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靄
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冬に向かう渓流の空気は冷たかった。
僅かな水面から靄が揺らいでいる。
獣の吐息と混ざる。
それは傷つけられた大地を恥じるように、その蹄の下で死に行く命を慈しむように、音もなく広がった。
体躯と比べて不釣り合いに小さな目はそれを捉えない。発達した聴覚と嗅覚がそれを塗りつぶすからだ。
濡れた鼻腔が囁く。
この先だ、この先だと。
鼓膜はついぞ先ほど拾った異音を繰り返し反芻する。
幾重、数万の筋繊維に覆われた脚が振り下ろされる。
生を受けて何百年の樹木が、紙細工のように地に臥した。木々を拠り所としていた小動物は逃げる間もなく擦り潰された。
靄が一層濃くなった。
転がる水の音。
滝壺の分たれる渓流の中央に獣は降り立った。
と、その奥で何かが蠢く気配がした。
敵か…いや…。
表情筋に相当するものがあったのならば獣の顔は醜く歪んでいたことだろう。
同胞か…獣が一歩を踏み出そうとしたその時、地面に穴が開き、虚な孔が獣を飲み込んだ。




