第5条「万が一少年」
新しい朝が来た。
絶望の朝だ。
天国に来てから2日目、布団で爆睡していた所を神からの熱烈なモーニングコールで叩き起された俺は、重たい足取りでヘヴンズ・カンパニーへと向かっていた。
昨日はじっくり見ている余裕が無かったが、こうして辺りを見渡してみると、天国の街並みは生前居た世界のものとそう変わらない。
もしかしたらここは日本なのではないか、と思えるほどにそっくりなのだ。
未だに天国に来たという実感の無いままノロノロと会社への道を歩いていると、不意に背中をつんつん、とつつかれた。
後ろを振り返ると、そこには、こちらを見てにかりと笑顔を浮かべる朱音の姿があった。
「へー、ちゃんと迷子にならずに来れたんだ?」
「なってねえよ。おかげさまで」
そう言って昨夜に朱音が書いて渡してくれた地図をひらひらとはためかせてみせると、うんうん、と朱音は満足げに頷いた。
「ま、あんなに分かりやすく書いてあげたんだし、分かって当然だよね!」
「お、おう……そうだな」
そう言いながら、手元の地図に視線を移す。
――彼女の書いた地図は確かに分かり易かった。
街を簡略化した図も非常にシンプルで伝わりやすい。
だがしかし、何故か地図の随所には「南 1152歩」 「東 32歩」など、方角と歩数がセットで記されていた為、今朝家を出て地図を開いた時にはかなり困惑したのだ。
好奇心でその指示通りに歩いてみようかとも思ったが、何故か二度と何処にも帰ってこられないような気がしたので、こうして素直に地図の通りに歩いてきた、というわけである。
そんな内心を見透かしての事なのだろうか、朱音は半眼になりながら俺に問い質してきた。
「む、納得いってなさそうだね」
「いや、分かりやすいんだけどさ……この、南に何歩〜とかって何?」
「ポ〇モンのメモ」
「他のに書けよ……」
どうやらゲームのメモだったらしいが、ややこしい事この上ない。
まあ、こうして無事に会社への道を正しく進んでいられているのだから、これと言って問題も無いのだが。
俺は依然としてのろのろとしたペースで歩きながら、ふと頭に浮かんできた疑問を口にした。
「ああ、そういや俺はどんな仕事に宛てられるんだ?」
「ん?昨日晩ごはんのときに話さなかったっけ」
「いや、その時には『なんか色々普通の会社とは違うこと』としか聞いてなかったからさ」
「あー、そう言ったかも。うーん……ほんとに色々とこう、トリッキーな仕事というか、なんというか」
「仕事に関する話題でトリッキーって単語出てきたの生まれて初めてだよ……」
「まあ後で分かるって。さ、急ご?」
「行きたくねえなあ……」
そうぼやきながら歩を進める。
ふと見上げた空は何処までも澄み渡っていたが、それとは対照的に俺の心の内には大きな不安が影を落としていた。
「なァ……この落とし前どうつけてくれるんや、あんちゃん?」
場所は変わってヘヴンズ・カンパニーの応接室。
俺はガタイの良い黒服の男達に囲まれて座っていた。
目の前で煙草を吹かしてこちらを睨みつけてくる客人の風貌は、どう考えてもこちら側の人間のものではない。
その客人の表情には激しい怒りが滲み出ている。
俺は逃げ出したくなる気持ちに駆られたが、逃げれば死ぬ、と本能が告げていた。
勿論既に俺は死んでしまっているため、そんな事は有り得ない筈なのだが、そんな事に気付けるほどの余裕すらも、その時の俺は持ち合わせていなかった。
どうしてこんな事になってしまったのか。
話は今日の……結構前に遡る。
多分。
「接待ぃ?」
「そう。接待だとも」
場所はヘヴンズ・カンパニー第1オフィス。
俺は神の口から、今日の業務内容を説明されていた。
「いや、いきなり接待しろとか言われても……相手は?契約の話とかされても何も分かんねえぞ?」
「そーんなカタく考えないでいいとも。ただのお客さんみたいなもんだから、お茶とか出してちょ〜っと話聞いてあげたらいいからさ」
「なんだそりゃ……?」
「いいから。ほら、お客さん待たせちゃ悪いからお出迎えに行こうじゃあないか」
「いいからって……はぁ」
神に連れられてエントランスへ向かうと、そこには黒塗りの高級車が何台も停められていた。
おそらく神の言っていた客の車なのだろうが、果たしてこの車の持ち主はどれだけ高い地位にあるのだろうか。
何故俺がそんな人物の接待を――?
考えている内に車のドアが黒服の男によって開かれ、中からスーツにフェイク・ファーを羽織った大柄な男が現れた。
少しして、その車の奥から幼い少女が姿を現した。
男が神に向かって軽く会釈をすると、神はぺこぺこと頭を下げ始めた。
その様子からは神の威厳など微塵も感じられない。
「いやー!どうも柴崎さん!いつもお世話になっております!」
「あァ、どーも。……今日はウチのが世話んなりますわ」
そう言って、柴崎と呼ばれた男性は、隣の少女の方へクイと顎をしゃくった。
少女はクマのぬいぐるみを抱き抱えて黙り込んでいる。
ウチのが世話になります、ということは――。
「なあ、じいさん」
「うん?」
「もしかして接待って……」
「そう、柴崎さんのお子さんの面倒をみるのさ」
「マジか……」
最初に聞いた時は、なんだかおかしな話だとは思っていたが、どうやら、俺のここでの初仕事は何故かガキんちょのお守りらしい。
「あァ、あんちゃんが今日ウチの娘っ子の面倒見てくれるんやな」
「えっ?は、はあ……そういうことみたいっすね」
「ほんなら、今日一日ウチのを頼んますわ」
柴崎はそう言って軽くこちらに礼をすると、踵を返し、車の方へと向かった。
その途中で柴崎が不意にこちらを振り返り、俺に呼びかける。
「あァ、せや――おい、あんちゃん」
「はい?」
「もし、万が一や。一度でもウチのを泣かす様な真似してみぃ……分かるよなァ?」
そう言い放って、柴崎は車に乗り込んだ。
彼を乗せた車は瞬く間に視界から消え去ったが、その時の柴崎の鋭い眼差しは、いつまでも脳裏に焼き付いていた。