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祖父が残してくれた

作者: 宏美

水戸歩兵ニ連隊歌


作詞:野口雨情


1,筑波の山は 雲をつき

霞ヶ浦の 浦波や

春はわかれど 咲くごとに

香りは 高し 梅の花

あ丶 我が水戸のニ連隊

茨城健児の その名こそ

名は 天地に 輝かん

2, 明治七年 春弥生

我が連隊は 生まれたる

日清 日露 シベリアに

なお 満州の建国に

(以下繰り返し)

3,雄々き我ら ますらおは

死なば 護国の神となり

生きて最後に 残るとも

身は すめらぎの 盾となる

(以下繰り返し)


祖父はペリリュー島、激戦地からの生還者の内の一人。

私は、小さい時にはその事実を知ろうとは思わなかった。

でも、今は、違う。

この戦争、戦争でどれほどの人が命を落としたか、考える様になった私がいる。

そのきっかけは、天皇皇后陛下様がペリリュー島を御訪問をされ、私は、気がついた。

祖父がどれだけの人だったかを。

生きていたら、あの永井さんともこれから先も沢山話をしただろう、でも、今は、もういない。

その思いを私は、伝えたい。


私が小学校一年生の時に、交通事故にあい、頭の骨を骨折している。ヘルメットをかぶっていたから、助かったが、そうでなければ私は命はなかった。


車の免許をとった時に友達が茨城大学に合格し、よく遊びに行って泊まったこともあったが、その時の友達の言葉が忘れられない。ここは、昔、お墓だったのよと。

だから、夜中に足音が聞こえてくるんだと。

それは、今になりわかった、茨城大学は、水戸歩兵2連隊があった場所だと。

私はいつの間にか、引き寄せられていた事に今になり、気がついた。

ある会社に就職した時の研修の先生も、研修の時には話さなかったが、ペリリユー島慰霊祭の時に何年かぶりに再開をし、お互いに何故?と話をした。

中学校の一年生の時の担任の叔父さんも、ペリリユー島で亡くなっていた。この話は永井さんから聞き、調べてみたら、母親と担任は同級生、私は教え子というから、私には、奇跡としか思えない。

何かに導かれるかのように。。。

私自身も、三回の開腹手術をしている、それが何を意味しているのか、最近になり、わかったような気がしてならない。

考え過ぎ??と思う過多もいるかもしれない。

それでも、あまりにも偶然過ぎる事が山のように次から次へと、色々な出会いをさせてくださったり。

今は、祖父に聞けなかった事が後悔だが、これも、気がつくタイミングが私がこの年になり、理解出来るようになったからなのか。

まだまだ、知らない事、山ほどある。

それを知った時の嬉しさは、失礼だが、計り知れない。

最後の最後まで、終戦になっても、信じる事が出来なかった気持ちは、当事者にしかわからない。

病気をし、手術をし、痛い思いをした時に初めて命の尊さを知った私。

永井さんと会う度に、私は涙を流す。

今がどれだけ平和なのかを、今の方々はわからないと。

そして、サクラが咲く時期は、一番胸が、痛むんだ。

玉砕の電文、それはサクラ サクラ サクラ

桜を見て私も考え方が変わった。

綺麗に咲いていてもいつかは散る。

戦地へと行く兵士の気持ちと被る思いを私は知った。


ペリリユー島の女性兵士が一人いた事も、永井さんには確認した。が、その遺骨はその名前の方とは、違う人だったという興味深い話を、ペリリユー島慰霊事務局が局長さんから、聞いた。

男性と同じように髪を切り、拾を以て戦ったと。

愛する人と一緒に。。。

私にはそこまでの勇気はきっとないかもしれない。

その中で、私は不安神経症をもつ中で、永井さんから学んだ。

私よりも、もっと辛い思いをしてきた先人がいるんだと、だから、生きなくちゃダメなんだと。


心が迷った時には必ず、護国神社へと足を運ぶ。


パラオ共和国

パラオ共和国は日本の真南北緯二度から八度、二百もの島が存在している。この島のうち、人が住んでいるのは九つの島。

パラオ諸島と呼ばれる主要部はバベルダオブ島から首都マルショク、コロール島、ロック・アイランドを経てペリリュー島、アンガウル島辺りまである。

ペリリュー島は、コロールの南方約50キロに位置している、人口約700名、南北9キロ、東西3キロの小さい島、島内の対半数は亜熱帯樹林に覆われ、白浜のビーチがある。

言語:パラオ語、英語(公用語)

但し、南西諸島(トビ洲、ソンソロル洲)は、パラオ語と異なる中央カロリン諸島言語を使用している。

国旗:海を表す空色の地の中央からやや左寄りに満月を表す黄金色の丸、平和と静寂、海と陸を表して日の丸を模してデザインされている。




祖父は大正9年生まれ。

昭和15年12月1日初任官

昭和16年3月1日入営

横須賀郵便局7746部隊へと。

昭和19年10月10日着の通信により、古宇田隊。

昭和19年2月10日第14師団編成改正

3月2日歩2連隊第7中隊編入

同5日編成完結

同11日ノンジャン出発

同14日関東州界通過

同旅順着

同27日旅順出発

同28日大連港出発

同月31日

門司寄港

4月1日門司港出発

同3日横浜公園寄港

同6日横浜港出発

同日館山寄港

同2日館山港出発

同10日小笠原父島寄港

同18日父島出発

同月24日パラオ島上陸

4月29日パラオ諸島ペリリュー島上陸

同日より島の防備


この内容は、軍歴証明書に書かれていた事実。

この軍歴証明書とは、戦死した方にしか出ない証明書。

祖父は、昭和19年12月31日にペリリュー島にて戦死扱いになっており、その為に出されていたようだ。

茨城県庁保健福祉部長寿福祉課にある事を水戸2連隊ペリリュー島慰霊祭に参加した時に、祖父と同じ部隊にいたと思われる叔父さんの事を私に聞きにきた時にこの軍歴証明書の話を教えてもらった。県庁に行き、手続きをしていると、職員さんにも声をかけられた。

かなり、貴重ですよ、これは!と。

生きているのに、軍歴証明書は発行されませんからと。

確かに戦死扱いになっているが、枠外に22,5,15生還との記載がある。

どう言う戦いだったのかを私は、追ってみたくなった。

最初にホームページにメールを送った。

すると後日、広報担当の方から連絡が入り、もう何日かしたら、事務局長が帰ってきますので、連絡を取ってみてくださいとの話を頂いた。

そこから、私は、事務局を訪ね、色々と話をさせて頂いたが、あの永井さんと一緒に映っている写真を見た時には大変驚かれていた。

満州時代の写真が何十枚もあり、大変貴重な物だから大切にしてくださいと。

部隊の名前もわかり、祖父の大好きだったコーンビーフやパン、タバコ、なぜと思っていたら、米軍から頂戴していた物だった事を教えてもらった。

あの激戦の中で洞窟に立て籠り、大変な中でのあの当時の味を忘れられないんだと思って瞬間だった。

祖父は、私には、郵便を海を泳いで届けていたんだよとしか、話をしてくれなかった。

でも、今になり私は、話をしなかった訳がわかった。

話をしてくれないんではなく、話たくなかったのでは?と。

聞かれたら話をするだろうが、私は、まだ、幼かったし、興味すらもたなかったのだから、話はしない。

それでも、祖父の大切にしていたペリリュー島での戦いが書いてある本が沢山ある事はわかっていた。

その中で、取材をされていた事もわかった。

初めて読んだ瞬間、涙が溢れ止まらない。

15連隊第3大隊、独立歩兵第346大隊、師団戦車隊などが増加。

陸軍6200名、海軍3650名、計一万名となる。

全島を洞窟要塞化して米軍の来攻に備えた。

昭和19年9月15日、米軍第1海兵師団は50%の死傷者を出し、二週間後には撤退。

10月中旬。。。


日本軍守備隊が確保しているのは大山、南征山など、ほんのわずかな地区になっていた。

昼は米軍、夜は日本軍が確保するという頂上奮戦が何日か続いた。その頂上を永久確保すべく、米軍は山頂に砲座の設置を試みた。米軍の写真説明に戦闘地点からわずか5フィート、1,5メートル以内に砲を引き上げる海兵隊工兵隊とある。

日本兵は目前のそこここに潜りこんでいた。

工兵隊はいつ、日本軍の弾丸が飛んでくるかもしれない不安と恐怖の中で75ミリ山砲の設置をした。

ペリリュー地区隊長中川州男と、第14師団派遣幕僚の村井権治郎少将の両指揮官が、砲撃と硝煙と死臭につつまれた大山山頂に近い洞窟陣地で自決したのは、24日の夜だった。

中川大佐、村井少将の自決に続いて、重傷の兵たちの自決が続いてしまった。

何人の重傷兵が自決したのかはわからないが、訣別の電文に健在者約50人重軽傷70名とある。

中川大佐、村井少将の自決後、歩兵2連隊副官の根本大尉を隊長とする遊撃隊が編成され、最後の一斉斬り込みを行うのだが、60名前後の重傷者が指揮官の後を追ったと思われる。

根本大尉を隊長とする遊撃隊は、18時より遊撃戦に移行すとの電報を集団指令部に打ち、1組3、4名ずつの17組に分かれて薄暮の洞窟陣地を出発した。

米軍側も終夜照明弾を打ち上げ、ペリリュー島を照らした。

ペリリュー攻略部隊の米陸軍第323連隊長ワトソン大佐が所属の第81師団長ミュウラー少将に『作戦終了』を報告したのは11月27日午前7時、オレンジ.ビーチに敵前上陸を敢行してから2ヶ月半、74日目の終了になった。


この時の生存していた日本兵たちは、全員が歩兵第2大隊を主力とした西地区の陸海軍兵だった。

祖父は、大隊本部グループにいた。

永井敬司軍曹、武山芳次郎上等兵、原裕上等兵、岡野茂上等兵、滝沢喜一上等兵、石橋孝夫上等兵が一緒にいた事がわかった。

5中隊グループ、6中隊グループ、工兵隊グループ、海軍グループ、海軍軍属グループにわかれていた。

大隊本部グループは、島の北部の湿地隊に密生するマングローブにやぐらを組み、生活をした。

食料は、米軍から頂いてきた物。

米軍は3日間で終了するはずが守備隊が『万歳突撃』を一切行わず、ゲリラ戦法により、徹底抗戦をしたため11月末まで続き、11月24日、中川大佐がパラオ本島の師団指令部に電報を送り、自決した、連隊は玉砕。

間の内容は、省いてしまっている。

その中でも、印象的な事が何点かある。

ペリリュー島の島民を本島へと避難させた事。

土人と一緒に戦う気はないと言いはなち、一緒には戦わせようとはしなかった事実があっあり。

血の浜になったのを見た島民は日本兵を泣きながら埋葬していたと言う。

パラオの国旗は日本に敬意を表した国旗にしたので、真ん中から少し月がずれている。

《御嘉賞...ごかしょう》

天皇陛下か褒め称える事。

昭和天皇から11回の御嘉賞のお言葉が贈られた。

玉砕と言う言葉を聞いても私達には、あまりわからない言葉だ。

毎年行われる11月23日の慰霊祭の時には、必ず出席したいと思うようになった。



生還者34人の中で生きているのは、わずかに1人となってしまった今。

そして、私は導かれたかのように、戦没者の弔慰金や軍歴証明書を発行する県庁の臨時職員として働く事ができた事に喜びを感じる思いと複雑な思いが募る事に気がついた。

戦死した方、病死した方、それぞれ、辛かったろう。

何も言いたくないと言う気持ちもわかる、でも、改めて自分の祖父のいた郷土部隊について調べてみようと思っている私がいる。


ペリリュー島島民は日本兵と共に戦う決心をしていたそうです。

しかし、

日本軍はこれを押し止め宵闇に紛れて島民んパラオ島に避難させ、戦後、ペリリューに戻った住民達はは日本兵の遺体を見て涙を流し、墓地を作り、自分達の島を守る為に戦い、果てた兵士達を弔い、その墓を守り続ける事を誓い、パラオに憲法が発布された1981年、国旗と共にペリリュー兵士の歌が作られた。


「べ島の桜を讃える歌」

「緑の島のお墓」

私の大好きな曲でもあります

2022年

今、現在、生還者は誰一人として生きてはいないのだ

最後まで永井軍曹と話をできた自分を誇らしく思い、最後の教え子として、これから色々な事を継承していかなければならない

群馬県にあった高崎第15聯隊の碑を探しに高崎へと足を向けたら、その烏川から群馬県護国神社へと向かう道路と住宅地がある場所が、練兵場だったと言う

導かれるかのように私はいつの間にかその道路を走っていたのだ

祖父と共にペリリュー島で玉砕した千明隊が群馬県の高崎第15聯隊にあった

どんなに、遠くとも私は何かを感じるかのよう

いつもどんなに、辛くても私を守ってくれるのは、この聯隊さん達なのだから




【諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦いそして玉砕したかをつたえられよ】米太平洋艦隊司令長官C.W ニミッツ


いつかこの言葉の貝でペリリュー島へと行くのが私の夢である。


このシンガーソングライターさん、深谷克人(あきと)さんの英霊の光の歌を皆さま方にも聞いて頂きたい

YouTubeで検索して頂くと出てきます


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