声かけてた時あんなによそよそしかったのか。って事は俺のことも忘れちゃった?」

「まぁ、正直あんまり覚えてないんだよ」

「ショック!」

「それで私たち記憶を思い出せる何か手がかりがないかと思ってこの辺りに来たんです」

「なるほどね…」

そう言って西薩摩は手で顎を触りながら少し斜め上を向き何か考えているようなそぶりを見せた。

「分かった!じゃあ俺たちが昔一緒に働いてた所に行ってみるか。何か思い出せるかもしれねぇし」

「いいですね!是非行きましょう」

早速俺たちは西薩摩の先導で、以前働いていたというお店に向かう。

「優しいし、顔も良いし完璧な友達ですね!」

「ん?まぁな」

俺は海界の言葉で嫉妬心を煽られ、正直に返事できなかった。


「ついた。ここの5階ね」

「何か思い出しましたか?」

「いや、まだ何も」

そこには壁全体が黒ずんでいる古びたビルが建っていた。ディープで怪しげな雰囲気のビルに対して少しの恐怖心を覚えた。

「俺こんな所で働いてたのか」

未知の世界へ誘うエレベーターに乗り、誰かに話しかけた訳でもなく1人で呟いた。

「本当に覚えてないんだな!あんなに毎日来てたのによ」

掠れ切ったベルの音で5階に着いたことを知らされる。

着くとすぐに西薩摩は歩き出し、フロアの奥深くの暗闇に突き進む。

「なんか、怖いですね」

海界は俺だけに聞こえる声で、弱さを見せた。

「そうだな。でも大丈夫だよ」

何が大丈夫なのか自分でもよくわからないが、とりあえず安心させようと言葉を発した。

西薩摩はフロアの一番奥でひっそりと構えている部屋の前に立ち止まりこちらを見て言った。

「入るよ」

「おう」

恐怖心を隠すため、出来るだけ言葉を発さないようにする。

扉を開けるとともにレトロな鈴の音が鳴る。

「木戸さん!お久しぶりです。」

西薩摩はとびっきりの笑顔でカウンターに立っているタキシード姿の男に声をかける。

「竜!久しぶりじゃねーか!元気だっか」

「勿論元気ですよ!マスターは?」

「俺も元気だよ」

木戸は二人の世界に取り残されていた俺たちに気づく

「ん、今日はお客さんでも連れてきたのか?」

「違うんですよ、こいつ覚えてないですか」

「ん?あー沼中くんか!」

「そうなんですよ!懐かしいですよね」

「そうだな!久しぶりじゃないか、急に来なくなって以来か」

「あ、はい」

気まず過ぎてなんと言っていいか分からず適当に返事をする。

「そういえば、こいつ記憶喪失みたいなんですよ、だからマスターのことを覚えてないみたい」

「え、本当に?」

「実は全く思い出せなくて…」

「そうだったのか、なんか寂しいな。で、その子は?」

「友達の海界です」

「初めまして海界です!」

「おー可愛い子じゃないか、うちの店で働いたら稼げそうだな」

「マスター!そういう目でしか女の子見れない所治してください!」

「すまんすまん、つい職業病で。それで今日はどうしたんだい?」

「沼中が記憶喪失って言うからさ、ここ来たらなんか思い出させるかもってことで」

「なるほどそうだったのか、それで何か思い出したか?」

「いや正直まだ何も」

「そうか、分かった!せっかく来たんだしちょっと飲んで行きなよ。何か思い出せるかもしれないし」

「いいですね!少しは安くして下さいよ」

「当たり前よ、その辺のテーブル適当に座りな」

そうして、俺たちは以前働いていたというバーで飲むことになった。

「少し安心しました。マスターの木戸さんいい人そうで」

海界は小声で俺に呟く。

「そうだな」

そうは言ったものの、やはりこの店には違和感を感じる。俺がこんなアングラな雰囲気のバーで本当に働いていたのか。俺とは無縁の世界のように感じた。

「中沼くんはいつから記憶ないの?」

「直近の三週間までの記憶しかなくて」

「そうか大変だな」

「俺が働いてたのっていつ頃ですか」

「もう半年くらい前かな」

「じゃあ、さっきのコンビニにここで働いて居た頃より前にいたということになりますね」

「そういうことになるな」

「何の話?」

当然木戸は疑問に思う。

「中沼さんの散らかりきった、ゴキブリとか平気で出てきそうな汚ったない部屋でレシートを見つけたんです。それがここの近くにあるコンビニで日付が去年の八月ごろの物なんです」

「汚い事をそんなに強調して言うなよ!てかその情報いらねぇだろ!」

「その時期ならまだ沼はここに居なかったね」

「そうなんですね」

「ただそのコンビニ行っても俺何も思い出せなくて、行き詰まってたとこだったんです」

「そんな時に俺と偶然再会ってわけ」

「そういえば働いてた頃、沼中くんに過去のこと聞いてもあんまり答えてくれなかったんだよな。ただ答えれなかっただけなのか」

「多分そうだったと思います」

結局俺たちは三杯程度の酒を飲み少しのスナック菓子を食べながら一時間程度過ごした。


「沼中さん、何か思い出しましたか?」

「いや正直何も」

「そろそろ出ますか他にも捜査したいですし」

「そうだな」

そんな話をしていると、西薩摩と木戸は席を離れバーカウンターの奥にある裏部屋で何か話し始めた。

話が終わると席に戻ってきた。

「そろそろ帰るのか?」

「そうさせて頂きます。街をぶらぶらしてみます。何か手掛かりになる事があるかもしれませんので」

「そうか、何かわかるといいな。またいつでも来てよ」

「ありがとうございます。また来ます。」

「申し訳ないんだけど、流石にただって訳にはいかないんだよ。でも安くはしといたから」

「いえいえ、勿論払いますよ」

そう言って俺は木戸が渡してきた伝票を見る。

「え、」

記載されていた額に驚きを隠せなかった。

「にっ、二十五万五千円…」

「え?」

海界も俺と同じように意表をつかれた。

「どうした?覚えてねぇとは言わせねぇぞ」

木戸は釣り上げた魚を見るようにソファに座る俺たちを見下げ、恐ろしく冷静なトーンで言った。

「な、何のことです?」

「はぁ?本当に覚えてねぇのか」

「申し訳ないんですけど、全く覚えてないです」

「おめぇが働いてたとき、3人組の客の代金回収出来ずに逃げられたんだ。その額が約二十万。あと残りの五万五千は今日おめぇらが飲んだ金額だ」

「はい…?」

「沼中さ自分の失態は自分でケツ拭かなきゃ」

「西薩摩も知ってたのか?」

「おう」

「…それにしてもたっ」

「それにしても高くないですか!」

海界の正義感の強さと、無神経な性格から強気な態度で抵抗する。

俺は海界のように強気で言い返す勇気が出ず無力感に襲われた。

「たけぇだと!?沼中が回収出来なくて不利益を被ったのはこっちなんだよ!その分の方がよっぽどだけぇんだよ!」

「逃げられるような金額を請求する方が悪いでしょ!しかも逃げられたらアルバイトの人に請求するなんて最低!」

「何だとテメェ口の聞き方に気をつけろ!」

そう言うと木戸は海界の胸ぐらを掴み上げ、眉間に皺を寄せ所謂ゼロ距離で睨みつける。

「女だからって手出されねぇとでも思ってんのか!?」

その言葉と同時に平手で腕をふりあげ、今にも叩くような仕草を見せた。

あれだけ威勢の良かった海界も泣きべそをかいた。

俺しかこの場面で引き止める人間はいない、そう思うと勇気なんて無くとも体が勝手に動いた。

「やめて下さい!」

言ったあとに、この後起こる最悪の結末を想像することが出来た。

「何だテメェ!?女の前でカッコつけてんのかぁ?」

「う、海界さんにはて、手を出さないでください!」

相手の目を見ることは出来ず、胸部辺りに目をやり言い放った。

「あぁ、わかった…ならテメェが受けろ!」

そう言ってすぐさま木戸は迷うことなく俺の胸ぐらを引っ張りフルスイングで頬を殴った。

「あぁっ!」

驚きが勝り一瞬痛みは感じなかったが、その後すぐに激痛が走った。

気づけば床に倒れていた。

俺の体を抱き抱えながら、泣きべそをかいている海界と、上から蔑んだ笑みで見ていた木戸と西薩摩がいた。

「なんてひどいことをするんですかぁ!?」

西薩摩はすぐに反応し海界を睨め付けながら言う。

「テメェが受けねえからこうなったんだろうが!」

「やめろ…」

そう言って海界が本当に殴られるかもしれないと思い、頬の痛みが残りながらも体を起こし立ち上がる。

「ほう、お前案外根性あんじゃねえか!ただ次は抵抗できなくしてやる」

そうしてまた木戸の拳が飛んでくる。

「やめてぇ!」

「ぶぅぅ…」

二発目は想定内だったため、情けない声は出さずに済んだ。

不思議と一発目の痛みほどの痛みは感じなかったが、倒れないよう踏ん張ってもまた床に倒れてしまった。

「もういいでしょ!私警察呼ぶ!」

そう言って海界は携帯で電話をかけようとするが、西薩摩がすぐに携帯を奪う。

「おっと、そんなことさせるわけないだろ」

「なんて事するの!イケメンでいい人だと思ってたのに、あんたなんか最低のクズ野郎だわ!」

「おーう、やっと本性現したなクソ女!」

「ひどぃ」

「ヒャヒャヒャァァ泣きそうになってやがるよ」

「ヒャヒャヒャァァ」

木戸も同じように笑う。

「クソ女なんかじゃねえ!」

二発殴られたおかげでこの二人への恐怖感が不思議となくなり、勇気が湧いてきた。

「あぁ?なんだお前まだ生きてたのか?」

「ヒャヒャ!」

「すずちゃんはクソ女なんかじゃなくて、心優しいいい子なんだ。テメェらみたいなクズに言われる筋合いはねぇ!」

そう言って拳に力を入れ、俺は恐らく人生で初めて拳を全力で振った。その軌道は綺麗に木戸のほほに向かって伸び命中させた。

店長の左頬はゆっくりと凹んでいき、それと同時に口が開いていくのがスローモーションで見えた。

その瞬間、ここで働いていた時や西薩摩に誘われ働くようになった経緯を一瞬にして思い出した。

このバーと同時期にカフェで働いていた時に西薩摩と出会った。最初から彼は積極的に話しかけてきて人当たりのいい好青年というイメージだった。仲良くなるともっと給料のいいバイトを紹介してやると言われここのバーを紹介された。

紹介されたときは会員制のバーだと聞き、秘匿性を持たすため、あえて人目のつかない所にあると聞かされた。

当時は特に疑問を持つこともなかったが、働き出してすぐに実態を知った。

働き出して数日経ったとき、絶対に払わないという客が現れた。いつも通り客を脅したが隙を与え逃がしてしまった。

そのあと木戸に殴られ、挙句の果てにその金を俺が払えと言われ逃げ出した。それ以降の記憶はまだ思い出せない。


「あっ!」

木戸は近くのテーブルに倒れ込んだ。

「な、何すんだよ!」

「海界ちゃん行こう!」

俺が殴るとビビって何もしてこない西薩摩をよそに、俺は海界の手を腕を引っ張り全力で店を駆け抜けた。

店を出るとエレベーターに向かいボタンを押した。後ろを振り返るとまだ二人が追ってくる様子はなかった。

意味がないと分かっていてもボタンを連打し続ける。

怯えた様子で後ろを見る海界がより俺を焦らせる。

心臓の鼓動の音が鳴り止まず、エレベーターがくるまでの時間は記憶の限り人生で一番長く感じた。

エレベーターが四階に差し掛かった頃、店からニ人が走って追いかけてきた。

「テメェら待てコラぁぁ!」

その姿が見えた途端連打している強さが増し、より鼓動が早くなった。

チン!

「行こう!」

乗り込みまたボタンを連打する。

「早く閉まれよ」

ガチャン!

扉が閉まり動き始めた頃に二人はエレベーターについた。

「クソ!下に回るぞ!」

そう言って2人が非常階段に向かっているのが見えた。

2人きりの中エレベーターの機械音だけが静かになっていた。

「大丈夫?」

意味のない質問で張り詰めた空気を少しでも和らげようとする。

「はい、でもちょっと怖い」

「…」

チーン

ここは何か安心させる言葉を言うべきだったが、何も言えずエレベーターが地上についた。

「行こう!」

そう言って海界の手を握り全力で走り出す。

ビルから出るとすぐに非常階段を見る。

「待て、コラァァ!!」

ニ階辺りでこちらに怒鳴りながら迫ってくる。

俺たちは真っ先に街の中心街の方へ向かった。

どれくらい走ったのか、周りの景色も見ているようで見えていない、そんな風に体力も忘れてとりあえず走り続けた。


「はぁはぁはぁ」

「はぁはぁはぁ」

「はぁ流石にっもうここはぁまでは来ないだろう」

気づけば二駅先辺りまで来ていて、地べたに座り込んだ。

「はぁはぁはぁはぁ」

なかなか呼吸が整わない海界を見て心配になり水を買ってあげた。

「飲みなよ」

「はぁ!」

獲物を捕食するカメレオンのようなスピードで水を取り、あっという間に飲み切った。

「はぁ、あすみません全部飲んじゃいました。」

「大丈夫だよ」

座り込んで数分が経ち少し鼓動が戻ってきた。

「流石に逃げきれましたかね?」

「多分な。ほんと大変な目に合わせちゃったな、ごめんな。」

「そんな謝らないでください、沼中さんは悪くないですから。そんなことよりお顔大丈夫ですか、腫れたりしてない?」

そう言って俺の頬に触れながら頬をじっと見る。

「大丈夫だよ」

そう言って、海界の手をそっと払う。

「でも少し腫れてます、病院に行きましょうよ」

「大丈夫だって、直ぐにマシになるよ」

「ダメです!心配だからいきましょう。どうしても行かないと言うなら何か薬でも買いましょう」

「わかった、後で薬を買いに行こう」

「はい!それにしてもひどい人たちでしたね理不尽な言いがかりで沼中さんのこと殴るなんて」

「そうだな...実は少し思い出したんだ」

「え?どんな記憶ですか?」

俺は海界に思い出した事すべてを伝えた。

「そうだったんですね、大変でしたね」

「そうだけど、数日もこんなバーで働いて人に迷惑をかけてしまった。ぼったくりバーだって気づいた時にはすぐに逃げ出すべきだったんだよ」

「確かにそれは良くないことですね」

「だよな」

「ただ、今までは何一つ過去のことを知らなかったのに、少しでも知れたってことは一歩前進です。」

「本当に過去のことなんて知る必要あんのかな?知らない方がいいのかも」

「まあ難しく考えず前向きなことだけ考えましょ、ね?」

「うん」

「とりあえず今日は怪我の手当てだけして、帰ってゆっくり休みましょう。」

「そうだな」

「今日の沼中さん少しかっこよかったですよ」

「お、おう。ありがとう」

俺の頬は応急処置をして解散し、長い一日が終わった。


「おはようございます!記憶が無くなってなくて良かったです。」

「おはよう。一週間も経ってないからな」

「正直一週間は怖かったです。沼中さんすぐ記憶失くしちゃうんだから」

「そんな忘れ物したみたいな軽い感じで言わないでくれよ!」

「同じようなものですよ!まあでも先週あんなことがあったのに原家にまたすぐに来ることになるなんて思ってもいませんでしたよ」

「しょうがないんだよ、前回思い出した記憶が原家のバイト先だったからさ」

「まあ原家は広いですから西薩摩さんたちに会う確率も低いと思いますし、早速行きましょう」

先週の出来事で図らずも思い出した記憶をたどり、原家で西薩摩と働いていたカフェのドリームという店に一緒に行くことになった。

「ここだね」

「見た目は普通のおしゃれなカフェですね。ただまだ何があるかわからないので気を付けていきましょう」

「どっからどう見ても真っ当なカフェだから大丈夫だよ」

カランカラン

どこか涼しく感じさせる鈴の音が俺たちを歓迎しているように感じた。

「いらっしゃいませ!二名様でしょうか」

「いえ、私たち客じゃないんです。つかぬ事お伺いしますが、ちょうど一年前の夏ごろこちらで働いていた方とかって今いらっしゃいますか?」

「はい?」

「あ、私たちは彼の過去について調べていまして、実は彼が一年前にこちらで働いていたみたいなんですが事情があって覚えてないんです。

その時のことよく知る方にお話だけでも聞いて見たくて」

「そう...なんですね。それであれば恐らく店長は当時の話がわかるかもしれません。あと十分くらいで出勤してきますので、何か注文されるのであればお席でお待ち頂いても大丈夫ですよ」

俺たちは冷房で冷え切った店内でコーヒーを飲みながら待った。

「ここの雰囲気は覚えてますか?」

「断片的には覚えてる」

「店長の印象は?」

「いい人だったと思うよ。ここの人たちに悪い印象は無かったと思う」

「そうなんですね、何かわかるといいですね」


「お久しぶりです。沼中くん!」

話をしている横から入ってきたのは、スーツを着た三十代くらいの男だ。

記憶の中で店長だという認識のある男だ。

「あ、どうも」

素っ気なくしてしまった。

やはり辞めたバイト先の店長に会うのは気まずいものだ。

「元気にしてたか?辞めて以来だよな?」

「おかげさまで元気でやってます」

「それはよかった。こちらは?」

「初めまして、海界と言います。」

「初めまして、この店で店長をやってます縦長です。彼女さんかな?」

「いえ、ただのお友達です。」

ただの友達だと言われ少し胸が痛くなった。

「それにしても久しぶりだな、一年ぶりくらいか?」

「恐らくそれくらいかと」

「そうだよな、それで今日はどうした?話があるって聞いてたけど」

「実は…お聞きしたい事がありまして、訳あって僕がこちらで働いていた時の記憶がほとんど無いんです。思い出すためにも何か印象的な出来事とか、僕がここの前にどういうところで働いていたかとか、何でもいいんですが教えてほしんです」

「本当なの?当時そんな話は一切してなかったけどね」

「本当です。ここで働いていたことも偶然思い出しただけで、以前は全く覚えてなかったですし思い出したとは言っても一部だけなんですよ」

「…そうだったのか、ただ印象的な出来事とかって言われてもな」

「なんでもいいんです、何かありませんでしたか」

「ん〜西なんとかくんってこと仲良かったけど、それは覚えてる?」

「西薩摩ですよね、最近偶然再会したんですが色々あって話を聞けない状態なんです」

「そうなんだ、他に何かあったかな〜あっ!そういえば常連さんで君のことを知ってるって言ってた人がいた」

「えっ?そんな人がいるんですか!詳しく教えてください」

「君は本当に覚えてないんだな。確か君が前に働いていた店のお客さんって言ってたな。なんか働いていた時に君と揉めたらしくてね、ただ君は覚えてなかったみたいで、そのお客さんから絡まれていた時も適当に足らってたけどね。」

「どこのお店とかって言ってましたか?」

「いやお店の名前とかは聞いてないと思うけど、そのお客さんが原家のカフェって言ってたよ」

「原家のカフェか、山ほどあるな」

「ただ、毎週来るお客さんだから話聞いてみればわかるんじゃないかな。無愛想な人だから話しかけにくいとは思うけどね」

「そうですよね…」

俺と揉めた人にまた会うのは気が引ける。原家での記憶追憶物語が始まってから人に謝ったり、揉めたりばかりだからだ。

「でもこれは大きな収穫ですよ沼中さん!その人と会って話聞いてみましょうよ」

「まあそうだな、他に何も手がかりがない訳だしな。ちなみに他に何か印象的なこととかありましたか」

「ん〜あとは君が突然辞めたことくらいかな」

「あっそうですよね、その時はご迷惑をお掛けしたかと思います、申し訳ございませんでした」

そう言いながら俺は立ち上がって六十度ほど頭を下げ謝った。謝ることは嫌いだが快く話を聞いてくれた縦長には誠意を見せなければいけないと思った。

「冗談だよ気にしなくていいから。それよりそのお客さんは木曜日の夕方くらいに来ることが多いんだ」

「なるほど、木曜日ってことは明日いるかも知れないってことですね」

「そうだね、毎週必ずいるわけではないけどね」

「わかりました、お話ありがとうございました。また明日来てみます」


カランカラン

店の中で待っている俺たちは、扉のベルが鳴るごとに反応しては縦長に合図を求めていた。

「この人も違うみたいだ」

「もう八時になっちゃいましたね」

「今日はもう来ないかもな、それらしきサラリーマン風の男は結構くるけど、どれも違う人みたいだし」

「今日はもう帰りますか」

「そうだな」

そう言って席を立った瞬間、またも扉のベルが鳴り響く

カランカラン

入ってきた男は紺色のスーツを着た五十代くらいのサラリーマン風の男だ。その男を見た瞬間以前の記憶が断片的にだけ蘇った。

その男が来店すると真っ先に縦長がその客に駆け寄って行った。

「いらっしゃいませ!いつもありがとうございます、こちらどうぞ」

そう言って案内するとすぐに俺を見てウインクを始めた。合図するとは聞いていたものの、古典的な方法なのだと現代の若者である俺は驚いた。

合図を与えられても俺はどう話しかければ良いか分からず、ただただ席から見つめ続けることしかできなかった。

するとその男は俺の視線に気がつき、こちらを見てきた。目が合ったまま、数秒見つめ合った。

俺はその男が、俺の顔など覚えてはいないであろうとたかを括っていたが、男が眉を顰めてじっくりと俺を見始めた時に嫌な予感がしてきた。

そして俺から目線を逸らさずそのまま立ち上がりこちらに近づいてきた。

どのみち男と話さなければならないことは分かっていたが、いざ近づいてくると少し恐怖を感じた。

「君、確かカフェ西田で働いてたよね?」

「はい?」

とりあえず、知らないふりをした。

「ほら、西口から少し行ったところの古着屋とかが並んでいるところにあった店だよ」

正直に話すべきなのか、それとも適当に知らないふりをするべきなのか迷った。

「実はですね、店長の縦長さんから過去の僕のことを知っているお客さんがいるとを聞いて今日来たんです」

「はぁ」

「私は記憶喪失で、三週間より前の記憶が無いんです。あなたは以前、僕が働いていた店のお客さんだと聞いて、少しでも何か思い出せないかと思いお話を伺いに来ました。」

「・・・」

突然の告白に面をくらったような難しい表情で黙り込む男を見て俺が主導権を握ったと感じ少し安堵する。

少し考えた後でその男は少しハッとしたような表情で話しだす。

「そういえば君は平気で客にも嘘をつくような人間だったな、これもどうせ嘘なんだろ、そうだろ?」

「嘘って、なんのことですか?」

「ほら、やっぱりそうだ。君は自分を守るためにすぐに嘘をつく人間なんだよ!君が西田で働いていた時も注文を伝え忘れていたことを、厨房の連携ミスのせいにしていた」

「そんな事言われても本当に覚えてないんです!そのカフェ西田ってのも初めて聞いたようにしか思えないんです」

「は?またふざけたことを!やっぱり君みたいな人間は変わらないんだな!あれからもう一年は経っているというのに」

「何を言っているんですか?!何もふざけてなんかない!」

男は感情的になり声を荒げていく

「君は何歳だ!見た限りだと二十代前半ってとこか!社会に出てからもう数年は経っているだろう、どうせまだ学生気分から抜け出せていないんだろう、みっともない。もし親だったら情けなくてありゃしない!」

「何を勝手なことを!」

男の太々しい顔と上から目線で嫌味な物言いで断片に記憶が蘇った。

以前、原家の別のカフェでバイトをしていたときに、俺の注文ミスで怒らせクレーマーと化した客だ。最終的には土下座を要求されたが、渋っていたところ当時の店長に助けられた。


「勝手なことだと?へっ!自分のことすら分かってないとは幸せなやつだ」

「はっ!思い出したよアンタのこと。アンタも変わってないな!こんなとこで、年上ずらして説教か、いい年してつまらねぇ人生だな。親が見たら泣くぞ」

俺は人格を否定されるようなことを言われるとつい頭にきて言動が抑えられなくなる、それも店員という肩書きがなければ尚更だ。言ってしまった後のことを想像もせずに。

「なんだと!それが大人への態度か!店長から聞いたんだな、どこにいるんだ!」

「そうやって自分の思い通りにならない人間がいればすぐに言うこと聞く人間に逃げようとする。正面から向き合おうともせず、楽な道を選ぶ、ずるい大人だ」

今日の俺は想像以上に自分の心を言語化する能力に長けていていた、それと同時に過去にこんなにも人を捲し立てたことがあったのか疑問に思った。

「なんだと!こうやって正面から向き合ってるじゃないか、なんなんだ君は失礼にも程があるだろうが!」

「それはこっちのセリフだ!何も知らない他人を嘘つき呼ばわりするようなやつに言われたくない!」

「なんだと!」

俺たちは自身で冷静になれないほど怒りが燃え上がっていた。

「やめましょうよ、沼中さん言い過ぎですよ」

「良いんだよもう!俺はここの店員でもなんでもないしな。分からせなきゃいけないんだよ、若い奴がみんな自分の思い通りになるって勘違いしてるこの野郎にな」

「そうじゃなくて、みんな見てますよ」

その一言で少し冷静になり現状を俯瞰した。夕方で店が賑わっていることを忘れていた。そして周りを見渡すとほとんどの人間が俺たちを見ていた。

「・・・」

恥ずかしくなり怒りが一気に冷め男に何も言う気がなくなった。

ただそんなことはお構いなしに男は俺に突っかかってくる。

「なんだ!どうした!急に威勢がなくなったな.、恥ずかしくなったのか情けない。今の若い奴らは根気がないんだよ!時代が変わってパワハラだのセクハラだのと、うちの会社の若い奴らみんな言う。そうやって我慢を知らない奴らばりの日本の未来は衰退しかないんだよ」

恐ろしいほどに男が王道の老害であると感じ、こんな大人がまだいるんだと逆に少し関心した。

「お客様、どうされましたか?」

少し離れたところから俺たちの様子を伺っていた縦長が満を辞して割って入ってきた。

「こいつ、俺に舐めたことばかり言いやがる!俺が来ていることをお前が教えたんだな?」

「そうですね。申し訳ありません。まさかこんなことになるなんて」

「そうだよな、お前が教えなければ俺はこんな辱めを受けることなんてなかったんだ!どうしてくれるんだ?」

「申し訳ございません、昔一緒に働いていた者ですので注意しておきます」

「なんで縦長さんが謝るんですか?俺はここの店員じゃないし、謝る必要なんてないです」

苛立ちを羞恥が抑えながら小声で反抗する。

「コイツの嘘つきを直せなかった責任は出会ってきた大人全員にあるからな!」

「だから嘘じゃねぇんだよ」

「は?声が小さすぎて聞こえないよ坊や」

「バカにしやがって!」

殴りたくなるほどの怒りが湧いたがそれを理性が抑える。

「さぁどうしてくれるんだ店長さんよ、こんな不快な店だなんて知らなかったぜ!」

客全員に聞こえるような大きな声で言う、ヤクザのようなやり方だ。

「そんな風に傲慢な態度とって楽しいのかよ。弱い者いじめばっかして楽しいかよ。他の客の顔見てみろよ、アンタがやってる事なんて誰も賛同なんかしてねぇ、みんな嘲笑の眼差しであんたを見てる」

そう言うと男は少し冷静になって周りを見渡した。そこにいる客はみんな良い歳して叫んでいる男を蔑んだ目で見ていた。

「前も同じような態度だったな。アンタがやってることなんて自分の言うことを聞かせて優越感に浸りたいだけのただのストレス発散だ。そんなんじゃアンタの心は満たされないよ」

この男への苛立ちが無くなってはいないが、怒りを抑え冷静なトーンで話した。

「何を知ったような口利きやがって」

男も少し冷静なトーンで話す。

「アンタのことは知らないけど、何と無く分かる気がする。満たされないから傲慢な態度で優越感を得ようとする。でもそんな事しても満たされるのは一時的だって気づいているだろ。アンタが本当にやらなきゃいけないことは人を思いやって尊敬される大人になることだよ。それでアンタを慕ってくれる人が増えれば満たされるようになるんじゃないかな」

「だから!!オメェに俺の何がわかるんだって言ってんだよ、大して社会に出たこともないくせに偉そうにしやがって」

そう言って男は俺の胸ぐらを両手で掴み一センチくらいまで顔を近づけ叫んだ。

「アンタのこと知らないけど、図星だからこんなに怒ってんだろ」

男は返す言葉が見つからず、俺の胸ぐらを掴んだまま俺を睨みつけるだけだった。

「お客様!暴力は辞めましょう」

そう言って縦長は男の腕を優しく振り解いた。

「沼中の言い方はよくないと思いますが僭越ながら彼の言ってることも一理あると思います。高圧的な態度では誰もついて来ませんよ。あと他のお客様にご迷惑になりますので落ち着いてお話ししていただければ幸いです」

「何だと!ふざけた店員とふざけた客しか居ないのか!こんな店はもうニ度と来ねぇ!」

そう言ってそそくさと荷物を取り、財布から適当に取った千円余りの金を置き、終始怪訝な顔をしながら帰って行った。

「ふぅ、大変だったな沼中」

「そうですね」

「沼中があんな風に捲し立てられる奴だなんて思ってなかったよ。あんなに芯を食ったようなことなかなか言えないぜ」

「自分でも驚きました、でもこんなに言っちゃって大丈夫かなとも思いましたけど」

「大丈夫だよ!ああいう人には時にハッキリ言うべきなんだよ」

「でも沼中さんにも非はあると思います」

誰もが味方をしてくれると思い込んでいた俺にとって海界の言葉は冷や水を掛けられるような気分だった。

「確かにあの人の態度は悪いです。ただ沼中さんも言い過ぎですし、それに働いていたときに嘘ついたのも事実なんでしょ。子供みたいに酷い言葉で罵ればいいってもんじゃない。沼中さんが謝って大人になる事で本来の目的も果たせたんじゃないですか?」

「それはそうだけど、そもそもここまで罵られるような嘘ではなかった」

「そうですけど、そう言うことを言っているんじゃ無くて、たまには大人になって負け役になる事も必要なんじゃないですか。そうじゃないとあんな人とぶつかってもまともに話なんか出来ませんよ。相手は年上ですけど、私の感じた限り精神年齢は沼中さんよりもっと幼い」

「俺から謙るなんてしたくないけど、すずちゃの言う通り本来の目的は何も達成してないもんな。結局何も思い出せなかった」

「そうですよ、また会ったら謝りましょう。それで何か記憶を思い出す手掛かりになる事聞けるかもしれませんし」

「…わかった」

おれは渋々ではあったが海界の提案を受け入れた。

「まぁ、でも正面からぶつかって意見を言ってた姿はかっこよかったです。」

「ありがとう」

照れを隠す為にそっけなく返した。

「それでどうします?カフェ西田というお店で働いてたってことだけは分かったので、行ってみますか?」

「そうだな、手掛かりはそれしか無いわけだし行ってみるか」

そう言いながら内心、また飛んだバイト先に行き、気まずい空気の中謝罪しなければいけないことに少し疲れを感じていた。ただそんな弱音を吐くことは海界の前では出来なかった。

「ただ今日はもう夜になっちまったし、また今度にしようか」

「そうですね。わかりました」

「縦長さん、今日は本当にご迷惑をおかけし、本当にすみませんでした。」

「まぁいいよ、最初に騒ぎだしたのは向こうな訳だし。またいつでも寄ってよ!俺はいつでもウェルカムだよ」

「私からもすみませんでした」

海界はそう言って縦長に深々と頭を下げた。

また海界は少し大きめな声で客全員に向けて頭を下げた。

「お騒がせして申し訳ございませんでした!」

「すみませんでした。」

俺も海界に感化され恥ずかしさを堪えながら頭を下げた。


「いやぁ、なかなか一筋縄では行きませんね」

「ほんと大変だよ。こんなことに巻き込んじゃってごめんな」

「いいですよ、私から言い出したことなんだし」

駅に向かう帰り道は、先程の出来事のせいで疲れたのか、会話があまり弾まなかった。


「そういえば、すずちゃんはなんで俺の記憶を取り戻す手伝いをしてくれるの?」

「なんでって…面白いからですかね?」

「面白い?」

「こんな経験はできないじゃないですか、人の記憶を取り戻すなんて。意外と私は楽しんでますよ!だから気にしないでください」

「そうなんだ。じゃあ心配しなくて大丈夫そうかな?」

「はい!あ、あと沼中さんは幼稚でダメダメなクズじゃないですか、だから私がいないと何もできないので手伝ってるんです!」

「なんてこと言うんだよ!冗談でもひどいぞ」

「うふふ」

海界の答えは彼女らしいものだった。彼女はいつも前向きな言葉しか言わないが俺にはまだ彼女の本心が分からない。俺はそんなミステリアスな部分に気付かずに惹かれてしまっている。


「あの時は本当に申し訳ございませんでした!」

「まあいいよ気にしないで、今日はそれだけ?」

「それもあるんですが、実はお聞きしたいことがあって」

「そうだよな、わざわざ飛んだバイト先に謝りに来るだけなんて無いよな。でなに?また働かせて欲しいとか?」

「いえ、実は私、記憶喪失でして、以前ここで働いていたことすらも覚えてないんですよ」

「記憶喪失?」

「そうなんです。何かしらの出来事がトリガーになって記憶が無くなってしまったり、また思い出したりするんです」

「それ病気じゃんか?病院行きなよ」

「ま、まぁそれはそうなんですけど」

「なに?なんか行きたくない理由でもあんの?」

「いえそういうことじゃないんですけど、今日ここに来たのはですね何か思い出せるかもしれないと思って来たんです。ある方からここで働いていたって事を聞きまして」

「へぇ、誰?」

「あの〜僕がここで働いていた時に揉めたお客さんらしくて、名前は分からないんですがサラリーマン風の中年の男性の方で」

「あ〜、青島さんね。気難しい人だろ?よくまともに話なんか出来たな」

「まともには話せなかったんですけど、まぁ成り行きで聞けまして」

「そうか」

「それで、僕が働いていた時に何か印象的なこととか、何か言っていたとか、記憶を思い出す手がかりになること、何か覚えていませんかね?」

「いや〜正直君がいたの短かったからね。その青島さんとちょっと揉めたことくらいしか印象に残ってないよ」

「そうでしたか…これで手がかりは無くなったなぁ」

「そうですね、困っちゃいましたね」

「いつまでの記憶ならあるの?」

「ここ二ヶ月くらいは」

「それより前は全く覚えてないってこと?」

「断片的には思い出したこともあるんですが、それより以前は一切無いんです」

「てことは自分がどこの出身か、とかも分からないってこと?」

「どこの生まれか、どこで育ったか、親のことだって思い出せないんです」

「じゃあこんなことする前に役所にでも行ったら昔の住所とか調べられるんじゃない?」

「行ったことがあるんですが、何も分からなかったんです。どうやら最初に記憶喪失になった時に身元がわかるものは何も残ってなかったみたいで、新しく戸籍を発行したらしいんです。だからこの沼中っていう名前も自分で考えたものらしくて本名すらも分からないんです」

「最初にってことはその後も何回か記憶喪失になってるってことなのか?」

「何回かはわかりませんが、そうなんです」

「なるほどね、それで今は過去の記憶を取り戻す手がかりになる事を探してるって訳か」

「そうなんです」

「そうだな、ん〜」

そう言って西田は少し気難しそうな顔をしながら斜め上を見て何かを考えている。

「あっ!!そういえば!君と同じ時期にここで働いていた東って奴がいたんだけど、彼が君と地元が同じって最初は言ってたんだよ。でも結局名前が全然違うから、よく似た人違いだって言ってた」

「えっと、それはつまりどう言う事ですか?」

「だからぁ!つま」

「つまり!!その東って人は沼中さんを人違いだと思ってたけど、人違いじゃ無くて本人だと言う事ですよ!」

「えっ!それって…」

「そうです!沼中さんがどこの誰かがやっとわかるんですよ!」

「…」

突然、俺が求めていた答えに大きく近づいたことに衝撃を受け、どういうリアクションをしていいかが分からなくなった。

「もちろん本当にただの人違いの可能性もありますが、ただ本当に沼中さんがその東という人が思っている人なんだとしたらここまでの努力が報われますよ」

「お、おう!そうだな」

「良かったじゃないか沼中!自分のアイデンティティがわかるなんて人生の大きな変化じゃないか」

「そ、そうですね!良かったです」

「なんだ?嬉しくなさそうだな」

「いえいえ、そんなことは…」

「因みにその東って方の連絡先とかは分かりますか?」

海界は俺が困惑している事を悟ったようだが、無視して話を進める。

「あぁ、今でもたまに来ることがあってな連絡先教えるよ」

「ありがとうございます!アルバイトを飛んだこんなダメでなんの取り柄もないような一生恩を返すこともしなさそうな、こんな男に優しくしていただき有り難うございました」

「酷い言われようだな」

「もう慣れました」


俺たちは西田店長に東という人物の連絡先を聞きすぐに電話した。

そして東は本当に俺の同級生らしく、どうやら俺は宇都宮で生まれ育ったらしい。

そして俺の本当の名前は中山敬、年齢は23歳で高校卒業してからしばらくして、地元から理由もよくわからないまま消えてしまったらしい。


人が熱望しているものが手に入るときは、いつも突然であっけないと感じさせる。ここまで苦労してきたことは何だったのか、そんな気持ちにさせるほど、答えにたどり着く道のりは単純なものだった。

「これからなんと呼びましょうかね?」

「沼中でいいよ。そのほうがなんか...」

「わかりました!沼中さん!」

カフェ西田から出て俺たちはさっそく宇都宮に行くため駅に向かっていた。

道中、ずっと黙り込んでいる俺の様子を窺いながら海界は話しかける。

「沼中さんのこと知れてよかったですね!」

「そうだね」

「どうしたんですか?何か嬉しくなさそうですけど」

「もちろん嬉しいよ。でもなんとなく怖いんだ。よくわからないけど、頭の奥底にいるもう一人の自分みたいなやつが行くなって言っている気がするんだ」

俺は話しながらどんな顔をしていたのか、海界のリアクションで大体わかった。

海界は今まで見たことのないくらいの満面の笑みと大きな声で言った。

「大丈夫です!」

なんの根拠もないであろうが、威勢だけはいい彼女の言葉はなぜか少し俺に勇気をくれた。

「私がついてますから!絶対に大丈夫!一緒に乗り越えていきましょう!」

彼女といれば、どんなことでも乗り越えられる気がした。そんな風に思わせてくれる彼女は非凡な才能の持ち主だ。

「ありがとう...」


「そういえばさっき西田店長と話してて思ったんですけど、病院で診てもらうことしてないな~って思ったんですよね」

「病院か、たぶん記憶をなくした最初のころは行ってたんだろうけど、俺のことだから面倒になって行かなくなったんだろうな」

「沼中さんっぽい」

「ははぁッ!なんか面倒くせぇよな病院通うって」

「わかります。実は私も病院は苦手でして、ほらなんか痛い思いするの嫌ですし。でも沼中さんの場合はそういうのもないと思いますし、とりあえず一回だけでも今度行ってみましょう。戻った記憶もあるわけですし」

「そうだな、一回行ってみればまた何か新しいことわかるかもしれないしな。とりあえず今は宇都宮に行って俺のこと調べないと!」

そんな話をしながら原家の繁華街を歩いていると

ドンッ!

通行人と肩がぶつかった。

「すみません」

「気をつけろよ、ん?お前あのカフェにいたあいつだな?」

「あんたか、青島とかいう..」

「またお前か!頻繁に会うとは俺も運が悪りぃぜ」

それはこっちのセリフだと言いたくなったが、もうこいつには用はない。突っかかって来たのを無視して歩き出した。

「おい!何にも言わねぇのかよ!あの時の威勢はどうした!?」

「じゃあな、おっさん!」

「何がおっさんだ!この野郎!」

青島のヤジは気にも留めず去った。

「ケンカしなかったですね、えらい!」

「もうあんな奴に用は無いからな」

「間違いありません。でもあの人こんな昼間っから原家をうろうろして、何してる人なんですかね?」

「まぁなんでもいいよ、俺達には一生関係ないことだし」

「そうですね!」

そうこうしているうちに俺たちは駅の目の前の交差点まで来ていた。

信号待ちをしていると、対面の歩道で信号待ちをしている男がふと気になった。

そして向こうもこちらを見ているように思える。

「海界さん、あれって...」

そういうと信号が青に切り替わった。するとすぐ海界は動揺しながら言った。

「沼中さん逃げましょう!」

そう言うとすぐ俺の腕を掴み、元来た道に走り出した。

信号が変わるとすぐ、向こう側にいる男たちも俺たちを目掛けて走り出した。

「はぁはぁはぁはぁ」

繁華街を走り抜けている俺たちの姿は衆目の目に留まった。

どれだけ走っても、振り返れば彼らの姿が見える。

「こっち!」

まっすぐ逃げても追いつかれるので、俺たちは原家の飲み屋街の小さな路地に逃げ込んだ。

「はぁはぁはぁ」

「いた!こっちだ!」

振り切ったと思っても、またすぐに追いつかれる。

「クソッ!悪い予感が当たってしまった」

「とりあえずこっちに行きましょう!」

そういってがむしゃらに走り続けた。

角を曲がるとそこには見覚えのない金髪で柄シャツの男が二人立っていた。

「おい!待てお前ら!」

「だれ?あの人たち」

「わからない、とりあえず逃げよう」

戻ってきた道を戻り、また別の逃げ道を探す。

「おいおい、何逃げてんだよ!」

別の道でも見知らぬガラの悪い男たちに道を阻まれた。

そして気づけば、俺たちは原家の誰も立ち入らなさそうな裏路地で見知らぬ男たちと西薩摩、ぼったくりバーとマスター木戸に囲まれていた。

「相変わらず逃げ足だけは速いんだな沼中よ!!」

西薩摩が偉そうな態度と大きな声で話し出す。

「クソッ!なんだよ!」

「なんだよ!じゃねぇだろ!忘れたとは言わせねぇぞ」

西薩摩の後ろから木戸が話し出す。

「お前が払わなかった二十五万と利息の十五万円。あとはこの顔の慰謝料百万、合計で百四十万払って貰うぞ!」

「百四十万!?そんなの払えるわけねぇだろ!」

「払えるか払えないなんかは関係ねぇ、お前には払う義務がある」

「何言ってんだ?そもそも先に殴ってきたのはあんただろ!てか利息が十五万なんてそんなの許されるわけないだろ!」

「何ゴタゴタ言ってんだ!!何んでもいいから払えって言ってんだろ!」

「オラァァ、ゴタゴタ言ってんじゃねぇよ!」

「ぶっ飛ばすぞこらぁ!」

周りのヤジがわかりやすく反社であることを物語っている。

「とりあえずこいつら連れてくぞ」

そう言って男たちは俺たちに近づき腕を掴まれ引っ張られ始めた。

「離せよ何処に行くんだよ!」

「うるせぇ、さっさとこい」

「離してっ!暴力はやめて!」

「うるせぇ!叫ぶな!」

「やめてっ!離して!」

「うるせぇな!」

パンッ!

そう言って海界のすぐそばにいた金髪の男が海界を平手打ちした。

「痛いっ!」

「おい!やめろ!!」

「ほら行くぞ!」

こうして俺たちは前回連れて行かれた雑居ビルのバーに再び連れて行かれた。


「さぁどうしてくれるんだ?」

俺たちは狭い店の中で柄の悪い男たちに囲まれて、逃げる余地もない状態だった。

こんな状況で俺はどうしていいか解決策が検討もつかず焦っていく。

「どうするって言われても、そんな金額どうしようも出来ねぇよ」

「どうしようもできねぇならしょうがねぇ、この女に体でもなんでも売って稼いでもらうしかねぇなぁ!」

そう言って木戸が海界を至近距離で体全体を舐め回すように見る。

「その子は関係ないだろ!全部俺の責任だ!」

「それはどうかな?お前と一緒にここで飲んでたし、お前が俺を殴った時に目の前で見てて止めなかったしな!この子にも払う義務はあるんじゃねぇか」

「どういうことだ、言ってることがメチャクチャじゃないか!そんな法律なんてない!」

「ゴタゴタ言ってんじゃねぇ!木戸さんが払えって言ってんだから、払え!」

西薩摩が顔のシワを中心に寄せ、俺の胸ぐらを掴み耳がちぎれるほどの大きな声で叫んだ。

前回俺が木戸を殴ったことで萎縮して、何も言ってこなかった男とは思えないほど今日は威勢がいい。

「うるせぇ、触るんじゃねぇよ」

この人数に囲まれていれば手を振り払う度胸もないので、言葉で抵抗することしか出来なかった。

「まだ分からないみたいだな、ならそろそろ分からせてやろうか!」

バン!

突然、木戸は海界の頬に平手打ちをした。

「きゃっ!」

「お前らなんてことするんだ!女に手を上げるなんて男のやることか!」

「沼中くん、今はジェンダーレスの時代なんだよ、暴力を振るう相手に男も女もない時代なんだよ」

バン!

「きゃっ!...っなにするのよ!」

「やめろっ!」

「やめねぇよテメェが金払うって約束するまではな!」

バン!

「やめろって言ってんだろ!」

「じゃあどーするんだ?いつまでに払うんだ?」

「...」

「どーすんだって聞いてんだよ!」

「...」

「木戸さん、こいつビビりすぎて口の利き方も忘れちまったんじゃないっすかね?」

「分かった払うよ」

俺は払える目処なんて一切なかったが、とりあえずこの場を収めるため放った。

「沼中さん...?」

「どうやって?」

「働いて払う」

「どこで働いて、いつまでに払うんだよ!」

「...とにかく働いて払うよ、それでいいだろ」

「はぁぁあ!!??」

木戸はそう叫び海界を放し、俺に詰め寄ってきて、胸ぐらを掴み上げ怒鳴った。

「テメェみたいなフリーターの分際で働いて払うだと!!何光年待てばいいんだよ!!」

「...」

以前よりも威勢が増した木戸の圧に負け何も言えず固まってしまった。

「すっすっ、沼中さん、そんなお金払わなくていいです」

海界は泣きながらも、敵しかいないこの孤立無援な状況に反旗を翻した。

「何だ?まだ抵抗すんのか?肝の座った女だな、よしよししてやるよ」

そう言って木戸は再び海界に近づき、髪の毛を犬を扱うように撫でた。

「やめてっ!」

「はぁ?舐めた女だな、こっちが褒めてやってんのに何だその態度は!」

そう言って木戸はまた海界の頬を平手打ちした。

バン!

「痛いっ!」

「だからやめろって言ってんだろ!」

「だからどーすんだって聞いてんだよ!どうやって稼いでいつまでに払うのか!ちゃんと教えろ!」

「だから今すぐに目処なんて立てられねぇんだよ!ただ何とかする、何とかするからもうこれ以上すずちゃんを傷つけないでくれ!」

「そんなんじゃ信用できねぇよ、本当にこの子に風俗で働らいてもらうしかなさそうだな」

「そんなことはさせねぇ!俺が何とかする!」

「沼中さんは払わなくていいです!私もそんなところで働かされる義務はありません!そもそもこんなことして許されると思ってるんですか!?これは監禁にあたるんですよ!警察に行けば逮捕されるんですよ。それが嫌であれば返してください!」

そんなこと言っても通じないであろう相手に言い放った海界の言動は困惑からくるものなのか、目的がよく分からなかったが、彼女の勇気には感心した。

「何言ってんだお前?こんな状況で無事に帰れるとでも思ってんのか?」

「...」

「そもそもこんな閉鎖された状況で証拠もないだろ、どうやって証明するんだ?」

「...」

「そんなことも考えずに突っかかってくるなんてバカ丸出しだな」

「すっ、すっ」

止めていたであろう涙腺が本人の意思に反して緩み出した。

俺はそんな姿を見て、海界に涙を流させてしまった無力さに心が折れ、膝を崩して涙を流してしまった。

「ぅう、もうこれ以上すずちゃんをいじめないでくれよぉ、これ以上傷つけないでくれよ。俺たちが何をしたんだって言うんだ?金ならいずれ払うって言ってるじゃないか、それでいいだろぅ?」

「へっ泣いてるぜこいつ、ハッハッハ!」

「ハッハッハ!」

「泣いてて気持ち悪りぃ。もう一発言っとくか」

バン!

また木戸は海界に平手打ちを始めた。

俺は恥も外聞もなくし、我を忘れ相手の足元にしがみついた。

「もうやめてくれ!俺なら何でもする、だからすずちゃんは帰してあげてくれ!」

「ん〜どうしようかな?何でもか〜」

バン!

そう言ってまた、木戸は海界を平手打ちした。

「もうやめてくれぇ!」

「ハッハッハ!」

バン!

「やめてくれって言ってるだろぉ!」

「ハッハッハ!」

ドカン!

店の扉が勢いよく開く音がした。

「そこまでだ!!」

そこには一見した限りだと十人以上もの警察官を引き連れた青島が立っていた。

「おっさん...」

「暴行及び監禁の疑いで現行犯逮捕する!」

「くそっ、何でサツがいんだよ」

「たまたまこの店でぼったくり被害に遭ったという情報があってな、で捜査のために来たらこんなことが起こってて逮捕出来ちゃったわけよ」

「あんた、警察官だったのかよ」

「刑事な!昼間っからカフェに入り浸ってるから舐めてただろ」

そう軽く俺への返事を済ませると、浅く息を吸って少し大きめの声で言い出す。

「とりあえず、お前らを署まで連行する」

青島がそう言うと同時に、十数人の警察官たちが一斉に木戸たちに取り掛かり手錠をはめていく。

「くそっ、ふざけんな!証拠でもあんのか!」

そう言いながら、木戸は抑えられそうになるのを必死で抵抗する。

「あるじゃねぇか目の前に、お前たちが監禁して暴力を振るった二人が」

「くそっ、弁護士たててやる!」

「勝手にしろ!ただ目の前で人が監禁され暴力を受けていたのをこの人数の警察官が目撃した訳だからそう簡単には揺るがねぇだろうがな!」

「くそ!偉そうにしやがって」

「ほら!暴れんな!」

「おい沼中!テメェもまだ許した訳じゃねぇからな、きっちりと金は払ってもらう」

「うるせぇ黙ってさっさと来やがれ」

木戸達は抵抗しながらも、その後続々とやってきた警察官の数の力で圧倒され、何も出来ず連行されていった。

「おめぇら何でこんなとこに居るんだよ」

「まぁ色々あって金を払えって言われちまってよ」

「そうか、こんな怪しげなバーに女連れてくんじゃねぇよ」

「どーしても、過去のことが知りたくてその一環で来ただけだ。本来ならこんなとこ来たくなかったけどな」

「またそれか記憶を思い出したいとか言ってたな、こんな危ない目にそこのねぇちゃんを巻き込むなよ」

「...そうだな」

「でも私が言い出したことなんです。だから沼中さんは悪くないんですよ」

「そうかい、まぁ何でいいけど気をつけな」

「はい!あんな無礼な事をしたのに助けて頂いて本当にありがとうございました。私たちどうすればいいか分からなかったので助かりました!」

「まぁ仕事だからな。どれだけ腹が立つ野郎でも、流石に困ってたら助けなきゃなんねぇからな」

「本当にありがとうございました」

海界は青島に深々と頭を下げて礼をした。

その姿を見て俺も、窮地を救ってくれた青島に腹立たしいが感謝せざるを得なかった。

「あんたに助けられるなんて心外だけど、ただ今日は本当に助けられました。ありがとうございました。」

「お礼なんて言える口だったんだなお前、いちいち一言余計だけど今日のとこは許してやっからよ。署で事情聴取だけさせてくれや」

「分かりました」

「あ、あとオメェみたいな無礼なやつは大っ嫌いだ!だけど大切なもん守るために恥捨ててでも泣きながら懇願する奴は嫌いじゃねぇよ」

青島は俺の顔も見ずそう言い残し、部屋を後にした。

「青島さん、意外といい人なのかも知れませんね」

「仕事でやってるだけだろ」

「そうですかねぇ?」

俺は心にも無いことを口にした。


結局木戸達は警察に連行され、俺たちは警察署で事情聴取を受け帰された。

「今日も大変な一日中でしたね、なんか沼中さんと居ると心が持ちそうに無いですね」

そう言われるとすぐに俺は海界の対面に立ち、深く頭を下げた。

「本当にごめん、色々怖い思いをさせちゃって、心も体も傷つけて、本当に申し訳ない」

「冗談ですよ、辞めてくださいよ。そもそも全部私が言い出したことですから」

「いや、そうだとしても俺はすずちゃんを守れなかった。男として失格だ、本当にごめん。」

俺は海界と自分の心に言った。

「だから辞めてくださいって、そんなこと気にして無いですから」

「もう...一緒に居るのはやめよう」

「えっ?」

「これ以上一緒にいてもすずちゃんを傷つけてしまうだけだ」

「本当に言ってます?」

「もう決めたんだ」

「要するに私と一緒に居たく無いってことですか?」

「いやそんな事はないよ!そんな事はないけど...」

「もういいです。わかりました、私が嫌なら今後一切会いません。今までありがとうございました」

海界はそう言って、俺を見ることもなく振り返り立ち去ろうとした。

「ちょっと待ってくれよ!」

俺は海界の腕を掴み、引き止めた。

「そういうことじゃないんだ。ただ...」

何故だか言葉が喉の奥に詰まって出てこなかった。

「もういいです。私の事が嫌いなら最初から言ってくれればよかった」

そう言って俺の腕を振り解き、また歩き出した。

「そんな訳ないじゃないか!」

人気の少ない街中に俺の心の声が響き渡り、同時に海界の足が止まった。

「君の事が嫌いだなんて、そんな訳ない。そんな訳...俺は君が好きなんだ」

「記憶を忘れてしまう前、出会った頃から君の優しさと明るさが好きだった。忘れてしまった後も一緒に過ごして、益々好きになったんだ...だからこれからも一緒に居たい。だけど、だからこそ、君を巻き込んで傷つけたくないんだ」

冷静さを失い、思いの丈をありのままぶつけた。

後ろを向いたまま振り返らず、海界は話し出す。

「私は楽しかったんですよ、沼中さんと一緒にいること。刺激があって、そういうの好きですから。冗談言い合ったりとかするのも楽しかったですし、ダメな人のように見えるけど、意外と男らしいところもあるし、そんな沼中さんと一緒にいる時間が好きです」

彼女の本心を初めて聞けた気がした。

「でも沼中さんが私を守れるなんて、そんな思い上がりしないで下さい!そんなこと沼中さんには期待してないですから。ただ一緒に居れれば、それだけでいいんです!」

そう言ってニコッと笑顔を振り向けてくれた。

「ありがとう」

感情が爆発しそうなので、冷静なふりをするために一言しか返事できなかった。

「という事で、そんなに私の事が好きなら一緒に宇都宮に行ってあげてもいいですけど、どうしたいですか?」

「ふっ」

いつもの調子に戻った海界の様子を見て、安堵感から思わず笑ってしまった。

「何でそんな偉そうなんだよ!」

「そんな言い方するなら行ってあげませんよ〜」

「はいはい」


「ここか」

「いよいよですね」

俺たちは警察署の事情聴取を受けた後、本来の目的であった宇都宮の俺の実家を訪れた。

「何だか私まで緊張してきました」

「...」

俺は唾を飲み中山と書いてある表札の下のインターホンに触れた。

ピーンポーン...

しばらくして、2度目を押したが、それでもインターホンから人の声が聞こえてくることは無かった。

「平日の夕方ですし、ご両親まだ帰ってきて無いのかも知れませんね」

「そうだな、出直すか」

そう言って、立ち去ろうとした時

ガチャ!

「敬!」

「おやじ...」



夏の夕暮れ時の暖かい日の光が俺の目を突き刺し

目を覚ます。俺は何処かも分からない見知らぬ家の前で立ち尽くしていた。

それは生まれたての赤子のような新鮮な気分だったが、どこか恐怖も感じていた。

横には見ず知らずの女が俺を不思議そうな表情で見ている。

見ず知らずの家の玄関からは、中年の男が笑顔を浮かべ俺に話しかけてくる。

「敬!お前生きてたのか!」

「...だれ?」

「沼中さん!お父さんなんじゃないですか?」

「は?」

「は?っじゃ無くて...沼中さん?」

「君は誰?」


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