03.アンリエットは婚約者候補を辞退した
アンリエットの脅しが効いたのか、スティーヴンの日頃の行いが悪すぎたのか、あるいは候補者がまだ二人残っていたからか。
──はたまた、その全部か。
とにかくアンリエットは、正式にスティーヴンの婚約者候補から外れることとなった。
詳細は知らされていないが、父が相当無理をした結果なのだろう。
そう判断したので、侯爵様呼びはやめることにして、ひとまず父として扱うことにした。
同じく、スティーヴンのアンリエットに対する態度の報告書を読み、死ぬほど反省した様子で謝罪してきた母も、許すことを決めた。
しかし、兄はまだスティーヴンのなけなしのいいところを一生懸命話してくるので無視を徹底している。
兄は、アンリエットが何を拒んでいるのかについて、一度も向き合おうとしない。ただ「会えば分かる」「話せば変わる」と、こちらの意思を蔑ろにする。その軽さが、今はどうしても受けつけなかった。
類は友を呼ぶとはよく言ったもので、カビ野郎の仲間もまたカビ野郎なのだ。
そういうわけで、今のところアンリエットに兄と口を利く予定はない。
それなのに、無視されても懲りずに話しかけてくるのが非常にダルい。
まあ、兄のことは、ちょっとうるさいコバエくらいに思っておくことにしよう。
嫌な人間をコバエだと思うと、少し生きやすくなる。オススメだ。
が。
「頼む、スティーヴンに会ってやってくれ!」
「……」
「この通りだ、アンリエット……!!」
「……」
今日も今日とて、例のコバエがうるさい。
オススメは撤回しよう。全然効果がない。
アンリエットは、九十度に腰を折って頭を下げるコバエを視界の端に追いやり、その横を通り抜けて玄関ホールへ向かう。
今日は皆でケーキが美味しいと話題のカフェに行くので、コバエの相手をする暇はないのだ。
アンリエットは、スティーヴンの婚約者候補だったため、勉強やら試験やら講習やらで忙しく王都で流行りの期間限定のスイーツを何度も食べ損ねていた。
しかし、これからはそんなこともないと思うと、嬉しくて口角が自然とにんまり上がる。
玄関ホールに行くと、シャーレインがすでに到着していた。
その隣には、彼女とおそろいの色のジャケットを羽織った同年代の青年がいる。シャーレインの婚約者だろう。
その横では、モナとその婚約者──シャーレインの弟君・ケヴィンが、なんともほんわかふわふわと可愛らしい雰囲気を醸し出していた。
二組とも、見ているだけで楽しく、自然と推したくなるカップルだ。
視線を向けるたび、二組の距離は自然に縮まっている。
触れ合っているわけでもないのに、立ち位置や呼吸が揃っていて、無理がない。
それが当たり前のようにそこにあること自体が、少しだけ眩しかった。
今日はカップルに挟まれてカフェに行くが、杏里のメンタルを備えた新生アンリエットには、まったく気まずさはない。
「では、行きましょうか」
アンリエットの言葉に、モナが「はーい!」と返事をするのをケヴィンが眩しそうに目を細めて見つめている様子が視界に入った。
……取り残されたような感覚はあるけれど、こんなのは自分には縁遠い恋物語だ。
誰かに選ばれ、手を引かれ、未来を共有できると信じられる関係。
それがどれほど贅沢で、どれほど遠いものなのか。アンリエットは嫌というほど知っている。
九年間、感情を押し殺して立ち続けた自分には、あまりにも縁遠い景色だった。
◇
カフェは、昼下がりのやわらかな陽光に満ちていた。
窓辺には春の小花を束ねたアレンジメント。
棚に並ぶ色とりどりの焼き菓子、ほんのり甘く香るバターと紅茶。
天井から吊られたガラス細工が光を集め、店内を柔らかく照らす。
心地よく、安心できる空間だった。
小さく、ぷすり。フレジェにフォークを入れながら、シャーレインの婚約者・ロドニーにアンリエットは笑顔で言った。
「私に、殿方を紹介してくれませんか?」
ロドニーは一瞬まばたきし、フォークを落としそうになっている。
そりゃそうだ。突然、王子の元婚約候補が「男を紹介しろ」と言えば、驚かない方がどうかしている。
こんなのは自分には縁遠い恋物語だ、とは思いつつも、アンリエットはさっさと婚約してしまいたかった。
何なら来月にでも嫁いでしまいたい。
候補者からは外れたが、コバエが予想外にうるさい。
あれは、絶対にスティーヴンに橋渡しを頼まれているに違いない。絶対そうだ。
なんせ〈婚約者候補を辞退したら、溺愛が始まっちゃいました~私のことが大好きな王子様は好き避けをしていたようです~〉で、ヒロインの兄・コバエはお助けキャラ的な存在だったのだから。
しかも、父も一向に次の相手の話をしないし……いや、候補者から外れて二週間も経っていないので、当然と言えばそうかもしれないが、不安だ。だって、父も兄同様、スティーヴンの味方だった。
──候補を辞退できたからといって、浮かれていては危ないのだ!
なので、態度を改めた母と、自分の持っている決して広くない交友関係を駆使し、婚約者を得るしかないと結論づけたわけである。
これぞ生存戦略!
アンリエットは、素敵な恋なんて望んでいない。
ただ、お互いを尊重し合えて、感謝の言葉を言い合える、そんな仲になれるように努力ができる人と一緒になりたい。それだけだ。
「え、僕の紹介でいいんですか?」
「もちろん。ロドニー卿は、シャーレイン様の婚約者ですもの。信用できますわ」
アンリエットのこの返事に、ロドニーは背筋をピンと伸ばしてから、「承知いたしました」と答えてくれた。
ロドニーは王都の第四騎士団に所属している騎士だ。
騎士道を重んじ、婚約者を大事にするロドニーの紹介なら安心だ。
なんてったって、類は友を呼ぶので。誠実な人間の友もまたそうであるという確信がある。
「ありがとうございま……──ん?」
ロドニーの快い返事にご機嫌になっているアンリエットの顔に、ふっと影が差す。
フォークを持つ指が止まり、甘い香りが一瞬だけ遠のいた。
「?」
顔を上げると、そこにはコバエの類友であるスティーヴンが立っていた。
「……うわぁ」
小さく呟いたアンリエットに、スティーヴンは泣き出しそうに顔を歪め、がばっと頭を下げる。
「アンリエット、今まで本当にすまなかった……っ!!!」
「っ!」
いくらカビと同等とはいえ、奴は王子だ。
コバエのように軽々と頭を下げていい存在ではない。
しかも、真っ昼間に、王都で話題のカフェで、なんて。
すぐに顔を上げさせなければ……と思った、その拍子に、アンリエットはふと小説内のエピソードを思い出した。
──アンリエット、今まで本当にすまなかった……っ!!!
──まあっ、殿下! お顔を上げてください! 私のような者に軽々しく頭を下げてはいけませんわ!
──そうはいかない! 謝らせてくれ!! 長年に渡り、君の心を傷つけたんだ。俺の軽い頭一つで君が許してくれるのならば、何時間でも、いや、何年でも頭を下げよう。どうか、少しでいいから話をさせてくれ……!! この通りだ!!
──……す、少し、だけでいいのなら……。
──ありがとう、アンリエット。君は本当に優しいな。
──殿下……。
「………………は?」
そうそう、この手口。思い出した。
謝罪と自己卑下で主導権を握り、こうして小説内でヒロイン・アンリエットを丸め込んだのだ。
アンリエットは、なるほどなるほどと納得しながら、ケーキをぱくり。
「あら、美味しい」
生クリームと苺が乗ったそのケーキは、舌に触れた瞬間なめらかにほどけ、遅れて苺の酸味がきゅっと輪郭を描く。
甘さが重ならず、口の中に軽い余韻だけが残る。まるで春を一口かじったみたいだ。
母にお土産で買っていこうかと思いながら、今度は紅茶が入ったカップを持ち上げ、温度を確かめるように口に運ぶ。
「この紅茶、苺だけじゃないわね。花の甘い香りかしら? 色も可愛いし癒されるわ」
「あ、え、ええ、そうですね……あ、あの、アンリエット様……?」
頭を下げるスティーヴンを無視し、紅茶の感想を言うアンリエットにシャーレインは困惑顔で「いいのですか?」と小声で問う。
アンリエットはシャーレインの問いに「自己満足の謝罪に、どうして私が付き合う必要がありまして?」と皮肉たっぷりの口調で返す。
「私、お姉様がそんなことに付き合う必要はないと思うっ!」
モナの威勢の良い言葉に、「そうよね、私もそう思うわ」と返事をするアンリエットは、スティーヴンの肩が震えていても、どうでもいい。
九年分の冷たさに比べれば、この程度で帳消しになるはずがない。
──それから。
その後、居心地の悪い空気のまま一時間ほどで帰宅することになった。
その間、スティーヴンが頭を上げることは一度もなく、アンリエットから彼に声をかけることもないままだった。
帰宅中の馬車の中、アンリエットは安堵していた。これで終わっただろう、と。諦めただろう、と。
あそこまで明確に拒み、言葉も視線も与えず、謝罪という名の自己満足すら受け取らなかったのだ。あれでまだ縋ってくるほど、彼も愚かではないはずだ、と。
そう、思っていた。
だがこのときのアンリエットは、まだ知らなかった。
カビは、削ぎ落としたつもりでも、胞子を残すということを。




