獣
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業は徳を招くと言うもので、それは良くも悪くも双方に通ずる。
荷馬車の作る安地から最初に出ることを買って出た盗人だったが、彼は暗がりから出るなり「おぉい!」と叫び始めた。
「兵士さん!兵士さん!蛮族が逃げるぜ!俺は止めたんだ!でも奴らにゃ言葉が通じねぇらしい!」
手を足をじたばたさせて注意を惹こうと必死だったのだろう。
「なぁ!これで分かったろ!?俺はこいつらの一味じゃねえんだ!なぁ、俺は見逃して…」
だが、注意を引いた相手はどうやらお目当てではなかったようだ。
「ひぎゃっ」滑稽な音がして脳天から蹄が落とされた。先ほどまで直立していた姿は無惨にも蛇腹状に折りたたまれ、血泡に沈んだ。即死だった。
「あんちきしょう、いらねぇことしやがって」
蛮族が舌打ちする。
そこで初めて獣の全容を目の当たりにする。
山のような背が黒々とした体毛を蓄える。日光を隠して夜とせしめる身体の下から大木の如く太い脚が先端の蹄に収束するように伸びていた。
熱された息が白く烟ると、幾年もの積層を思わせる二本の牙を鍔のように飾った。
その体躯から不釣り合いなくらい小さな目が一層鋭い気迫をもってこちらを睨め付ける。
それは人の背丈をゆうに超える、猪の群れだった。
「どうする、オートゥス。猪にしちゃ賢いようだ。囲まれてる」
オートゥスは筋骨隆々の腕を窮屈な姿勢から伸ばすと、荷馬車の側面に手を当てた。
「生きたきゃついてこい」太鼓かと思うような低い響きを持つ声がそう言い終えた否や、荷馬車の壁が突き飛ばされる。
木片を散らばせながらオートゥスはその身一つで目の前の獣に体当たりをした。
大人の背も超えようかという野生でさえ、その純粋な力に耐えられず体勢を崩す。
「ひゅー、何回でも惚れちまうねぇ」
残った蛮族が兵士の亡骸から剣を拾うと、オートゥスを追うように走り出した。
飛び出た二人はこれまで何百回もしたように背中を合わせ、獣達の猛攻に応える。
一人が木の棒で一匹の体勢を崩すと即座にもう一人が閃光のように首筋を掻き切っていた。
飛び退いた猪をこれまた一人が足元をさらい、再び刃が突き立てられる。
その足元にはすでに何頭もの猪が討捨てられていた。
半壊した荷馬車の陰で、青年は人と化け物の戦いを見ていた。
「強い…」確信をもって言えた。
事実二人は一頭、また一頭と猪の数を減らしている。
あわよくばこのまま全て退治してくれはしないか。そう思った矢先だった。
青年は自らに向けられた殺気に気がつく。
黒々とした毛皮に返り血をつけた蹄。間違いない、先ほど盗人を踏みつけた猪だろう。濡れた土をかき上げている。
考える間もなく横に飛ぶと、荷馬車は獣の下で木っ端微塵になった。
安定とは遠い体勢で青年は次の行動を模索する。
前方から差し迫る恐怖に耐えながら、青年は視界の端に光るものを見つけた。
一瞬躊躇いつつもそれを手に取り、青年は打って出る。
足場の悪い瓦礫を避け、再び猪が青年に向かって一直線に走り出す。
好機。
青年はこれを待ち望んでいた。
この突進を横にかわして横から叩く。
右手に握った剣が光る。柄を強く持ち直し、爪先で地を手繰り寄せる。
猪が迫る。一刻一刻が永遠にも感じられた。まだ、まだだ。
獣の濡れた息が感じられたその時、青年は地を蹴った。
今だ。
ひらりと猪をかわして剣を叩きつける。
そのはずだった。
ぬかるんだ地面が足の下から逃げ去る。その場で進むことなく空回りした両足が絡まった。
さっと血の気が引くのを感覚で理解した。
「あ」
獣の下敷きになった青年は痛みを感じることもなく命を落とした。