07.アンリエットは助けた騎士と再会していた
嘘みたいに青い空には、白ペンキが足りない筆でさらりとなぞったような雲が浮かんでいる。
透き通った水は、空の青とは違う青色で美しい。足元で揺れる水面が、ここが陸を離れた場所だと教えてくれる。
杏里のときも海は見たことがあるけれど、こんなにも澄んだ青は記憶になかった。
「こんな素敵な景色、見たことないわ!」
「それはよかった」
波の音にかき消されないよう、大きな声で言えば、駆け落ち相手の男──リオンが目を細め、風で乱れているであろうアンリエットの髪を指先で整えてくれた。
その距離の近さに、一瞬だけ言葉を失う。周囲に『恋人』っぽく見せないといけないのは分かっているが、全然慣れない。
男の名はリオン。
平民なので、姓はない。
年齢はアンリエットと同じ十八歳。
WEB小説あるある(?)な、『逃亡を手伝ってくれた彼が、実は他国の王子様だった』なんて展開はなく、彼は正真正銘、生まれながらの平民だそうだ。
しかし、平民ながらになかなか腕の立つ人間らしく、王都で開催された剣術大会では一桁台の成績を取ったそうだ。平民でこの成績は快挙。
しかも、この剣術大会は四年に一度の大会で、当時の彼はまだ十五歳だったのだから驚きだ。
彼と同じ十五歳だったアンリエットも、その試合を見に行っている。カビとコバエに連れられて、鬱々とした気持ちで行った記憶がある。
ふと、「あれ?」と小さな違和感が言葉になって漏れ出た。
──あの大会では見習い騎士の大半が一回戦前に篩にかけられ、出場権すら持っていなかった。
◆◆◆
『おい、見習い。お前、次の試合で負けろ』
スティーヴンとの無言空間に耐えられず、時間を潰すために目的もなく歩いていた先で聞こえた声に、アンリエットは足を止めた。
『もしもお前が勝ち進むなんてことがあったら、どうなるか分かってんだろうなぁ、おい。お前が入れる騎士隊はないと思え! いいか、絶対に負けるんだぞ!』
叱咤している男の前で、傷だらけの古い防具を身に着けているのが見習い騎士だろうか。
叱咤している男より頭一つ分大きなその人は、淡々とした口調で『分かりました』と言い終わる前に、剣の柄で顔を思い切り殴られていた。
理不尽に殴られている見習い騎士と、立場ゆえに声を上げられなかった自分の姿が重なって、見習いの彼を殴った男に言い表せないほどの怒りがこみ上がってきた。
『お待ちなさい』
アンリエットは敢えて尊大な口調で声をかけ、ばさりとカビ王子から貰った趣味の悪い扇子を広げて震える口元を隠し、見習い騎士を庇うように立った。
『あなたの名前と所属を言いなさい』
そう言い切れたアンリエットには、わずかな勝算があった。
嫌味な男がヤミン伯爵家の三男・イアンである、と知っていたからだ。そして、騎士を多く輩出するヤミン伯爵家の後妻の息子である、と。
優秀な長兄と次兄の足元にも及ばない三流騎士である、ということも知っていた。
『誰だ、お前は』
苛立つイアンの目と口調は、今にも暴力に走りそうで背に庇った見習い騎士がアンリエットを心配している気配を感じた。
実際、見習い騎士の足は半歩前に出ていて、いつでもアンリエットの前に来られるよう準備されていた。
見習いの少年の方が、騎士らしいとは世も末だ。
『スティーヴン第一王子殿下の婚約者候補のアンリエット・フェアチャイルドと申します。ヤミン伯爵家のご三男様』
声は、震えていたかも知れない。
杏里の記憶が戻る前の──開眼前のアンリエットは平和主義で、言い合いなどは絶対にしたくないタイプの人間であった。
いつも、自分が耐えていればそれでいいと思っていた。
だけど、自分と重なって見えた見習い騎士のことは、なぜだか見過ごせなかった。
結果。イアンは、アンリエットの名を聞いて、手のひらを返した態度でへらへらと謝罪しながら退散していった。
『あなた、騎士になりたいの?』
見習い騎士と一緒に残されたアンリエットは、尊大なままの口調で続けた。
『平民でも騎士になれる。法にはそうあるけれど、これはまだ新しい法だから、もしなれたとして──いえ、この大会への出場権を持つあなたならなれるわね。でも、それはきっと荊の道よ。諦めろなんて言わないけれど、あなたにその覚悟はあって? 騎士となって、弱きを助け強きに挑む矜持はあって?』
アンリエットは、ややむきになって尋ねた。
自分には、王子妃──そしていずれは国母となる覚悟も矜持もない。
『覚悟も矜持もないです。俺は、金が欲しいだけです』
不遜な言い方というよりも、拗ねている態度に近いと感じた。
『勝ち上がって、末端でもいいから騎士隊に入って金を稼ぎたい。それだけです。崇高な志なんて塵一つも持ってない。貴族のお嬢様には理解できないと思いますがね』
そう言って自嘲気味に笑う少年に、アンリエットは『そう』と頷き、自分の首からネックレスを外した。
亡き祖母の形見の、大事なネックレスである。
『これを』
アンリエットがネックレスを差し出すと、見習い騎士は露骨に嫌な顔をした。
『施しは受けません』
『誰があげるなんて言ったの? これはスカウトよ。これを持ってフェアチャイルド侯爵家にいらっしゃい。そして、私の家に仕えなさい』
『は、何言って──』
『でも条件があるわ』
見習いの言葉を無視してアンリエットは続ける。
『この大会で結果を残すこと。これが条件よ』
フェアチャイルド家の護衛は高給取りと有名だ。
それに騎士道を重んじる我が家には、ヤミン伯爵家の三男坊のような男はいない……はずだ、多分。
『そして、そのネックレスを絶対に返しに来て。ああ、結果が振るわなくても返してね? それは大好きなお祖母様の形見なんだから。いい? ここで拾ったって言うのよ? 三日後に新聞にネックレス紛失のことを載せるから、新聞と一緒にネックレスを持ってきなさい。父は正直な人が好きだから、きっとあなたを雇うはずよ。その際、今日の試合の結果を報告なさい』
ふん、と顎を上に向けて言い放ち、アンリエットはその場を後にした。
それからしばらくして、アンリエットの元に祖母のネックレスは返ってきた。
しかし、アンリエットが彼から挨拶を受ける機会が訪れることはなかった。
それもそのはず。男性の使用人は、母とアンリエットとモナに気安く声をかけてはいけないという暗黙のルールがあったのだから。
◆◆◆
「ねえ、リオン、あなた、あのときの見習い騎士なの!?」
アンリエットは尋ねた。
答えを聞かなくても、アンリエットには確信があった。
彼が、あのときの見習い騎士だ、と。
「『あのときの』、って言われてもねえ」
数日前から、すっかり丁寧な口調をやめたリオンは、すっとぼける。
「聞き方を変えるわ。ヤミン伯爵家の三男に虐められていた見習い騎士は、あなたなの?」
「虐め……って。……じゃあ聞くけど、お嬢様は今まで何人の見習い騎士を助けてきたんだ?」
見たことのある表情だ。
あのときみたいな。拗ねているような。
「見習い騎士を助けたことなんてないわ。私は将来有望な方をスカウトしただけだもの。あなたこそ、今まで何人のご令嬢を助けたの?」
「俺だって貴族令嬢を助けたことなんてない」
「? 私のことは、助けてくれたじゃないの」
「……俺は、熱烈なプロポーズを受けて……駆け落ち、してるだけです」
「あらあら、可愛いこと」
リオンの耳が赤いのが可愛くて、ついつい感想が声に出てしまった。
「あ? 何だって?」
「いいえ、何でもないわ。ね、ところで私達はどこへ向かっているの? ウェストブルック領ではないわよね?」
──からかいすぎたときは、話をまるっと変えてしまおう。
メイウェザー教会はウェストブルック領にある。
なのに、向かっている方向は逆だ。
「……ティヴィソル国」
「え!? リオン、あなた、やっぱり他国の放浪王子とかだったりするの!?」
「はっ。お嬢様、あんた、恋愛小説の読み過ぎだ。んなわけないでしょ。俺が王子なんてあり得ない。それに、あの国には王女しかいないっての」
「し、知ってるけど……」
どなたかのご落胤だったりしないのかな、と一瞬だけ考えてしまったのだ。
なんせ、アンリエットはヒロインなので。
「以前のような暮らしはできないからな」
「それは分かってるわ。それより、どうして行き先を変えたの?」
「いや、ティヴィソル国へ行くのは元々予定してた」
「え?」
「メイウェザー教会はフェイク。会話が聞かれている可能性と、お嬢様が手紙に行く場所を書くことを見越したんだ。おおっと、怒んなよ? 敵を騙すにはまず味方からって言うだろ?」
「むむむ」
リオンにすっかり騙されたアンリエットは、彼の見越し通り、母宛ての手紙に行き先を書いていた。『メイウェザー教会に向かう』と。
やはり、アンリエットは箱入りだ。
「ほんっと、これだから箱入りは」
しかし、リオンに言われると、冗談として受け流せない何かが残る。
「でも、もう箱からは飛び出したもの。箱入りではないわ。そうでしょう?」
「……だな。お嬢様を『箱入り』とはもう呼ばない。悪かった」
アンリエットが言い返すと、思いの外、リオンは素直に謝罪した。涙目だったのは、あくびのせいなのだが、どうやらこの男には泣き落としが効きそうだ。
覚えておこう。
「分かればいいのよ。で、ついでに、その『お嬢様』呼びもやめてくれない?」
「それは無理」
「まあっ、どうして?」
「俺ごときがお嬢様の名前を呼ぶなんて無理だろ」
「無理じゃないわよ、呼べばいいじゃない」
「無理」
「今だって散々な態度じゃないの。今さら名前くらい何よ。それに、その言葉遣いと呼び方は合わないわ」
「それでも無理」と言うリオンに、アンリエットは「もうっ! 意地っ張りね!」と呆れ、大袈裟に息を吐いた。




