012.リオンがお嬢様と駆け落ちした理由
殴られるのは、慣れていた。
剣の柄が頬骨を打ち、視界が一瞬だけ白く弾ける。
鉄の味が口に広がったが、悪態は気合いで殺す。
ここで声を上げるのは、悪手だ。
唾を吐いてもいけない。睨んでもいけない。
負ける気はしないが、身分がそれを許さない。
この国は、周辺諸国でも一、二を争う身分主義国だ。
「おい、見習い。お前、次の試合で負けろ」
聞き飽きた台詞だった。
必ず誰かがこう言う。大会でも、試合でも。例え、公式ではない練習の場であっても。
貴族の血を引かない者が、目立つな。勝つな。負けろ、と。
「もしもお前が勝ち進むなんてことがあったら、どうなるか分かってんだろうなぁ、おい。お前が入れる騎士隊はないと思え! いいか、絶対に負けるんだぞ!」
伯爵家の末の甘ったれ令息。
剣の腕は三流、だが家名だけは一流。
その歪な自尊心の捌け口に、ちょうどいいのが自分だった。
「分かりました」
そう答えた途端、二度目の衝撃が来た。
「……っ」
今度は遠慮がなかった。
膝が折れそうになるのを堪える。
倒れるな。
倒れたら、終わりだ。
今日の試合に出ないなんてことはありえない。
姉の顔が脳裏に浮かぶ。
痩せた背中。無理をして笑う顔。薬代の話をするときだけ、少し伏せられる視線。「大丈夫よ」と言ってリオンの頬に添えられる細すぎる手。
金が、要る。
騎士になれれば、末端でも構わない。
給金さえあれば、姉は死なずに済むかもしれない。
たとえ助からなくても、今よりもいい環境に置いてやりたい。
先ほどの、「分かりました」は嘘だ。
最短の時間で旗を上げてやる。
恥をかけばいい。平民に負けた、と指を差されろ──そんなことを思いながら歯を食いしばった、そのときだった。
「お待ちなさい」
場違いなほど澄んだ声が、空気を切った。
一瞬、幻聴かと思った。
こんな場所に、こんな声があるはずがない。
だが、違った。
視界の端に、ひらりと色が差し込む。
扇子が開かれ、その向こうから一人の少女が歩み出た。
茶色の髪は丁寧に整えられ、光を受けて柔らかく揺れている。
その後ろ姿だけで、場違いな存在だと分かった。
貴族の娘だ。
一目で分かる。
姿勢、歩き方、纏う空気。
それらすべてが、自分とは別の世界の人間だと告げていた。
なのに、彼女は迷いなく自分の前に立った。背中を向けて。自分を庇うように。
「あなたの名前と所属を言いなさい」
声は、少しだけ震えていた。
だが、その震えは恐怖からではない。
怒りだ。
それが分かった瞬間、胸の奥がひりついた。
やめろ。関わるな。ここは、あんたが立つ場所じゃない。
そう言いたかった。
だが、口は動かなかった。
「スティーヴン第一王子殿下の婚約者候補のアンリエット・フェアチャイルドと申します。ヤミン伯爵家のご三男様」
令嬢から名が告げられた、その瞬間だった。男の顔から血の気が引き、視線が泳いだ。
さっきまでの威圧は跡形もなく、口元に貼り付いた笑みだけが残った。
乾いた謝罪を並べ、男は逃げるようにその場を去る。
あとに残ったのは、急に重くなった沈黙と、二人分の気配だけだった。
「あなた、騎士になりたいの?」
振り返った彼女の顔を、初めて正面から見た。
可憐で美しい顔立ち。
だが、それ以上に目を引いたのは、その瞳。
「騎士となって、弱きを助け強きに挑む矜持はあって?」
蒼く澄んだ瞳が、値踏みでも憐れみでもなく、本気で答えを求めてこちらを見据えていた。
だから、嘘は吐かなかった。
「覚悟も矜持もないです。俺は、金が欲しいだけです」
自分でも驚くほど、正直な言葉だった。
彼女は否定しなかった。
眉一つ動かさず、ただ頷いた。
そして、首元のネックレスを外した。
「これを」
反射的に、顔が歪んだ。
「施しは受けません」
それだけは、譲れなかった。
だが。
「誰があげるなんて言ったの? これはスカウトよ。これを持ってフェアチャイルド侯爵家にいらっしゃい。そして、私の家に仕えなさい」
その言葉で、思考が止まった。
拾ったことにしろ。
結果を出せ。
そして、三日後の新聞と一緒にネックレスを持って来い。
畳みかける言葉は、命令ではなく、道だった。
逃げ道のない、だが確かな道。
去っていく背中を、リオンは呆然と見送った。
小さく、華奢なはずなのに、大きく見えた。
──恋だと気づくには、十分すぎる瞬間だった。
その後。
リオンは、自分を殴った男を負かし、史上最年少の四位を獲得した。
平民で、古い防具に古い剣の見習いを、どこの騎士団も欲しがった。
だが、リオンは新聞のネックレスの掲載を待ち、その足でフェアチャイルド侯爵家の門を叩いた。
◇◇◇
フェアチャイルド侯爵家に仕えるようになってから、リオンはアンリエットお嬢様を遠巻きに見る立場になった──一護衛として。
声をかけることも、視線を長く向けることも許されない位置にいながら、ただ見ていた。
それでも視界から外すことはできず、気づけば、無意識にその姿を追っていた。
お嬢様はずっと辛そうな顔をしていた。
笑っているときでさえ、どこか緊張が抜けきらずに。背筋を伸ばし、期待される役割を黙って受け入れている顔だった。
分かりやすく言えば、逃げ道がない顔をしていた。
しかし、分かっていても、リオンは動ける立場ではない。
自分は平民で、任務は護衛だ。
口を挟めば配置換えで済まない。首が飛ぶ。
だから余計なことをせず、見張りの位置で状況を拾い続けた。
それが最も彼女の近くにいられる、唯一許された場所だったから。
そんなある日、お嬢様はとあるパーティーに参加し、意識のない状態で帰ってきた。
このとき、自分が何を考えていたかは、よく覚えていない。
普通に寝起きして食事をし、仕事をしていたのは確かだが、それ以外には本当に何も覚えていないのだ。
ただ、胸の奥が冷えていく感覚だけが、異様に残っていた。
それから十日後、お嬢様が倒れて目を覚ましてからの動きは速かった。
目を覚ましたその日から、屋敷の空気が変わったのが分かった。
婚約者候補を辞退し、屋敷には王子を入れない。そこまで押し通した。
命懸けの説得には寿命が縮んだが、後になってみれば、「流石だな」と笑ってしまったのも事実だった。
それでも王子は毎日正門前に現れ、頭を下げ続ける。見世物になる場所を選び、周囲の視線まで味方につける。
あれは謝罪ではない。
場を支配して、流れを作っているだけだ。
お嬢様が嫌うのは、そういうところだとリオンは察していた。
助けてやりたかった。
けれど、助ける資格すら自分は持っていない。
その事実が、剣よりも重く、何度も胸に突き刺さった。
そう思っていた──あの日までは。
◇
勢いよく。迷いを断ち切るみたいに。部屋からアンリエットお嬢様が出てきた。
表情を見た瞬間、理解した。
これは助けを求めている顔じゃなかった。
「この中で婚約者、もしくは恋人、もしくは好いた女性がいない者のみ挙手をしなさい!」
一拍。
周囲の護衛が戸惑う──条件を考える。立場を測る。
リオンは、考えなかった。
条件を満たしている。
だから、腕を上げた。
彼女の視線が、こちらを射抜く。
一瞬、驚いたように目を見開いてから、すぐに決断の色に変わった。
「来て」
腕を掴まれた。
引かれるまま、部屋に入る。
鍵が閉まる音。外で始まるノック。
「単刀直入に言うのだけれど、私と一緒に駆け落ちしてほしいの」
想定していなかった。
いや、想定できるはずがなかった。
平民の自分が、侯爵令嬢に選ばれる。そんな前提は、最初から人生に含まれていない。
護衛として近くに立つことと、人生を共にする相手になることは、まったく別だ。
それでも、その言葉を向けられ、思考が止まった。
理解が追いつかないというより、現実として処理する準備がなかった。
喜びというより、まず『信じてはいけない』という警告が浮かび、それを感情が踏み越えてきた。
「いいですよ」
答えは、これしかなかった。
口にしたあとで、自分が何を引き受けたのかを考える余裕はなかった。
起こるはずのない話を向けられ、疑うより先に、心が先走った。
現実として受け取る準備はできていないまま、それでも拒むという発想だけが浮かばなかった。
──このときのリオンは、まだ知らない。
あの日の返事が、自分の生活を根こそぎ塗り替えることになるなど。
叱り、叱られ、呆れ、呆れられ、引っ張り回される。それなのに、距離を取ろうとすると、どうにも落ち着かなくなる日々が待っていることも。
この先、自分は守る側なのか、それとも振り回される側なのか。
多分、そのどちらか一方では済まない。
加えて、この女は相当に厄介だ。
何が厄介か? って?
そりゃあ、離れようという発想そのものが最初から浮かばないところである。




