09.アンリエットは誘拐されてもビビらない
「手が荒れているね、可哀想に」
アンリエットは、掴まれた手をバシッと音を立てて払い、そのまま反射的にワンピースで指先を拭った。
「アンリエット……」
カビ王子ことスティーヴンが酷く傷付いた顔を見せたとて、アンリエットの心は痛まない。
だって、この男は誘拐犯だ。同情する余地はない。
先ほどちらりと確認した黒装束を着た怪しい男達が浅黒い肌色だったことから、フィルモアネガン国出身の者ではないと分かる。
つまり、国の正式な命令でも、護衛を伴った行動でもない。
今の状況は完全に、スティーヴンの勝手な単独行動というわけだ。
呆れてしまう。よくもまあ、国籍不明な者達とここまで無事に来られたものだ。一国の王子のとる行動とは思えない。
馬鹿は時として最強である。
「食事を持ってきたんだ、食べよう。目が覚めてからまだ何も食べていないだろう?」
「……」
カビ王子に返事はせずに、カーテンがぴったりと閉じている窓をじっと見つめながらアンリエットは考える。
カーテンをしていても漏れる光は強く、オドレーという昼行性の鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。
この鳥の声を聞き間違えるほど、アンリエットは土地勘が浅くない。
オドレーは高い木の上に住処を作ることを好む鳥で、人里には降りない。
街から近い森は、西側のシプレの森と、南側にあるベルニエの森の二つだけ。
シプレの森は何年か前から猪の縄張りになっているため、地元の人間なら仕事でもない限り立ち寄らず、管理人も長らく不在。ベルニエの森は自生の食べられる実や薬草が多く、薬師達が交代で管理人の役割を担っている。
これらを総合すると、誰にも見つかることのない絶好の隠れ家は、『西側のシプレの森』にある、ということになる。
「こんな連れ出し方をして悪かった。でも、どうしてもアンリエットに会いたかったんだ。……頼む、俺にはアンリエットでなければだめだ。君のことばかり考え、夜はろくに眠れないし、食事だってままならない……父と母と弟にも叱られて、辛くて堪らない」
すんすん、と洟をすするスティーヴンは、先ほどから自分のことしか話していない。
辛くて堪らない、なんて。どの口で言うのか。
九年もアンリエットを苦しめておいて、自分は一年も耐えられない?
「アンリエット、一緒に帰ろう。そして、輝かしい未来を俺と一緒に作ろう」
──輝かしい未来を俺と一緒に作ろう。
小説にもあったスティーヴンのプロポーズの言葉だ。
アンリエットの眉間に深い皺が刻まれた。大嫌いな、足の多い虫を見たときと同じ反応だった。
「無理です。絶対に嫌です」
絶対に声を発してなるものかと思っていたのに、無理過ぎて、嫌過ぎて、心の声がそのまま出てしまった。
「分かってる。君が嫌ならエリザベス公爵令嬢ともモーリーン侯爵令嬢とも二度と話さない。そして約束する、アンリエットだけしか見ない、余所見をしない、と」
論点が全部ずれている。
小説で、ヒロイン・アンリエットが晴れて第一王子の婚約者になった直後、突如現れる伯爵令嬢にこの男は現を抜かす。
しかも階段ですっ転んで、都合よくヒロイン・アンリエットのことだけ忘れるというWEB小説あるある(?)をかます。
体が弱く、長い間療養を続けていたという体のフュジット伯爵家の三女・ジェラルディン嬢(隠れハイエナ女子・十六歳)は、一年遅れで社交界デビューを果たすのだが、その会場がスティーヴンとジェラルディンの出会いの場になる。
……分かっている。分かっているのだ、物語上、ライバルは付き物だということは。
だが、ヒーローがあっちへふらふら、こっちにふらふらな状況は如何なものか?
あと数か月で、ジェラルディンが領地から戻ってくるのだから大人しくそっちとくっ付いてくれれば、と思っていたのに、こんなところまで追っかけてくるなんて。
さすがカビだ。しつこい。
……ああ、カビ〇ラーが欲しい。切実に。
「アンリエット、どうか教えてくれ。何が嫌なんだ? 俺は君の憂いを晴らしたい!」
「不敬罪で首を刎ねられたくありませんので言えません」
「そんなことはしない! だから言ってくれ……っ!!」
ここは舞台か? と思ってしまうくらい何かに浸っているスティーヴンに、アンリエットは決めた。
何を、って? そんなの決まっている。
自分の心の中をぶちまけることを、だ。
「そうですねえ、殿下の一番嫌なのは自分のことしか考えていないところですね」
「えっ」
「自分をやたら可哀想に見せるところも気持ち悪いです。今まで九年も人を傷つけておいて、ご自分は一年も耐えられないという根性皆無なところも嫌いです。あと、格好いいと思うのは結構ですが、行動の端々にナルシシズムがチラつくところが生理的に受け付けません。それと──」
「待ってくれ……っ! もういい……言うな……!」
言葉を遮られ、アンリエットは「はあ」と溜め息を吐く。
言えと言ったり、言うなと言ったり、面倒くさい男だ。そして、話し言葉はやはり胡散臭い。
「アンリエット、君が変わったのはあの男のせいか?」
あの男とは、リオンのことだろう。
「どういう意味です?」
「あの男がいなくなれば、君は元の優しいアンリエットに戻ってくれるのか、と聞いているんだ」
「いいえ。それはあり得ません。私の前から彼がいなくなっても殿下を嫌いな気持ちは変わりませんし、前のように扱いやすい私に戻ることはないです」
「いいや、そんなはずはない。あの男のせいだろ? そうに決まってる!」
「自分のせいだと認めない。そういうところも人として無理です」
「ふはは、あの男の死体を見てもそんなことが言えるかな?」
「……」
まるで悪役のセリフと笑い方だ。それも三下。
「あの男を殺されたくなかったら、俺と一緒にフィルモアネガンに帰るんだ!」
リオンがそう簡単に負けるはずがないのに。
「はあ……。ですから、そういうところが無理なのです。それに、あの人、強いですよ? 実体験として保証できます。あとタイミングが絶妙です。きっと、もう少しでここに来ますよ。大丈夫ですか?」
「え?」
戸惑うスティーヴンを無視し、アンリエットは続ける。
「あの人、ゴリラですよ? 握力強いですよ? 林檎を片手で潰せる、林檎ジュース製造人間ですよ? もし掴まれたら、殿下の細い首なんてポッキリ逝ってしまいますわ。剣術が苦手な殿下の勝てる可能性は限りなくゼロに近いです。というか、マイナスですわね。もう一度聞きますけれど、大丈夫ですか?」
この国に来るまで未遂含め三度の誘拐に遭ったアンリエットは、肝の据わり方が堂に入っていた。
そして、リオンの握力の話はこれっぽちも盛っていない事実である。
リオンはゴリラだ(※人間です)。
「それと、今、私は子を身籠っておりますので、殿下と婚約は無理です。なので結婚もできません。どうかお引き取りくださいませ」
「う、嘘だ!」
「……」
さすがに嘘だとバレたらしい。
アンリエットは平たい腹をさすりながら、う~ん、と次の一手を考える。
と、思いきや。
「嘘だ……俺のアンリエットが妊娠なんて……嘘だ嘘だ……」
あれ? ……思った以上に効いてる?
ちょっと可哀想だったかしら、などと開眼したアンリエットが思うはずもなく。むしろ、思うのは、『俺の』じゃないし、リオンのだし! ということ。
しかし、スティーヴンにアンリエットの言葉は届いていないようで……つまり拘束されていないアンリエットの逃げ出す大チャンス。
「あの、私、帰りますね?」
「嘘だ嘘だ」
「帰りまぁす」
一応、報告し部屋に一つしかない扉のドアノブを回し、恐る恐る開け……られない。
ガコンッと鈍い音がして、外側から何かが押さえているのが分かる。
「閉じ込められたのかしら?」
部屋にはカビ王子もいるのに嫌過ぎる、と思いながら、ドアノブをガチャガチャしていると、障害物がなくなったのか、扉が勢いよく開いた。
「わっ」
「お嬢様!」
地面とこんにちは! するところで両肩を掴まれ、痛い思いをすることはなかった。
しかし、もう少し早く来ることはできなかったのだろうか。まったく。
でも、そんな不満は顔を見た瞬間に霧散した。
だって、それに地面には黒装束の男達が伸びているし、リオンの顔が必死なんだもの。
いつも飄々としている好きな男の必死顔は、とても美味しい。好き。
「あら、ゴリ、じゃなくて、リオ──」
「誰の子だ!?」
怪我はしていないかを確認しようとしたアンリエットの言葉は、険しい声のリオンに遮られた。
「え?」
意味が理解できず、アンリエットは一拍遅れて瞬きをした。
「だから、誰の子だって聞いてるんだ! さっき言ってたろう!」
「聞いてたの? だったら颯爽と助けに入ってくれればよかったのに……。あっ、もしかして、『ゴリラ』って言ったから怒ってるの? やあね、そんなに怒ることではないでしょう? あなたがゴリラなのは事実なのだから」
「いや、事実じゃねえし……って、いや、今はそんな話じゃなくて父親の話を──」
「私に父はいませんっ!」
言葉を遮り、ふんっ、と拗ねると、「違う! お嬢様の腹の子の父親のことだ! 誰だ!?」と凄い剣幕で言われてしまった。
「ああ、それはね……」
嘘よ、と言いかけ、そっと後ろを振り返る。
後ろにはまだ「嘘だ嘘だ」とぶつぶつ言っているスティーヴンがいて、こちらを気にも留めていない。
というより気づいていない。
しかし、この場で嘘だというのは危険な気がする。さて、どうしよう。
「お嬢様、まさか……」
「何よ」
「腹の子の父親って……あれ、か?」
「は?」
当然だが念のため。アンリエットが怒ったのは、一国の王子を「あれ」呼ばわりしたからではない。
むしろ、心の中で「カビ王子」呼ばわりしている自分よりセーフだ。
アンリエットが怒った理由。それは、好きな男に、嫌いな男の子供を身籠っていると勘違いされたことである。
大体話の流れで嘘だということを察しやがれと言ってやりたい。
いや、ぶん殴りたい。まあ、殴ったらアンリエットの弱くて柔い拳が死ぬので殴らないが。
「ばっかじゃないの!」
ショックを受けているカビには、どうせ聞こえないと結論を出し、続ける。
「嘘に決まってるでしょ! 文脈と状況を考えなさいよ、単細胞筋肉馬鹿! ほら、帰るわよ!」
言い過ぎかな? という思いが一瞬よぎったが、私は悪くない! と思い直し、リオンを引っ張り、歩……けない。
岩か何かか?
それともやはりゴリラか?
ゴリラなのか!?
「もうっ! ちゃきちゃき歩きなさいよ、重たい男ね!」
「……どうせ俺は重い男だ」
「まあ! あなた、体重を気にするタイプなの?」
あんなにばくばく食べるから気にしていないかと思っていた。
明日からボウルいっぱいに茹で野菜でも作ってやるか。
でも、この筋肉が痩せ細るのは少し、ではなくかなり寂しいし、ぶっちゃけ嫌だ。
死ぬな、筋肉。生きろ、筋肉。
アンリエットは細マッチョよりゴリマッチョ寄りの体型の方が好みだ。
脱いだときの「あれ、意外と筋肉あるな?」というドキドキ感も悪くはないが、服の上から筋肉があるのが分かった方がいい。
異論は認める。ソース顔がタイプな女子もいれば、眼鏡派の女子がいる。それ同様、マッチョ好きな女子がいたっていいじゃないの。十人十色、多様性筋肉。それでいいじゃないか。世界平和を目指そうではないか。
しかし、リオンが痩せたいなら協力しよう。
アンリエットはリオンの外見だけを好きになったわけではないのだから。
「食事メニューを見直すとこから始めましょう!!」
「……また訳分からんこと言ってるし。あと、道、こっちじゃなくてあっちな」
「わ、分かってるわよ」
ぷんすか怒りながらも、アンリエットはリオンの腕を掴んで歩き始めた。
森を抜ける風は少し冷たく、さっきまでの緊張がじわじわと解けていく。
緊張が抜けた途端、足の裏から疲労が這い上がってきた。
「はあ……忙しい一日だったわね、疲れたわ」
「知ってる。……だから帰るぞ」
その声音が妙に優しくて、アンリエットは文句を言いかけて飲み込んだ。
そして、腹の虫が、ぐおおお、と鳴いた。
「……そ、その前にご飯にしましょう」
「ああ、俺も腹減った。飯屋に行くか」
そんなやり取りを続けながら、二人は歩き続ける。
先ほどまでの誘拐だの修羅場だのは、遠い昔の出来事のようだった。
肩が触れる距離が、いつもより近い。それだけで、今日は十分だと思えてしまった。
格好良い救出劇は、旅の途中にきっとあった。多分。




