Chapter.2
あれ以来、リーゼロッテは不安定な精神状態が続いた。
突然、怒って部屋の物に当たり散らかしたり。朝から晩まで泣き叫んだり。ずっと見えない何かに怯え、布団から出なかったり。一日中薄ら笑いを浮かべて、独り言をしたり。時には自傷する事もあった。また、心が性欲に支配される事も。
その度に気遣って、寄り添って、安心させて、見守って、手当てして。コイツを身請けした時はここまで苦労するとは思いもしなかった。
だが、それもついに──
「あ、あの……」
リーゼロッテが初めて自分から部屋を出て、声をかけてきた。それは今までと違い、その瞳には俺が見えていて。ようやく長い悪夢から解放された。
「リーゼロッテ。 やっと目が覚めたか」
「あ、あぅん……」
「おい。 何だ、そのおどおどした態度は。 いつもみたいに」
「……ひっ、びえぇぇぇぇ‼︎」
「な──な〜ッ⁉︎⁉︎」
と、思っていたのだが、そうではなかった。
まだリーゼロッテはリーゼロッテじゃない。我ながら意味不明だが、絶対にそうだ。もしそうでなければ、あのリーゼロッテが、あのリーゼロッテが──大泣きしながら小便を漏らす訳がないっ‼︎
「……お前、何やってるんだ!」
「びえぇぇぇぇ‼︎ おかあさま、おとうさま、どこ〜っ。 リーゼ、こわいよぉ〜っ」
「は? 何を子供みたいに──ま、まさかッ‼︎」
そのまさかだった。リーゼロッテは幼年期以外の記憶を失い、自分を子供だと思い込んでいた。
すぐさまルゥルに聞いたところ、精神に負荷がかかり過ぎた結果、自己防衛が働いて幼児のようになってしまう事がある。ただ彼女に関してはクスリの影響も考えられるのでイレギュラーとして見た方がいい。だから、しばらくは様子見で絶対に余計な刺激は与えず子供として接して、と言われた。
そういう事なら仕方ない。とりあえず、リーゼロッテには親の都合で俺が一時的に預かっていると嘘を吐き、面倒を見る事にした。
だが──
「あわあわ〜、あわあわ〜」
「……くっ……」
どうして風呂の世話をする羽目になるんだっ‼︎ 俺はお前の召使いじゃないぞっ‼︎
などと言ったところで不毛なだけ。だから、仕方なく譲歩してやる。してやるが。そもそもコイツは、男に裸を見られて恥ずかしくないのか? 気を遣って泡風呂にしたから丸見えじゃないとはいえ多少の羞恥心はあるはずだ。例え、子供であろうと。
「ねぇ。 からだ、あらって」
……欠片も無ないか。
「みぎてー」
「あぁ」
言われるがまま身体を洗ってやる。
右手の次は左手。その次は背中。そして、その次は。
「まえー」
「あぁ──……おい、ちょっと待て」
「なーに?」
「そこは自分で洗え」
「どうして?」
不思議そうな顔で首を傾げられてしまった。
どうする。今のコイツにお前の身体が大人だからと言ったところで通じるのか。そもそもコイツには自分の身体がどう見えているんだ。子供のままなのか。
いや、何にせよ。いくら見慣れた裸だろうと今の状態のリーゼロッテの身体に、女の大切な場所に触れるのは。
"お願い。 貴方の手で、洗い落として"
その時、手を握られ、頼まれた。
誰に? コイツに? この子供に?
「ねぇー、あらってよー」
いや、違う。不満げに俺を見つめるコイツじゃない。今のはリーゼロッテに、か。
「…………。 分かった」
お前がそう言うのなら、俺は。
「うぅ、ゴシゴシいたい」
「ヨゴれを落としてるんだ。 我慢しろ、リーゼ──」
「終わったぞ。 さっさと上がれ」
ヨゴれを洗い流し、濡れた身体を拭いてやろうとしたその時。突然、リーゼはソワソワして思い詰めたような顔でじっとこちらを見つめてきた。
「どうした。 トイレか?」
「ちがうの、そうじゃなくて……おまた、へんなの……」
リーゼの頬がやや紅いのは湯船でのぼせたからだと思っていたが、どうやらまだクスリの影響が残ってたようだ。
「ちょっと待ってろ。 今薬を取ってきてやる」
「く、くすりっ⁉︎⁉︎」
「何だ、急に青ざめた顔して」
「……ヤ……ヤぁーっ‼︎ おくすりヤぁーっ‼︎ にがいのヤぁーっ‼︎」
「は?」
まだ持ってきてすらいないのにリーゼは半べそをかき、俺の胸を一心不乱に叩いてきた。
この激しい拒絶と、苦いのが嫌いだと。
もしかして、コイツが頑なに薬を吐き出していたのは。
「お前……ワガママ言うなっ‼︎」
「ヤぁーったら! ヤぁーっ‼︎」
「ダメだっ! 今日は絶対に飲ませるっ‼︎ 何があっても飲ませるからなっ‼︎」
何故だ。
そんな下らない理由で薬を吐き出されていた事に怒っているはずなのに、心は穏やかで妙な感じがする。
知らなかったな。
弱点が何一つ無い。完全無欠だと思っていたリーゼロッテにこんな一面があったとは。
昔、食堂で不機嫌な顔のアイツを見かけた事があったが、あれは嫌いな物を出されたからか。
笑ってしまうな。
✳︎
「あー……」
深夜遅く。疲れてリビングのソファーへ倒れ込むのが日課と化していた。
その理由は、無論リーゼのワガママのせいだ。
毎日ミルクを飲みたいだの、嫌いな野菜を食べたくないだの、一緒に遊んでだの、決まった時間になると菓子を食いたいだの、出掛ける時は一緒に連れていけだの、寝る前には絶対お話を聞かせてだの、他にも色々と。それを逐一聞いてやる俺も俺だが、少しは我慢しろよ。全く、一体どれだけ甘やかされて育ったんだ、アイツ。ルゥルもかなりのワガママだったが、ここまで酷くなかったぞ。
「……リーゼロッテのやつ、このままずっと」
この一週間、何度かクスリの影響がぶり返す事はあったが、記憶に関しては何もなかった。
「いや、まさかな」
今は一時的にああなってるだけ。その内、元に戻るとルゥルも言っていた。それが間違いな訳がない。このままだなんてバカバカしい。今さら焦る必要など──
「ねぇ、きょうのあさごはん。 おいしーね」
「…………」
焦る必要などないはずなのに、この呑気な笑顔を見ていると、
「リーゼ。 食べ終わったら出掛けるぞ」
「やったぁ!」
ただ待ってなどいられなかった。
およそ四時間かけてやって来たのは、西の田舎町。人として信用する価値はないが、情報屋としては信用出来る元級友──アルスから買った情報によると、以前アルティエラ家に仕えていた老婆がこの町で暮らしている。恐らくその老婆とは俺のよく知る人物の筈だ。
彼女に今のリーゼを会わせたところで都合よく記憶を取り戻したりしないと思うが、幼い頃のリーゼロッテの話を聞く事は出来る。それによって今の状況を好転させれる可能性はあるし、少なくとも俺の心労はマシになるはずだ。
「ねぇ。 リーゼ、あるくのつーかーれーたー」
「文句を言うな」
本当なら飛行魔法を使い、すぐ到着していたはずなのにコイツが空を飛ぶのは怖いと言い出したせいで歩く羽目になった。つまり、コイツが悪い上に、そもそも疲れたと言える程歩いてなどいない。
「おんぶー」
「……またか」
家を出てからずっとこの調子だ。少し歩けばすぐおんぶ、おんぶとうるさい。人目のつかない場所なら百歩譲ってしてやるが、町中では絶対にやらない。コイツにもそれは言ったはずだが、
「ぶぅー、おんぶー」
通じる訳がなかった。
「もう少しで着く。 我慢しろ」
「ヤぁ〜」
「…………。 おい、もたれかかるな」
「なんで?」
「周りに変な目で見られるだろ」
「べつにリーゼはきにしないもーん」
「くっ、お前な」
ただでさえ町に入ってから妙な視線が集まっているのに、こんな目立つ事をすれば余計に。
『──見て、アレって』
『──よね』
案の定、さらに視線が集まってしまった。それがコイツの着ている歳不相応の子供じみたワンピースに対してならどれだけ良かったか。
別にあんなやつらの視線など気にする必要はない。だが、何も知らない。知ろうともしないくせに、コイツの事をアレコレ推察されるのは腹立たしい──。
「ここか」
町外れにある目的の家に着き、ノックをすると四歳くらいの少年がひょっこりと顔を出し、何やら感嘆の声を上げ、中に戻ってしまった。
しばらくすると、先程の少年はさらに三つ程歳上に見える少年と一緒に戻ってきた。
「なぁー、本物だろ!」
「ま、マジかよ。 あ、あの、どうしてカルヴァス様がうちなんかに……?」
「メラダさんに用があって会いに来たんだ。 いるか?」
「ば、ばぁちゃんに⁉︎ すぐ呼んできますっ!」
「きまーっす!」
少年達が呼びに行っている間、リーゼは『ねぇ』と首を傾げ、俺が有名なのかと尋ねてきた。別に隠してる訳ではないが、一々話すのも面倒なので『一応な』と返しておいた。
『──っ‼︎』
『──!』
『──ッァァ‼︎』
念の為、窓から外の様子を見ると、リーゼは先程の少年達と楽しそうに遊んでいた。あのはしゃぎようからして、しばらくはこちらの事など忘れ、家の中へは来ないだろう。
これで、安心して彼女と──メラダ・ソフライアンと話す事が出来る。
「突然押し掛けた上に、さっきはすまない」
「いえいえ、謝らないでください。 驚きこそしましたが。 またお二人に会えて大変嬉しゅうございました」
「そう言って貰えると助かる」
リーゼロッテが彼女を目にした時、見覚えはあるといった反応はしていたが、自分の知る人物とは違うと判断したのか。俺の背に隠れたまま話そうとなしなかった。
そうなる事を想定していなかった訳ではないが、リーゼロッテの身を心配していたであろう彼女には本当に申し訳ない事をしてしまった。
「先程のご様子。 お嬢様の身に一体、何が……?」
「今のアイツは──」
娼館でクスリ漬けにされていた事は伏せ、これまでの経緯を伝えると彼女は大粒の涙を溢し、俺へ礼を言ってきた。
彼女は先々代からアルティエラ家に仕え、リーゼロッテは我が子同然のように大切な存在。だから、俺に礼を言ってくるのは分かる。
だが、あくまで俺は自分の望みの為に面倒を見ているに過ぎない。彼女に礼を言われる資格など──。
しばらく時間を置き、彼女の気持ちが落ち着いたところで本題の幼い頃のリーゼロッテについて話を聞くと、信じられない事ばかりだった。
周りを困らせるような事は言わず、黙々と本を読んでいるような大人しい子で、自分で出来る事は何でも自分でする。まさに絵に描いたような良い子だったらしく、今のリーゼとはまるで正反対だ。
もしかすると、アイツはただ記憶を失くしている訳ではないのかもしれない。
日が傾きかけた頃。メラダに別れを告げて家を出ると、リーゼは門扉の前でしゃがみ、主人の帰りを待つ子犬のように待っていた。
その背はとても寂しく、いつもより小さく見えた。
「アイツらはどうしたんだ?」
「あのね、おんなはついてきちゃダメってともだちとどっかいっちゃった」
「そうか。 待たせて悪かったな」
「ううん、へーき」
「帰るぞ」
「うん」
リーゼと歩く夕焼けの中、
「夜、食べたい物はあるか? 何でもいいぞ」
「んー。 カップケーキ」
「……分かった。 知り合いの店なら多分出してくれる。 もし、ダメな時は」
「ちがうの。 "カル"のつくったカップケーキがたべたいの」
「お前──俺がカップケーキを作ってやった事なんかないだろ。 何でまた」
「でも。 たべたい」
ふと先程のメラダの話が頭を過る。
良い子だった、か。
「そうか。 じゃあ──」
「え。 わひゃっ⁉︎」
リーゼを抱きかかえ、空へ駆け上っていく。
「空を飛んですぐ帰らないとな。 怖くても」
「…………。 ううん、こわくないよ。 なんでだろ?」
「いや、俺に聞くな。 というよりお前な」
「ずっとふわふわこわかったの。 ふわふわしてふわふわしてずっとふわふわして、こわいっておもってたのに。 なんでだろ?」
「……だから、俺に聞くな」
「"カル"、おしえてよぉ」
「うるさい。 舌を噛むぞ」
飛行魔法の速度を上げ、リーゼを黙らせる。
コイツ、今まで『ねぇ』とか言って俺の名前を呼ばなかったくせに、さっきからしれっと『カル』と。
まさか、これからずっとそう呼ぶつもりじゃないだろうな──。