第1条「悪いニュース」
事の始まりは2時間ほど前に遡る。
いつの間にか、見知らぬ部屋でパイプ椅子に腰掛けながら意識を失っていた俺は、ふと前方から聴こえてきた、やたらとダンディな声で目を覚ました。
「やあ、お目覚めかい?竹人くん」
すると、そこにはデスク上で腕を組み、にこやかにこちらに微笑む白髪の老紳士の姿があった。
……このじいさん、なんで俺の名前を……?
記憶をどれだけ辿っても、その老人の顔に見覚えが無かったため、浮かんだ疑問を躊躇わず口にした。
「あの……じいさん、誰?それに…ここは……?」
その問いに、老紳士は少し考えてから口を開いた。
「ふむ……」
が、そう唸るだけで、老紳士は黙って顎鬚を撫で始めた。
場に沈黙が流れる。
「うーん……」
じょりじょり。
……沈黙が流れる。
じょりじょり。
……沈黙が、流れる。
じょりじょり。
……沈黙が。
じょりじょりじょりじょりじょり!
「いやなんか言えよ!!!!」
堪らなくなって老人に詰め寄り、胸ぐらを思い切り掴んだ。
何故こいつが髭をジョリジョリしている時間に付き合わされなければならないのだ。
考えるほど苛立ちが増してきて、掴む力がさらに強くなった。
「ちょっ……ストーップ!竹人くん!!ストップ!!」
「大事か!?ヒゲのコンディションがそんなに大事か!!?」
「え、枝毛が……」
「知らねえよ!!てめえの枝毛よりよっぽど深刻な事情抱えてんだぞこっちは!!」
どうやら、この老人の中での俺の優先順位は枝毛以下らしい。
腹立たしいのと同時に泣きたくなってきた。
「分かった!話す!話すから離して!!」
と、老人が必死に訴えてきたので、しぶしぶ老人を解放する。
解放されると同時に「クソが」と小声で悪態をついたので殴ってやろうかと思ったが、既の所で自制した。
「さて……それじゃあ竹人くん。良いニュースと悪いニュース、どっちから聴きたい?」
少し落ち着いてきた所で、老人がアメリカンなノリでそう質問してきた。
いちいち腹が立つが今はじっと我慢である。
そう、昔の人が言っていた。
雨にも負けず、風にも負けず。
……その続きは覚えていない。
話が進まないと意味が無いので、その質問に真面目に答えてやる事にした。
「じゃあ、悪いニュースからで」
「ほんと?そっち派かあ……へえ……」
……
……
……
「もう飽きたんだよこの流れ!!!!」
あまりのやり切れなさに、俺は思わず頭を抱えた。
もはや質問ですらない。ただのアンケートである。
この老人とは一度、拳でコミュニケーションを取る必要があるのかもしれない。
そう思い至って老人に詰め寄ると、
「こここ、今度こそ言う!言うから!」
と、老人は必死に腕でガードを構えながら言った。
「じゃあさっさと言ってくれ……」
と、苛立ち半分呆れ半分の気持ちで答えて、俺は椅子にどさっと腰を下ろした。
オホン、とわざとらしくひとつ咳をして、老人はようやく重い口を開く。
「えー、じゃあ竹人くん。辺りを見回して何か思うことはないかい?」
そう言われて、目が覚めてから初めて辺りをしっかりと見回した。
自分が腰掛けているパイプ椅子と、老人のデスク以外には特に何も無いが――。
いや、あった。
壁をよく見ると、何やらA2サイズほどのポスターが貼りつけてある。
……これのことか?
遠くからではよく分からないので、立ち上がってそれ
に近付くと、そのポスターにはドヤ顔で佇むあの老人の姿があり、その横には、ポップな字体で「毎日がエブリデイ」と記されていた。
そんなことは言われなくても分かっている。
「で、この当たり前のポエムが一体なんだって言うんだよ?」
いつの間にか俺の隣まで来ていた老人にそう問いかけた。
すると、老人は俺の問いかけに肩を竦めて、
「いや、それの右下を見てごらんよ」
と言ってポスターを指さした。
「右下ぁ?」
言われて、ポスターの右下をよく見てみると、小さな文字で「ヘヴンズ・カンパニー」と記されていた。
恐らく社名なのだろう。天国のような会社、とかそういった意味で付けたのだろうか。
変わった名前だ。
もしかすると老人は、この「ヘヴンズ・カンパニー」の社長だったりするのだろうか。
とても社長という立場の務まるような人間には見えないが。
「……これがなんだって言うんだよ」
先程から言っている悪いニュース、というのもいまいちピンと来ていない。
俺にとってはこの老人にまだ振り回されなければならないことが一番の「悪いニュース」であるのだが、これ以上に悪いニュースなどあるのだろうか。
そう訝しむ俺の隣では、老人が意味深な笑みを浮かべて佇んでいた。