05.アンリエットは真夜中に駆け落ちする
時刻は深夜十二時の十五分前。
アンリエットは、月明かりだけが差す自室で、自分の選択を少しだけ悔い始めていた。
いや、後悔というよりも、あの場であれしか選べなかった自分の判断は、本当に正しかったのか、と胸の内で問い直していた。
逃げること自体ではなく、逃げ方を選ぶ時間すら与えられなかったことが、今になって引っかかっているのだ。
あの甲冑姿の男でよかったのだろうか、と。
名前も素性も、顔すらまともに思い出せない相手だ。だが、カビ王子との結婚は死んでもごめんだ、という断固した想いもある。
考えは同じところを行き来したまま、前へ進まない。
問いを立てては打ち消し、打ち消してはまた戻る。その繰り返しに、時間だけが削られていく。
それでも、アンリエットは生まれ育った屋敷を出るための準備を整えた。
「鞄六つにおさえられたのはすごいわよね?」
自画自賛し、気持ちが浮上したところで時計に視線を移せば、さきほどから二分も経っておらず、はあ、と息が漏れてしまう。
時間が経つのが遅く感じる理由を探そうとして、アンリエットはぶんぶんと頭を振った。
心臓の鼓動がやけに大きく感じられ、静かな部屋の中で、それだけがやたらと主張している。
楽しみ、なんてことはない。多分。
いや、多分って何だ。
違う違う違う。違うってば。これは、カビ王子やら父やらコバエやらから離れられることへの解放感であって、甲冑姿の男と駆け落ちすること自体に期待しているわけではない。
そう言い聞かせるように、アンリエットは意識的に考えを締めつけた。
コン。
それは、ガラスを叩く小さな音だった。
昼間なら気づくのは難しいほど控えめな音に反応して振り向くと、月の光を背にした男の影が目に入った。
先に輪郭だけが浮かび上がり、遅れてそこに人が立っていると理解する。
鎧は身につけておらず、顔も隠れていない。
だが逆光のせいで、表情までは読み取れなかった。
代わりに目に入ったのは、広い肩幅と、微動だにしない立ち姿だった。
シルエットだけ見ても、筋肉質で引き締まった体の持ち主だということが分かる。
かなりの軽装のようだ。
「まだ定刻ではなくってよ」
わざとツンと澄ました言い方をしてやれば「十分前行動派なんです」と、言葉が返ってくる。
それを聞けば、時間にルーズよりはいいかな、と思い、「そうなのね」という返事は自然と柔らかいものになった。
「お嬢様? それ、全部持って行く気なんですか」
六つの鞄を指差す男に、アンリエットは「ええ!」と少しばかり得意げに答える。
でも、彼は褒めてはくれなかった。
「はあ、これだから箱入りは」
「何ですって?」
「荷物は鞄一つにしましょう、と言ったんですよ、お嬢様」
「嘘よ。あなた今、『箱入り』って言ったわ」
「おっと、聞こえてましたか。すみません」
「……」
聞こえるように言ったくせに、白々しい。
しかし、よくよく考えれば、鞄六つは厳しいのかも知れない。
それに一つ一つがかなり大きいし、アンリエットのしょぼい腕力ではたった一つでも持って歩くことは難しい。
どうして、今の今まで気づかなかったのか。
周囲を見る余裕がないほど、先のことだけを考え続けていたのかもしれない。
選択肢を並べるより先に、逃げ切ることだけを優先していた。
「あと、そんなぴらぴらしたドレスじゃあ、良家のお嬢様ってすぐにバレます。もっと大人しい服はないんですか?」
「このドレスではだめかしら? これが一番大人しいドレスなのよ」
「俺らは今日、ベランダから出発するんです。それじゃあ引っ掛かります。悪いけど着替えは俺が持ってきたものを着てください」
転生したとは言え、この世界でのアンリエットは生粋のお嬢様だ。
つまり箱入りで、物知らずで世間知らずというわけである。
「……私の考えが足りなかったわね」
一拍置いてから、アンリエットは息を整えた。
「ごめんなさい。着替えます」
しょんぼりと着替えの入っている袋を受け取ると、「まあ、そのドレス、すげえ似合ってんですけどね」とフォローが入った。
褒め言葉には慣れているはずなのに、胸の内が僅かに浮いたことにアンリエットは戸惑い、慌てた。
評価ではなく、前提なしに向けられた言葉だったからかもしれない。
「覗かないでよねっ!」
アンリエットは、ふんっと鼻を鳴らしながら衝立の後ろに回った。
「そうしたいのは山々ですけど、五分過ぎても出てこなかったら手伝いますから」
「え、嘘っ!」
「はい、嘘です。ゆっくり着替えてください」
「あ、あ、あなた、意地悪だわ! とってもとっても意地悪!!」
くつくつおかしそうに笑う男は、意地悪かも知れないが、許容できる範囲だ。でも、それを今教えてやるつもりはない。
アンリエットはドレスを脱ぎ、男から貰った服を頭から被った。
着終えたそれは、黒のワンピースで体の線が出ない仕様になっていて、リボンやフリルなどの飾りが一切なく、動きやすい。
「……ねえ、靴も持ってきていたりするの?」
衝立から出ながら問えば、衝立から離れて背を向けていた男がこちらに近づき、「もちろん」と答える。
そして、どうぞと足元に置かれたのは杏里もアンリエットも履いたことのないような頑丈そうなブーツだった。
「お嬢様」
ブーツを履き終えたタイミングで男から声がかけられた。
「次は持っていく荷物の整理です。ドレスや外套は嵩張るから置いていかなきゃいけません。宝石類は金に換えられるし、あってもいいですが、殿下からの贈り物は全て置いていきましょう。売れば場所が特定されます」
「……うう~~ん…………分かったわ!」
勿体ない気はするが、カビ王子のくれた贈り物には助けられたくない。アンリエットは頷いた。
「んで、あとはこの書置きですが」
机の上に置いたはずの書置きをひらひらとさせながら言う男に、アンリエットは「どこを直せばいいの?」と尋ねる。
もしも、着ているものや持っていく荷物についてより先に言われていたら、自信満々に「ええ!」と答えていたことだろう。
ちなみに、書置き以外の手紙は封蝋を押しているので、彼が中身を確認することはできない。
「いや、直す必要はありません」
「そうなの?」
「はい。特にこの文章がいいです。〈ずっと想いを寄せていた方と一緒になります〉」
「……そ、それは、嘘の……」
「分かってます」
男は書置きから視線を外し、軽く息を吐いた。
「……ああ、これを持っていけないってのが名残惜しいな」
社交辞令や、おべっかではなく、本当に名残惜しい、と。そんな声色の男に、アンリエットは、明かりを灯していなかったことに助けられた気がした。
◇
「ぜ、絶対に、お、落とさないでね? 離さないでね?」
「お嬢様が暴れなければ大丈夫です。……多分」
「多分って? 多分って何? 絶対って言って!」
「知らないんですか、お嬢様。この世に『絶対』はないんですよ」
「そういうの、今いらな──」
「いいから黙って掴まっててください。うるさいです。気が散ります。あと五分で下りないと、巡回の見張りに見つかります」
短く息を呑み、アンリエットは言い返す余裕がないことを悟って「……はい」と答えた。
部屋の扉から出て行く……なんてことはなく、ベランダからの脱出中である。
夜気が肌に張りつき、胃のあたりがひやりとする。
アンリエットは反射的に下を見ないよう、目を伏せた。
ロープで繋がれた男が、アンリエットを抱えて降りるという荒業。
そりゃあ、鞄六つを見て『箱入り』と言うだろう。
アンリエットが男の立場でも言う。
だが、しかし。
この体勢、とっても複雑。
何が『複雑』って、まず、この密着具合。
アンリエットは箱入りだし、そもそも杏里の頃だってまともお付き合いをしたことがない。
つまり免疫がなく、この体勢はとても恥ずかしいということだ。
しかも、男は顔が良かった。
いや、一般的にどうかと問われれば『誰が見ても見惚れるレベル』ではない。
実際、この世界で人気があるのはカビ王子のような、キラキラしい見目麗しい、中性的な美を持つ男である。
今、片手でアンリエットを支え、もう一方の手でロープを掴んでいる男は、カビ王子と真逆だ。
だが、そこもポイントが高い。だって、アンリエットはカビ王子が心底嫌いだから。
そういえば杏里もアイドルよりかは、アスリートタイプの異性が好みだった。有事の際、人ひとりを担いでいけそうな男なら尚よし。
顔も頑固そうというか、負けん気が強そうな、そんな内面が現れた顔が好きだ。
そんなタイプの男と、絶賛駆け落ち中なのである。
そう結論づけた直後、至近距離にある彼の顔へ、否応なく意識が向いた。
「?」
至近距離で向き合ったその顔を見た瞬間、既視感が走った。
思い違いかもしれない。
ただ、完全な初対面とも言い切れない、そんな引っかかりが残った。
その考えに触れた途端、体を支える腕の力がわずかに強まり、意識が一気に現実へ引き戻された。
もしかして、どこかで会ったことがあっただろうか……?
アンリエットは、現実から目を逸らすようにそんな考えを巡らせたが、地面に足が着いた途端、その余裕は消え去った。
今は立っていることで精一杯で、思考を抱え続ける隙など残っていなかった。




