01.アンリエットは絶望の中にいる
「婚約者候補を辞退させてくれないのなら、ここから飛び降りますから!」
アンリエットは部屋の窓枠に腰掛け、背中越しの外気を頼りない支えにしながら叫んだ。
腰の下から伝わる石造りの窓枠の冷たさが、自分がどれほど無茶をしているのかを嫌でも意識させた。
この部屋は三階で、真下には尖った鉄柵がずらりと並んでいる。
視線を落とせば一目で分かる高さだ。落ちたら、ただでは済まない。
命を拾えたとしても酷い怪我は免れず、後遺症だって残るかもしれない。
それでも、あの男がヒーロー役の恋物語のヒロイン役に据えられるなんて、どうしても受け入れられなかった。
思い返すたびに胃が重くなる。
出会った日から、いい記憶なんて一つもない。
アンリエットは、とっくに限界を超えていた。
今、この瞬間、本当に飛び降りてもいいと思えるほどに。
◇◇◇
侯爵令嬢アンリエット・フェアチャイルドは、フィルモアネガン国の次代継承者スティーヴン王子の婚約者候補だ。
世間では名誉とされる立場だが、アンリエットにとっては重荷でしかない。
スティーヴンとアンリエットが共に八歳のとき、何の前触れもなくそれは決まった。
当初、候補者は十人いたのだが、王子妃教育のあまりの厳しさと難解さに耐え兼ね、もしくは『不合格』を受け、一人、また一人とその数を減らしていった。
誰かが脱落するたび、場を支配するのは重たい沈黙で、残る候補者たちは自分の順番を怯えながら待ち続けた──アンリエットを除いて。
唯一、アンリエットだけは密かに祈っていた。どうか、次は自分が外されますように、と。
そして九年が過ぎ、今に至る。
辞退は許されず、続ける理由も見いだせないまま、それでも名を外されることもなく、アンリエットはこの制度に縛られ続けていた。
婚約者の決定時期については、十八歳だとか、二十歳だとか、はたまた決まるまでずっとだとか、いくつもの説が噂として流れているが、正式な言葉はまだない。終わりが見えないぶん、逃げ道もなかった。
この時点で残った候補者は、アンリエットを入れて四人。
公爵家のエリザベス、侯爵家のモーリーン、伯爵家のシャーレイン、そしてアンリエット。
巷では四人が熾烈に争っていると言われているものの、実際に火花を散らしているのはエリザベスとモーリーンの二人だけだ。
王子と二人きりの茶会やパーティーのエスコートが多いのがその二人だという事実が、それを示していた。
アンリエットより一つ年下のシャーレイン伯爵令嬢は、端から王子妃になる気はないらしく、彼女曰く「王子の婚約者候補に名が上がった、という実績が欲しいだけなので問題はないです」だそう。
なんでも、幼馴染である子爵令息と恋仲にあり、婚約者候補から外された暁には、その幼馴染の彼と結婚するつもりだとか。
つまりシャーレインにとって、この候補制度は通過点でしかないというわけだ。
「私を含む、爵位が低い候補者達に、アンリエット様は優しくしてくださいました。私は、いえ、私達はあなた様を支持いたします!」
キラキラした瞳で応援され、アンリエットはどうにか言葉を返したものの、それが礼になっているのかすら分からなかった。
『支持』という言葉が胸に重く沈んだ。
望んでいない期待を、気づかぬうちに背負わされている感覚が、どうしても拭えなかった。
そんなシャーレインもつい先日、候補者から外れた。
晴れ晴れとした顔で頬を桃色に染め、幼馴染の名を呟くシャーレインの姿が、アンリエットにはひどく眩しく映った。
アンリエットとスティーヴンでは、絶対にあり得ない仲睦まじさである。
アンリエットは祝福の笑顔を保ちながら、体の内側が冷えていく感覚に気づいていた。
それが羨望か、悔しさか、自分でも判断できないまま。
アンリエットがスティーヴンと初めて会ったのは、婚約候補者として顔を合わせた日だった。
王家特有の薄紫の瞳と、王妃殿下と同じ金の髪を持つ彼に、幼いアンリエットは胸を高鳴らせた。絵本の中の王子様みたい、と。
しかし、その高鳴りはすぐに消えた。
スティーヴンは綺麗な尊顔を皮肉に歪め、言ったのだ。
「ありきたりでつまらない髪の色だな」
その声音は明らかに嘲りを含んでいた。
周囲が凍りついた空気になっても、当のアンリエットだけは何を言われたのか理解できず、きょとんとしていた。
だが、言葉の意味が少しずつ理解として胸に落ちていくと、アンリエットは俯き、目に涙を浮かべた。
この国では金髪や銀髪が美しいと好まれているのだが、アンリエットの髪色は、平民にも多い茶色。父も母も兄も妹も金色の髪を持っているが、アンリエットだけが茶色の髪だった。
それでも、大好きな亡き祖母から受け継いだ色であったし、家族は「甘そうで美味しそうな色だね」と言って愛でてくれた色だ。
愛されて育ったアンリエットにとって、これは生まれて初めての否定だった。それも、将来、嫁ぐかもしれない男に。
とはいえ、子供の言ったこと。そう言って、大人達は笑い、アンリエットが謝罪をされることはなかった。
いや、むしろ謝罪したのはアンリエットの方だった。
「ありきたりな髪色で候補者になり申し訳ありません」と。その声は震えていたのに、誰も止めなかった。
これ以降も、スティーヴンのアンリエットへの態度は変わらなかった。
否、時間が経つほど態度は酷くなっていった。
まず、基本的に彼はアンリエットに一度も笑顔を向けたことがない。当然、視線も普段から合うことはない。
二人きりのときは、「ああ」や「そうか」と嫌そうに相槌を打つだけ。彼から話題を振られたことは一度もない。
多くの視線がある場ではさらに冷淡になり、一言も口を利こうとしなかった。
さらに、パーティーや公の場でエスコートされた回数は候補者の中で一番少なく、常に、次に脱落するのはアンリエットだと囁かれていた。
直近の候補者同士の茶会でも状況は変わらなかった。
エリザベスとモーリーンに、陰口というには堂々とし過ぎた声で散々に言われた。
「あの人、いつまでしがみついているのかしら? みっともないわよねえ」
「お顔の皮が随分とお厚いようで。わたくしだったら、辞退しますわ」
アンリエットだって、辞退できるならとっくに辞退している。
これまでに何度も願い出たが、そのたびに却下されてきた。
父に縋り、泣いて訴えたことも一度や二度ではない。
それでも返ってくるのは、決まって「もう少し続けてみなさい」という言葉だけだった。
スティーヴンと友人関係にある兄も、「あいつは愛情表現が下手なだけだ」と言って、まともに取り合おうとしなかった。
母に至っては、王妃殿下と学生時代からの親友であることを理由に、「お互いに異性の子供が生まれたら婚約させたいわね、と話していたのよ」と楽しげに語るばかりで、アンリエットの苦しみに向き合おうとしなかった。
アンリエットの味方と呼べるのは、幼馴染であり友人でもあるメイドのポリーと、二つ下の妹・モナだけだった。
特にモナはアンリエットに冷たい態度のスティーヴンを嫌っている。
そんな妹は、アンリエットと二人きりのときは彼を口汚く罵ったり、憤慨していて、たしなめるのにいつも一苦労していた。
だが、口ではいけないと言いつつも、怒ってくれる人間が存在するだけでアンリエットの心は軽くなった。
そうやって、なんとかバランスを取っていたのかも知れない。
そんな中で、アンリエットに転機が訪れた──これからずっと先の未来に、「あれが転機だった」と。そう語ることが起きたのである。
◇
いつものようにエスコートされることなく参加した舞踏会で、アンリエットはいつもの通り一人ぽつんと壁の花と化していた。
煌びやかな衣装と照明の中心で、スティーヴンはよく映えている。
王族としての気品も、社交界での立ち振る舞いも完璧だ。
それなのに、その輪の外側、影の位置に立つアンリエットへ向けられる視線は一つもない。
今日もまた、アンリエットに声がかかることはないだろう。
スティーヴンからも、彼以外からも。
なぜならこれが先にも言っている『いつもの通り』だからだ。
彼の婚約者候補であるアンリエットは、こうした場では誰からもダンスに誘われることはない。
ただ俯き、苦痛な時間を耐えるしかない自分を見ているはずの父母と兄は、もしかして自分のことが嫌いなのだろうか。
そう思うと目頭が熱くなってくる。
こんなに辛いのに、嫌で嫌で堪らないのに、父母兄は、「もう少し長い目で見てあげて」としか言わない。
父母兄も、アンリエットがこんなにも辛いのに笑っている。
どうして分かってくれないの?
長い目で、なんて。そんなのは散々見た。もう九年も!
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ……!
あんな男と結婚するくらいなら、名前も立場も、誇りも全部捨てた方がいい。
声を聞くだけで身体が固まる。
視線が向けられただけで逃げ場を探してしまう。
そんな男と、同じ家で息をする? 同じ空間に存在する? 考えただけで喉が詰まる。
見下す視線。冷笑。温度のない返事。
何も言わず、何も与えず、否定だけを残して去っていく態度。
それを毎日向けられる?
逃げ場もなく、終わりもなく……一生?
考えた瞬間、胃がひっくり返る。
アンリエットは、手に力が入りすぎていることにも気づいていなかった。
息を吸おうとしても胸が苦しく、空気が薄く感じる。
五か月後の査定日で万が一、億が一にもアンリエットが残留なんてことがあれば、『長い目』の期間は十年目に突入する。
考え過ぎだと分かっているのに、思考は止まらず、最悪の想像だけが次々と浮かぶ。
そして兆が一、不測の事態が起きてアンリエットが王子妃になったなら、その期間は『死ぬまで一生』になる。
その考えを振り払えないこと自体が恐ろしく、呼吸が浅くなり、視界までかすんだ。
……どうしよう、このまま立っていられない。
ぐらりと体が傾いたとき、久しぶりに、本当に久しぶりに、スティーヴンと視線が交わった。
──初めて見る表情だ。
そんな呑気な考えが浮かんだ直後、アンリエットは床に頭と体を強く打ちつけ、意識を手放した。
意識が遠ざかるとき、スティーヴンが自分の名前を呼んでいる気がしたが……気のせいだろう。
なぜなら、彼が自分を「アンリエット」と呼んだことなんて、一度もないのだから。




