追走
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「おい!待てよ!」
渓流。
陽が沈み切った闇の中で水音が聞こえるのはいささか不気味だった。
自分の認知し得ないところで何かが蠢いている。知覚の外に存在する動的な存在…自らを必要とせず、ただそこに意識外のものがある事実。
それが、そう感じさせるのだろうか。
「待てったら!おい!」
青年は影を追っていた。
細い足は大きな武具を載せているにも関わらず苔生す巌を難なく飛び越していく。
「すばしっこい奴め…」
息を切らして悪態を吐く。ただでさえ悪い視界の向こうではこれまで追っていた影を遂に見失ってしまっていた。
木々が騒つく。
大きく吸った空気は独特の湿り気を帯びていた。
雨が近い。
馬車に乗った夕暮れ時には既に暗雲を目にしていた。
酸欠の頭を振り上げる。
「ったくよ…」
疲労で重い体に鞭打って、青年は再び駆け出すのであった。
「何があったんだ」
少女が去ったあとの村役場で青年は商店の旦那に声をかけていた。
「ハンターのあんちゃん…」
助けを乞う目で恰幅のいい男は振り向く。
彼はついぞ先ほどまで声を荒げていた男を宥めている最中であった。
「いやね、この方は贔屓にさせていただいている漁師さんなんだけどね…」
「あのクソガキ…おれの魚を盗みやがったんだ!」
男は手に魚用の仕掛け罠を持っていた。
「ホントはよぅ、この中にでっけぇ渓流マスがかかってたんだ。本当だぜ?いつも通り旦那に卸そうとした矢先にこれだ!」
禿げ上がった頭に真っ赤な顔。その姿は茹で上がった蛸にも似ていた。
「最初から俺は反対だったんだ!他所モノのガキなんざ…一目見た時からロクでもねぇことは明白だった!これで皆も思い知っただろう、あのガキは村に入れてやった親切心を仇で返すような悪魔だったんだ」
ひとしきり騒ぐと男は満足したようで、幾分か落ち着いたようだった。
「…あんたはいつも…魚をこの商店に卸しているのか?」
青年は男に問いかけた。
「ああさ!」
蛸のような男は全身で頷く。
「こちとら先祖代々漁師の家系よ!村商店には毎朝獲れた魚を卸してるのさ!」
村商店の旦那を見ると、確かに彼も異論なしのよう見えた。
蛸男は役場に備え付けられた長椅子に座ると、大きなため息をしてみせた。
「てぇことでよぉう、魚は卸せねえんだ、旦那」
「ええ、ええ。わかっております。大変なときこそ助け合いですからね」
腰を低くした旦那は帳簿で男の顔を仰いでいた。
助け合い、ねぇ…。青年は空になった罠を見ながら思う。
「なぁ、タコおやじ」
「タ…なんだって?」
「ちょっと話を聞いてくれよ」
青年は幾分か赤みの引いた男をまっすぐ見やる。
そしてその心は少女が駆けて行った先…渓流方面を向いていた。




