11.アンリエットは理想の求婚を回収する
試合が始まる前は「余裕だな」なんて言っていたリオンは、確かに余裕そうだった。
そう、二回戦までは。
全ての試合を終えた今の彼は、右腕を痛めたのか左手だけで歓声に応え、瞼の上と左頬からは少なくない血が流れ、足もわずかに引きずっていた。
勝者の姿であるはずなのに、その動き一つ一つが、無理を重ねた末のものだと分かってしまう。
命にかかわる大怪我ではないけれど、試合中はハラハラしっぱなしで寿命が縮んだ気がする。
アンリエットはリオンが優勝したことよりも、試合が終わったという事実そのものに意識が向き、濡れた目尻を指で拭った拍子に、詰めていた息をようやく吐き出した。
例え、一回戦で負けたって、アンリエットはリオンにガッカリなんてしないのに。
むしろ負けてれば、ハイエナ女子達がリオンに勝手に幻滅してくれるかも? なんて思っていたくらいだった。
優勝してしまったせいで歓声はすさまじく、耳鳴りがするほどの音圧に、文字通り地面が揺れているような錯覚すら覚える。
ああ、ほら、ハイエナ女子共のキャピっとした声が聞こえる!
きい! ギリギリ……!
あれは私の男だー! と叫びたいアンリエットである。
だが、声を上げたのはアンリエットではなく、隣で一緒に試合を見守っていたトリッシュだった。
感情の振り切れ方が、アンリエットとは明らかに違う。
現在進行形で、「きゃあああああ!」と黄色い悲鳴を上げている。すごい肺活量だ。
かなり興奮しているのか、バシバシ! とアンリエットの肩を叩き、「ぴあああああ!!!」と奇声まで上げだした。
三年前まで儚い系の美女だった(らしい)とは思えないほどの元気っぷりにアンリエットは慄く。そして肩が痛い。
「お、お義姉様? お、落ち着いてくださいませ」
「はあ!? 落ち着いていられるわけがないでしょ!? アンリちゃんはどうしてそんなに落ち着いていられるの!! って、こんなこと話している場合じゃあないわ! ほら、立って! 立つのよ、アンリちゃん!!!」
「え? な──」
なんでですか、と言いかけたアンリエットは、言葉を飲み込んだ。
会場が、不自然なほど静まり返っていることに気づいたからだ。
歓声が止み、ざわめきも消え、まるで視線だけが音を持ったかのように、会場中の観客がアンリエットを見ていた。
ひと際強く痛い視線の先には、ハイエナ女子共がものすんごい形相でこちらを見ていた。
……はて?
今日はまだ彼女らと舌戦を繰り広げていないのだが? と首を傾げた瞬間、トリッシュの力強い腕に捕まり、強引に正面を向かされた。
ついでに、「んもうっ!」と文句を付けられた。
なんなんだ、一体。そろそろ、温厚なアンリエットも怒っちゃうぞ?
そして、よーし怒ろう、と腹に力を入れかけた、その直前だった。その視線の中心が自分である理由を考えるよりも早く、観客席下の試合会場から「お嬢様、こっち」とリオンの声が飛んできた。
こいこい、と手でジェスチャーされ、周囲とトリッシュの強引さにより、試合会場へ降りると、司会らしき男が「やっと降りてこられましたー!」と、最初から筋書きを知っていたかのような含みある声色で叫び、会場がどっと沸いた。
「? リオン、なあに? 試合は終わったのでしょう? 早く傷の手当てをしないと」
おずおずと近くに寄れば、リオンの満身創痍っぷりがよく分かる。
「お嬢様、またボーッとしてただろ。さっき、あのぶん殴りたくなる顔の司会者の言ったこと聞こえなかったか?」
「聞こえたわ。『やっと降りてこられました』って言ってたわね」
「ハズレじゃないけど、ハズレ。……その前に言ったこと」
やれやれ感なリオンに言い返すと、彼は困ったように笑う。
この顔にとっても弱いアンリエットは「ごめんなさい」と言いつつも言い訳の言葉が出てしまう。
「試合が終わってホッとしたら気が抜けちゃったのよ。だって、あなたったら傷だらけなんだもの。どこが『余裕だな』よ。心配ばっかりかけて」
途中から責める言葉が出てしまい、謝罪の言葉が霞んでしまうが言わずにいられない。
本当に心配したのだ。
「俺の予定では無傷で優勝のはずだったんだよ。……ああ、分かってる分かってる、今言うから」
前者はアンリエットへ向けた言葉で、後者は一体誰に向けたものなのか、すぐに察しがついた。
顔だけで後ろを振り向けば、リオンの言う『ぶん殴りたくなる顔』とやらの男がうんうんと大きく頷いていた。
それも何やら訳知り顔で。……それはそうと、なるほど、ぶん殴りたくなる顔に見えないこともない。
「お嬢様」
「──え?」
呼び止められた声の低さに、胸の奥がひくりと揺れ、呼吸の間が一瞬ずれた。
顔を戻すと、リオンは跪いていた。
「今日の勝利を貴女に捧げます。……褒美に、一生涯貴女の隣に侍る栄誉を賜りたく存じます」
リオンの言葉にアンリエットは一瞬きょとんと目を瞬かせ、意味を飲み込んだ次の瞬間、熱が一気に顔へ上るのを感じた。
「……ぬ、盗み聞きなんてマナー違反だわ」
「お嬢様の声がデカかったんだよ」
モナとチョコレートを食べながらしていたガールズトークの中で、アンリエットは、軽口のつもりで『理想の告白』を語っていた──「剣術大会で一等を貰った騎士様に、姫のように傅かれたいわ」と。
剣のセンスがまるでないカビ王子にはできっこない、素敵な告白がいい、と。随分とお花畑なことを夢見ていた。
「お嬢様、返事を」
リオンは余裕ぶってるけど、きっと内心落ち着かない気持ちでいるだろう。
彼は、いつも自信満々なわけじゃない。
「そうねえ。別にいいけど、条件があるわ」
初めて出会ったときのように、敢えて尊大な口調でアンリエットは言った。
ふ、とリオンがおかしそうに笑って、アンリエットは嬉しくなった。
「条件?」
彼の口調も初めて出会ったときのように、拗ね気味だ。
会場のあちこちから、「え?」「大丈夫?」「だめなんじゃない?」と、困惑混じりの囁きが漏れてきた。
けれど、当人同士にとっては、これは最初から決着のついている茶番である。
「『私の名前を呼ぶこと』、『浮気しないこと』、『二人きりのときにもう一度求婚をすること』よ!」
条件を言い終えるや否や、考えるより先に体が動き、跪いている彼の首に腕を回して抱き着くと、「お安い御用だ」という返事と同時に、力強く抱き締め返された。
「アンリエットの条件は易しいな」
初めて彼の声で呼ばれる自分の名前は、思いの外甘やかで、耳の奥に残った。
「そうでしょ? 惚れ直してもいいわよ」
「惚れ直した惚れ直した」
二回繰り返すのは彼の照れたときの癖だ。アンリエットはそれが分かることが嬉しくてニヤニヤしてしまう。
「はあ、長かった……」
「なぁにが『長かった』よ。私の求婚を断っておいて、罪深い男ね。一生かけて償いなさい」
「だから、お嬢……アンリエットに『理想の求婚』があるように、俺にだって色々あんの」
「色々、ねえ?」
「拗ねんなよ」
「別に拗ねてなんて──あらあらあらぁ?」
ここでふと、アンリエットの視界の隅にハイエナ女子たちが映った。
噛み殺しきれない悔しさをそのまま視線に乗せ、こちらを睨んでいる。
「ふふんっ!」
その視線を正面から受け止めるように、アンリエットは一歩、リオンへ近づいた。
ギリギリ、と音が聞こえてきそうなほどのそれはもう「悔しい!!」の表情でこちらを睨んでいる彼女達に、アンリエットは、その悔しさを塗り潰すように口角をくいっと上げ、声高らかに宣う。
「とくと御覧なさい、ハイエナ女共! リオンは私の男よ!!」
くくく、と悪そうに笑うアンリエットを目の当たりにしたリオンは「あんたのこういうとこ、嫌いじゃないんだよなあ」と破顔した。
そして、ハイエナ女子の歯軋り音と「ぴああああ!」という奇声混じりの歓声を背に、今なら、誰に何を言われても構わない。
悔しさごと見せつけてやればいいと思いながら、アンリエットはリオンの襟首を引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねた。
重なった唇を引き離した直後、遅れていた現実が追いついたように、会場全体が爆発した。
悲鳴と歓声が入り混じり、鼓膜が震えるほどの音量で、空気そのものが揺れた気がする。
アンリエットはその渦の中心で、リオンの腕に抱かれながら幸福感に浸った。




