やり直し
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殺気の交換が行われる道の中心で、青年は大猪に飛びかかっていた。
荷馬車が横転する直前のことだった。
力では敵わない。
しかして距離を取っても詰め寄られる。
短剣を短めに持って振り下ろす。獣の頭蓋がちょうど終わる箇所に切先を潜り込ませた。
皮膚と脂肪を抜けて堅いものに当たる感触。
剣の腹に体重をかけて振り抜いた。
斬撃の軌跡に鮮血が噴き出す。
杉の木々をも振るわせる咆哮。
巨体は崩れ落ちるようにして地に臥した。もはや動く気配はない。
「四、五、六…」
獣は最期に聴いていただろうか。数字を一つ一つ、青年は唱える。
敵の首筋を掻き切るのは有効な手段だった。
だが、浅ければ相手が力尽きるまでに反撃の機会を与え、深くしようにも正攻法では手を出す前に負け去る。
奇襲ののち皮と筋肉の比較的薄い急所を狙った一撃離脱。
窮地の中に見出した行動だった。
脂と血で滑る柄を握り直しながら、青年は繰り返し数字を思い浮かべていた。
「十三、十四…」
今だ、青年は前方に身を投げる。
そのすぐ後ろを獣の大牙が通り過ぎた。
「十八、十九…」
低い姿勢のまま、背中側に剣を突き出す。
方向転換を行おうと勢いづいた獣の喉元に両刃が食い込んだ。
二十五、二十六、思考はしない。取り決められた行動をただ無心に遂行する。
一度でも狂えばそこで終わることを青年は知っていた。
既に温度を失い始めている猪から剣を引き抜く。それと同時に、剣を持たない左手を前に伸ばした。
「…三十」掌に小刀が着地。鹿角と白樺の絵を握りしめた。
拳一個半の刃がぬらりと光る。荷馬車に残されたものが衝撃で飛んできたものである。
ほぼ同時に後方で兵士達の悲鳴が聞こえる。荷馬車の影に隠れていたのだろう。それを破られたのは見るまでもない。
「三十、五…」
獣の屍を台に跳躍。
不安定な足場ゆえあまり高さは稼げないがそれでも良い。
空からの新手を気取った猪が牙を浮かせる。
それを待っていた…青年は飛翔を早めに切り上げると獣の懐に滑り込む。それと同時に刃を立てると、二本の刃がその腹を裂いた。
一本では足りない。足りないのだ。
なぜなら。
滑り込んだ先では蛮族が相変わらず二人組で戦っていた。
揺れる視界の中でしかし、その連携は既に乱れている。
それも当然である。
剛力が自慢らしいオートゥスはともかく、もう片方は先の尖った木片で獣と対峙している。流石にそれでは獣を仕留め切れない。
兵士が無事ゆえに剣を取れなかったのだろう。先に見た連携が成立していない。
それでも足元に数頭は倒しているのだから善戦していると言うべきか。
「おい!受け取れ!」
青年は叫ぶと剣を高く放った。
「恩に着る!」
躊躇もなく剣を受け取った蛮族はそれを目の前の猪に叩きつけた。ぬかるんだ土にまた一つ、巨躯が倒れる。
青年はそれを見届けると、伏せた姿勢で震える盗人を見つけた。
呼吸が続かない。
頭は灼けた砂を入れられたように重く熱く、捨て身で闘った体は致命傷こそないものの細かい打撲と擦り傷に覆われている。
それでも叫んだ。
「立て!」
盗人が一段と体を震わせる。
「い、嫌だぁ!殺されたくないぃ!」
「うるさい!しのごの言わずに立つ!」
「鬼だぁ!おまえは鬼だぁ…!」
青年はうずくまる男の襟を掴んだ。
半ば無理強いされて盗人が立ち上がる。その顔は泥だけでなく、ありとあらゆる体液で滑っていた。
「持て!」
「なんだよそれぇ!そんなちっちゃい小刀で何をしろって言うんだぁ!」
鼻汁で泡を作りながら盗人が叫ぶ。
「いいから持て!はい!頭の上!もっと高く!」
「ひぃぃ…」
まだ血が滴る小刀を盗人が掲げた時だった。
盗人の頭上に、どこからともなく蹄が振り下ろされた。
「あきゃっ」
聞こえたのは獣の悲鳴だった。
その脚の裏には、小さな小刀が刺さっている。
そう、一本では足りなかったのだ。
怒り狂う獣は四つ脚で立つことが叶わず体勢を崩す。待ちかねたように青年が荷馬車の残骸を蹴り込んだ。
その一部から見覚えのある部品が飛び出す。
歪に曲がった金属が灰褐色の道を跳ねる。半周回ったところでそれは回転を止め、その場に弧をつくりだした。
その正体は二つに割れた車輪である。
そしてそれが留まる場こそ、大猪の倒れ込む先、胴と頭部を繋ぐ首が振れる先に他ならなかった。
直撃。大木が折れるような音が響いた。
四肢を痙攣させながら猪が倒れる。
「…四十四。」頸椎を砕かれた獣は鼻と口から黒く淀んだ血を流して沈黙した。
青年は動かなくなった獣の前でその死を確かめる。ほんの少しの油断でも状況を覆しかねない。
その目にこれ以上命がないことを確認して、初めて武装を解く。
「…便器じゃないだけマシだろ。運命は残酷なんだ」
街道に現れた化け猪八頭。
その最後が倒れた瞬間だった。




