牛の首
おれは何者なのだ?
どれほど長い時間をすごしたのだろうか。この仄暗い闇で、おれは這いつくばったまま微睡んでいたはずだ。
それこそ波間を揺蕩うような眠り。
不意にそれが破られたと思ったら、カミキリムシがクヌギの木に潜り込んで害するように、記憶が穴だらけになっているとは……。
気が触れそうになるほど、孤独を強いられたような気もする。
しかしながらそれは同時に、安寧をも意味した。昔は戦に駆り出され、いくつもの難局を切り抜けたのだけはおぼろげに憶えている。数々の武勲も打ち立てた。今さら凪のごとき調和を乱されたくもないのだが……。
おれは何者なのだ?
なんとも嘆かわしい。境遇はおろか、自分が誰かすら忘れてしまったとは度し難いまでに耄碌したものよ。
少なくとも自由を許されぬ身らしい。
立ちあがろうにも頭をぶつけそうなほど天井は低く、すぐそばには堅い壁が塞がっているようなのだ。
ろくに光も射さぬ部屋の隅にいるらしい。
左と背後は逃げ場のない壁で、造りは堅牢に尽きる。おれの力をもってこれを破り、脱走することは難しかろう。地面は乾いた土だった。
三間(約5.4メートル)ほど前方に、天井からいくつもの光が射し込んでいる一画がある。なにやら文机のようなものが見えた。
一方、右手は深い闇が広がり、どれほど奥行きがあるのか見当もつかない。
墨をぶちまけたような暗黒で塗りつぶされていた。
遠くで雷の音がした。
ひっきりなしに遠雷はくり返され、おれの耳朶をびりびりさせる。
おいおい、おれは何者だったのだ? 思い出せ、このうつけ者め!
うずくまった姿勢で、ずっと命令がくだされるのを待っていたのではなかったか?
なんたる失態か!
よもや飢えと渇きが、おれの正気を奪ったのではないか。
戦での輝かしい功労は憶えているのに、なぜこんな檻の中で飼われる身に落ちぶれたというのだ。
おれは何者か?
そしてどこに閉じ込められているのだ? ここはどこだ?
夜目さえ利かぬ暗がりでは、己の身体を調べることもできない。さぞや痩せ衰えているであろう。醜いほどの衰弱ぶりを示しているのではないか。
憤懣やるかたなき思いが、むくむくと募ってきた。
おれをこんな目にあわせた奴を面罵せねば気が済むまい。
なんとしてでも、おれは記憶を辿らねばならぬ。
と、そのときだった。
右手の闇の中からだった。深海のごとき暗黒の向こうで、じゃり、と音がした。硬い、なにか連結したものを引きずる音。
とっさに鎖だと直感が働いた。
不機嫌な、呻吟するような唸りを耳にした。
身じろぎするような気配が空気に伝わる。
思わず身を硬くした。心胆寒からしめる圧倒的な存在を感じずにはいられない。さして広くない檻の中に、おれ以外の虜囚がいるらしい……。
さすがのおれも、同じ境遇の者がそばにいようとも、お近づきになるにはあまりにも不気味すぎた。それほど人間離れした気配だった。
四つん這いの姿勢で地面をまさぐりながら、とりあえず前に進んだ。
地面の土を掻くように進むと、煙が立ち込めた。おかまいなしに歩いた。
天井から幾条もの光が射し込む一画をめざす。
光に対する憧憬か。あるいは羽虫がロウソクの炎に群がり、自らの身を焼いてしまう悲しき性か。人ならばこその習性であろう。
文机のようなものがあると思ったが、近づくにつれ――否、そうではないことがわかった。
簡素な祭壇である。
この場所にはいささか不釣り合いな配置であった。飾りの部分に浮き彫りが施されている。
三匹の猿が、それぞれ眼、耳、口を両手で塞いだ意匠。
おれは手でなぞったつもりだったが、指が触れると、カツンと音が鳴っただけだった。
あろうことか、五指が退化してしまっていた! 手は大きく二つに割れ、硬質化している。これではまるで、獣の蹄ではないか。
むしょうに身体がどんな状態なのか、知りたくなった。知らずにはいられない。
天井から淡い光が射し込む真下まで這いずり、よく見ようと照らした。
なんたることか……。おお、醜く変容した我が肉体。
呪わしい、獣の身体へと変わり果てていたのだ。
おれはもう人ではないのだと?
かくも長きにわたる闇の中での幽閉は、おれを人ならざるものに降格させたに相違ない。
もはや涙すら枯れ果てたか。
今さら感傷に身を焦がしたところでどうにもならぬのだ。
とにかくおれは気持ちを静め、あたりを観察した。
祭壇の上には、盆と、大きな丼のような器が斜めに横たわっていた。二つあった。
四角い盆の左右の縁には穴が開いている。丼は縁いっぱいまで黒ずんで汚れていた。恐らく食物を食べたあと、乱雑に放置したのであろう。
祭壇の真上の天井には、跳ね上げ戸らしき輪郭が見て取れた。
試しに押してみたが、ビクともしない。向こう側から錠か閂でもかけられているにちがいない。考えるに、跳ね上げ戸から何者かが紐のようなもので盆を吊り、丼に入れた食料を上げ下げしたのだろう。
とすれば、やはりおれと、もう一人の見えざる相棒は囚われの身なのだ。
祭壇の裏の壁を見た。
縦書きで、なにやら文字が書かれている。
天井から洩れる光のおかげで、辛うじて読み取ることができた。
――『忠義一徹 死して護国の鬼となれ』
なんのことやらさっぱりである。
死して護国の鬼となれ、だと?
仄暗い闇の中でおれは頭をひねって考えた。そもそもおれは何者なのか、それすらわからぬというのに。
腹は減り、喉の渇きでどうにかなってしまいそうだったが、幸いにして思考を奪われるまでには幾分ゆとりは残されていた。
どうせやることはない。
さしあたって、まずは闇の向こうにある、鎖でつながれた同居人に接触するべきだ。
広くない檻の中。こちらの身の安全を確認する意味においても、後顧の憂いは絶っておきたい。
近づくのはいささか怖いとはいえ、おれと同様、虜囚となっているからには、何某かの理由があるはずである。会話できる相手なら問いかけてみるべきだ。
そんなわけで、おれは闇をまさぐりながらそちらに進んだ。
ゆっくり近づいた。
鎖の引きずる音とともに、地鳴りのような唸り声がした。
さらに迫ると、威嚇するような足音と、ガチャガチャと硬い鉄材がこすり合う音がこだました。
今のは鎖のそれではない。
いったい闇の向こうにいる奴は、どんな姿をしているのか?
おれの想像も及ばない。
近づきたくないような嫌な予感がしつつも、怖いもの見たさが後押しする。
ここまで来れば、おれの中の野生に火がついたか。
幽かながら、闇の向こうに巨大な人影を見つけた。
恐るべき巨漢が身を二つに折ってうずくまっていた。
たくましい巨躯だけではない。それは異様な頭部をしていた。
おれは眼を凝らして、その囚人を見た。
なんと、それは牛の頭をしているではないか。首から下が男の身体つきをしていた。なぜか甲冑を身にまとっていた。
おれは一瞬、地獄で仕える役人である牛頭のことが頭をかすめた。
そいつが立膝になり、両腕で抱える形で座っているのである。牛の頭は、まるで反省を促されているかのように俯いている。
じっさい、足枷をつけられ、鎖に繋がれていた。その一端は壁と連結していた。なにか罪を犯し、戒められているにちがいない。
「おい」と、掠れた声をかけた。口蓋に舌が貼り付いたかのようにぎこちない発音となった。それほど長い間、誰とも会話を交わしたことがなかったのだ。「おい――そこの、あんた」
眼の前の牛頭は、ゆっくりと頭をあげた。なんの感情も汲み取れぬ艶もない瞳がおれを射抜いた。
「なんだ」意外にも、そいつは人語をしゃべった。ただし、クマバチの羽音のように低く、鈍い響きだった。「腹が減りすぎて、どうかしたんじゃないのか。えらく他人行儀じゃないか」
「おれとあんたは初めから他人だろが。あんたの方こそ、なぜ鎖に繋がれているのだ。おれはそこまでひどくはない」
「知れたことよ。おまえはおれを産むついでに派生したにすぎん。クタベじゃないか。そんなのを縛っておく必要もあるまい」
「クタベ?」
「やれやれ、それすら忘れるほど、参ったのか。さては供物切れがおまえを狂わせたのかもな」と、牛頭は壁にもたれ、姿勢を崩した。とはいえ甲冑をまとっているせいで、楽とは言い難い。まるで声帯に砂でも詰まったかのような耳障りな声だった。「もう長いこと、城の秘密を知る連中は、おれたちに食料を届けていないからな。それほど世間から忘れられている。となれば遠からず、おれもおかしくなるのか」
「いま、城の秘密、と言わなんだか?」
おれは身を乗り出して聞いた。
「ははは……。一から教えねばならんとは、おまえも気の毒な身になったものよ。よかろう」牛頭は首を傾け、あごから垂れたよだれをグイと拭った。「さよう。ここは、とある城の礎にあたる秘密の牢だ。牢と言っても、なにもおれたちは咎人ではないぞ」
「城の礎。秘密の牢だって? 咎人でなければ、なんのためにおれたちは閉じ込められているというのだ?」
牛頭はうっそりと首をめぐらせたあと、こう言った。
「おれたちはこの城を建てるとき、呪術として使役させられたのよ。築城において、おれたちの身体は切り刻まれ、おれとおまえの一部を交換して埋められた。おれは首だけにされ、おまえの首から下の肉体と、甲冑と得物とともにな。逆におまえは、首と、おれの肉体とともに埋葬されたのだ」
「なにを言っておるのだ。訳がわからん」
「首だけをすげ替えたのだ。だからおれは牛の首を持った、武者の姿へと変化させられた。かたや、おまえは――件となった。それすら思い出せないとは、哀れな奴」
「件だと?」おれは烈しく動揺した。件とは、人偏に牛と書いて件と読ませるように、人の顔をした牛ではないか。人心を惑わす伝説にすぎないと思っていたが――。「このおれが、人面牛身? なんのために、こんなことを」
「そこの壁に書いてあるだろう。忠義一徹、死して護国の鬼となれ。それがおれたちに与えられた任務だ」
「こんな身に落ちぶれてまで、仕事が与えられたというのか!」
「なにも憶えていないとは、おまえ、かなり重症だな。少なくともおれはまだ我慢し続けられているぞ。これが我が種族の粘り強さよ」
「ここから出してくれ。もうこんな生き方、こりごりだ!」おれは胸の奥から突きあげてくる狂おしい気持ちに屈する寸前だった。溺れかけの人のように空気を求めて喘いだ。「なぜ城の基礎に埋められなきゃならんのだ! ここから出た暁には、このことを世間に暴露してやる! こんな鬼畜の所業、許されていいはずがない!」
「他言無用。そこの壇の文様を見たであろう?」と、牛頭は身体を伸ばし、淡い光がこぼれる祭壇のある場所を指さした。「見ざる言わざる聞かざるだ」
「どういう意味だ?」
「城を建てるときの秘術なのだ。このことを黙っておけ。仮にこの秘密、洩らすことがあれば、そんなおしゃべりには呪いがくだされるであろう」
「呪いだ? 誰がそれをかけるというのだ?」
「わからず屋め。――このおれさ」
と、牛頭は親指で自身の胸を示した。
そのときだった。
直後に、彼の片方の耳がピクリと動いた。
すぐに眼玉を片方に寄せ、手元の長い棒状のものをたぐり寄せる。
槍だった。
優に牛頭の背丈を越えるほどの柄を誇り、銅金はいまだ金色をとどめていたが、十文字になった穂先は錆びついていた。それが無為にすごした歳月を物語っていた。
牛頭はしゃがんだ姿勢で天井を睨んだので、おれは、
「どうした?」と、声をひそめて聞いた。
「めずらしく、お客さんのお出ましらしい。どれ、おれの出番だ。久しぶりにひと暴れしてこよう。おまえはそこで這いつくばっていろ。件らしく、な」
耳をすませば、おれにも辛うじて聞こえた。
大勢の兵が城内になだれ込み、鬨の声とともに刀と刀がぶつかり合う懐かしい音が。
牛頭は力任せに壁に取り付けてあった鎖の一端をちぎった。恐るべき力を見た。
しょせんおれは件だった。
おれにはわかる。きっとこれから、この牛頭めは、狼藉を働く敵どもを蹴散らすのだろう。
◆◆◆◆◆
ここで一冊の論文を紹介したい。1925年出典である。一部抜粋してみよう。
>『動物を犠牲にする土俗』 駒込 林二
築城と犠牲
磐城國東白川郡竹貫村の駒ヶ城は竹貫氏代々の居城である。異名を牛ヶ城と云ふてゐる。
初め築城のとき地固めに城山の麓の四方へ、生牛を籠詰にして埋めたが、文政の頃(1818~1830年間)に同村の北川和泉の裏土藏の地所から籠詰の牛骨を掘り出したことがある。
昔は築城に生牛を埋めることは其の例あると見え、積逹館基考補正二本松霧ヶ城の條に、古城主畠山上野介國入道信元が、生きたる斑の牛二頭を本丸に築き入れたので、二牛の精霊が現はれて敵寄せるときは不思議があつたと載せてある。
此の記録は單に築城と犠牲を知るばかりでなく、それが考古學的に證明されたことを知る上に極めて珍重すべきものである。
斯かる例は他に在ると見え、信濃國東筑摩郡生坂村には、昔、武田信玄の麾下の者が築城してゐたが、天文十六(1547)年に、上杉謙信に攻められて落城するとき城中から一頭の赤牛が飛び出して、城に近い大澤池に入り大蛇となつたとあるのは、牛の犠牲が説話化されたものである。
のみならず、あながち犠牲の意味で生き埋めにされた例ばかりではない。
攝津國川邊郡某村、南北朝時代に汐川秋仲が築城したときも、曰くが残されてゐる。
天正七(1579)年に汐川光圀が織田信長から与えられたのではないかともされている山中城である。たびたび天災が重なり、築城の際、工事が滞つたと云われてゐる。
それで白に黑の斑ある牛の首を斬り落とした。
一方で戦で殉死し、首級を取られた優秀な兵の首から下とを、赤い陣羽織で包み込み、袴、甲冑、槍、刀とともに埋めた。
宮司が祝詞を詠み、『死して護国の鬼となれ』と唱えた。此の殘酷なる咒術が功を奏したか、その後敵軍に攻め入られたとき、頭が牛にして、身体は甲冑姿の大男が現はれた。果たして槍で敵兵を蹴散らし、大太刀で相手を両断し、怪力無双ぶりを発揮したとされてゐる。
築城の際の動物供儀ばかりではなく、城に攻められたときの最後の切り札として用意されてゐたのかもしれぬ。
しかしながら、これを飼いならすためには、定期的に人の血を捧げねばならなかったともされてゐる。
……引用、ここまで。
日本人にとって牛は、現在でこそ食用として認知された向きがある。
そもそも古来より牛は、農耕作業や運搬労力として重宝されてきた。性質は我慢強く、長時間の使役に耐えられたので、農民にとっては労働の友であった。
動きは遅いが、言い付けを忠実に守り、勤勉によく働く姿こそ誠実さを象徴した。
そこからしばしば築城の際の呪術的習俗として生き埋めにされたり、雨乞い神事などでも殺されたこともあったようだ。
雨乞いの場合など、それ相応の見返りを期待するわけだから、農民は身を切られるほど辛い思いをしなければならなかった。それが馬や牛だったとされているのだ。
了
※参考文献
『生贄と人柱の民俗学』礫川 全次 歴史民俗学資料叢書
『神、人を喰う―人身御供の民俗学』六車 由美 新曜社
『中国の呪法』澤田 瑞穂 平河出版社