全4部分の1
コメディです。気楽に楽しんでもらえれば幸いです。
凍えるような冬の寒い日、その建物の重い扉を、一人の女子大生鎖帷子なぎさはゆっくりと開け、声をかけた。
「英子ちゃん。今帰りましたよ」
返事はなかった。
なぎさは別に驚く様子もなく、いつものように部屋の中に入っていった、
グオースギュオーというウシガエルの鳴き声のような鼾が聞こえて来た。
大きなテレビを置いた応接のソファーの上で、大鼾をかいているのは、この建物の主腐猫越英子24歳である。
応接のガラステーブルの上にはレンタルされたブルーレイディスクが山と積まれている。
(ふうっ)
なぎさは大きな溜息を一つ吐いた。
(今度は何に嵌ったのかな。あんまり怪しいもんでなければいいけど……)
◇◇◇
ジリリリリリーン
けたたましい音で電話のベルが鳴った。
ここの電話は未だに、いや、英子の趣味で黒電話だ。理由はその方がかっこいいからである。
なぎさは素早く受話器を取った。取らなければならないのだ。英子に取らせるとろくなことにならない。
英子に取らせると、「はいっ! こちら鼻曲署」だの「はいっ! こちら犬岸署」だの、まともな応対をしない。
そして、最後は相手方への説明責任はなぎさに回って来るのだ。
そうさせないためには、なぎさが先に受話器を取ってしまわなければならない。
「はい。こちら腐猫越探偵事務所です」
◇◇◇
「あ、なぎさちゃん? なぎさちゃんが出てくれて良かった。英子ちゃんが出ると話がややこしくなるからね」
「あ、ひょっとして? 北区不動産さんですか?」
「そうそう。また、今月の家賃未納なんだよ。なぎさちゃん、英子ちゃんに言ってよ。今時、家賃を銀行引き落としにしてないの。英子ちゃんだけなんだから」
「私も言ってるんですけど、かっこいい探偵は家賃を溜めるもんだと言って聞かないんですよ」
「勘弁してよ。本当にお金がないなら仕方ないけど、本当はあるんでしょ?」
「そうなんですよね」
実は腐猫越家は旧伯爵家である。大正ロマンの名作「はいからさんが通る」の伊集院伯爵家の隣町にあるため、ブーム時には多くのファンが間違えて訪ねてきたという名門である。
歴代の当主は堅実に財産を築き上げてきたが、どういう訳だか七代目の英子だけは見事な道楽娘に育った。
両親は早くに事故死し、英子の行く末を心配した先代当主の祖父が送り込んで来たのが、英子の従姉妹のなぎさである。
なぎさは英子の父の妹が旧士族の鎖帷子家に嫁入りしてもうけた娘であるが、こちらはしっかりと腐猫越の血を引き継ぎ、堅実な娘である。
「はい。分かりました。私の方で現金で用意してお持ちしますよ」
「いつも悪いね。なぎさちゃん」
電話が終わると英子が大あくびをして起き出して来た。
「ふあぁぁぁ。なぎさちゃん、どこから電話?」
◇◇◇
「北区不動産さんからです。今月のお家賃分渡したでしょ。何で持って行ってないんですか?」
「ええーっ、だって、あたしは探偵よぉ。かっこいい探偵は家賃溜めるもんでしょう?」
「もういいです。私が明日学校行きがてら持っていきます」
「駄目だよー。そんなー。かっこ悪い」
「かっこいい悪いの問題じゃありません。いい加減、社会性を持って、仕事して下さい」
「そんな失礼な。あたしだってちゃんと考えてますよーだ」
◇◇◇
「考えてるって、まさかその、ブルーレイディスクの山を観て?」
「ピンポーン。見て見て~。これ全部2時間ドラマのブルーレイなの」
(嫌な予感が的中した。また、怪しいことが始まるぞ。そして、また後始末は私に回って来るんだろうなあ)
なぎさは心底うんざりした。
◇◇◇
「でねぇ。なぎさちゃん。やっぱり事務所でただ事件が起こるのを待ってちゃあ、駄目なのよ。これを研究した結果、出かけると殺人事件が起こるのよね」
「まあそうでしょうねえ。そういうドラマですから……」
「でもね、より一層事件に遭遇できるアクションってあるのよ」
「はあ?」
「だからさあ、なぎさちゃん、犬一匹調達してきてっ! 明朝までに」
「はい?」
「殺人事件の死体はねぇ。早朝犬の散歩していると見つかるんだって。だから、あたしも明日の朝、犬の散歩するっ! そして、死体を発見する。事件を解決する。報酬をもらう。家賃を払える。ううっ、なぎさちゃん、苦労かけたねぇ。北区不動産の親父にいじめられて」
「いえ。北区不動産の社長さんいい人だと思いますよ。実態は何やってるか分からない怪しい探偵に住居兼事務所貸してくれるし」
「まあ、ともかくっ!」
英子は両腕を広げた。
「犬一匹連れてきて。なぎさちゃん」
「そんな犬だって立派な命ですよ。無責任に飼っちゃいけません。ACジャパンもそう言ってます」
「何も飼えって言ってるんじゃないの。その辺の家から借りてくればいいのっ!」
「……」
また、いつもの無茶振りだ。いきなり犬貸してくれと言って、貸してくれる家はそうはあるまい。
いや、もっと心配なのは英子が借りてきた犬をどう扱うかだ。黙っていると犬に自転車を引かせて「犬ぞりの旅」とかやりかねない。
(ふむ)
なぎさは思考に沈んだ。伊達に何回も英子に振り回されてはいない。可憐なピンク色の脳細胞はフル回転を始めた。