彼女の夏前ごと
ああ、蝉の声がうるさい。
そんなことを考えながら額の汗をぬぐった。地肌に突き刺す日差しは相変わらず鋭いし、全身を包み込むムワっとした空気も鬱陶しい。
今は八月の上旬。俺がいるのは地元の公園だ。夏休みと言うこともあって平日の昼間だというのに子供が多い。俺はその公園の隅っこにあるベンチに腰掛けていた。
くそ、どうせならこのベンチも日陰になりそうなところに設置してくれればいいのに。
そう思いながらにらめつける目の前では、相変わらず小学生くらいの男の子が元気に走り回っている。子供の楽しそうな声は嫌いじゃない。しかし絶え間ない蝉の声と相まってなかなかに煩わしく感じてしまうのも事実だった。
何で俺はこんなところにいるんだ。いつもなら冷房の効いた部屋でのんびりしているはずなのに。
吐き出したため息でさえ熱く感じるのは錯覚だろうか。こうも熱いと思考までおかしくなる。
また少し憂鬱になりながら額の汗をぬぐったときだった。
「ふむ、なかなかに暑いですね」
隣から鼓膜を揺らしたのは、風鈴にも似たきれいな声だった。
「もう少し場所を考えればよかったですね。ねえ、先輩?」
そこにいたのは白いワンピースに身を包んだ一人の少女だった。
清純なイメージのそれは人をからかうのが好きな彼女のイメージではなかったが、思いの外に合っている。ショートカットの髪や吸い込まれそうな瞳の黒は映えているし、真珠のような肌も強調されている気がする。
紛れもない、俺の恋人であり後輩でもある彼女だった。
バニラのアイスバー片手に、彼女は俺の隣に座ったまま、なにがおもしろいのか俺に笑いかける。
普段制服の彼女しか見る機会がほとんどないからか、珍しい私服は新鮮だった。しかしほとんど汗をかいていない。こいつはどういう体のつくりをしてるんだ。そう考えながら彼女を見つめ、一言こぼす。
「ああ、そうだ。おまえから呼び出されたんだったな」
「ん? なにをいってるんです? この暑さで頭もやられてしまったようですね」
「あながち間違ってもいなさそうだから怖いな。だけど知らせもなく俺の家まで来たお前の頭も大概だぞ」
「まったく先輩は馬鹿野郎ですね。彼氏である先輩に会いたくなったという、なんともかわいらしい後輩にそんなこというんですか」
「自分で言うなよ……。ほら、アイス垂れそうだぞ」
「ん? ――おっと」
チラリと覗く、桃色の舌。慌てたように彼女は溶け出したアイスを下からなめあげる。その仕草が何というか、視線に困るというか。気まずくて目をそらすと、視界の外からクスクスとかみ殺したような声が鼓膜を揺らしてくる。
くそ、わざとか。こんな暑さでも俺をからかうことに余念がない彼女に尊敬すら覚えそうになりそうだ。
「……俺の分もアイス買ってきてくれればよかったのに」
「何言ってるんですか。これはわざわざこの暑い中、ここまで来たわたしに対するご褒美ですよ」
そう言って残り少なくなったアイスを咥えると、おいしそうに笑みを浮かべ。背もたれにもたれかかったかと思うと、足を組む。スカートからスラリ伸びる白い足はなんとも艶めかしい。
こいつ意外とレベル高いよな……。
そんなことを考えながら彼女を見つめ直すが、胸元に視線がいったところで思い直す。こいつ、顔もいいし、レベルが高いところはたくさんあるが、胸は正直……なんというか、乏しいのだ。だからといってどうというわけでもないけど。
ふと視線を感じた。すこし目線を上へ。視線の主の彼女は、ジト目で俺をにらみつけていた。
「……なにか?」
「い、いや、なんでもない」
「……まったく、先輩は相変わらず馬鹿野郎ですね」
それに伴って小さなため息。
これは俺が全面的に悪いからなんともいえなかった。
相変わらず途切れることのない、子供の声と蝉の合唱。会話がなくなり、さてどうしたものかと。
そもそもこいつがなぜここまできたのかもよくわかっていない。俺に会いに来ただけ。彼女はそう言っているが、それもどうだか。嘘というわけでもないだろうが、それだけとは思えなかった。
それから少し。俺が口にしようとしたとき、先手をとったのは彼女だった。
「さて、ところでですよ先輩」
彼女は食べ終わったアイスの棒を俺に向けた。
「今って夏休みじゃないですか。つまり季節は夏なわけです」
「まあ、そうだな」
「では思い返してみてください。私たち、夏っぽいこと、なにかしましたか?」
言われて今年の夏を思い返す。
彼女とは夏休み中も何度か会った。しかし夏らしい何かしたかと言えば……たしかに、なにもしていない。会ったとしても今みたいに適当にだらだら話して。お互いに気が済んだらそこで別れる。その繰り返しだった。
もともと俺もこいつも、あまり出かけないタイプなのだ。彼女もそのことに関して何も思ってないと思ってたし、だからこそ、この話題を口にしたのが意外だった。
「そうです、何もしてないわけです。それでいいと思っているんですか?いいえ、いいわけがありません」
「なんでまた急に」
「なぜなんてどうでもいいではありませんか。強いて言うなら、気まぐれですよ」
そう笑ったかと思うえば、グイと距離を詰めてくる。視界いっぱいに広がる彼女の顔。しかし汗臭いわけでもなく、それどころか柑橘系の香りが鼻孔をくすぐる。
「先輩は、したくありませんか……? ーーわたしと、夏っぽいこと」
彼女は熱っぽく頬を染めながら、そう言った。かすかに潤んだ瞳は上目遣い。雪のような肌を朱に染めながら俺を見つめ。
「ねえ、せんぱ――うあっ」
「あからさますぎだ」
彼女の頭をつかんで、無理矢理引き離す。しかし彼女は気にした様子はない。それどころかニヤニヤ満足そうに笑っていた。
さらりとした、気持ちのいい髪の感触。それを感じつつ、彼女の視線から逃げるように、顔の汗を袖で拭った。
「ん、さすがに無理矢理過ぎましたか」
「さすがにな。夏っぽいことを誘うのにあの雰囲気は不自然だろ。ていうかなんでそんな笑ってるんだ」
「いえ、なんでもないですよ?ところで先輩。そんなに顔赤くして、熱中症ですかね?」
「……うるさいな。ああもう、話が進まない。それで結局、お前は何を言いたいんだよ」
「夏っぽいことがしたいです」
急に真顔になって、あっけからんと彼女はそう言った。これだけ無駄に前置きがあったからか、少しあっけにとられる。
いやしかし、彼女が言いたいこともわかる。せっかく今は夏休み。しかも今俺たちはそれぞれ高二と高一だ。来年になれば俺が、その次の年には彼女が受験生だ。気ままに遊べるのも今だけかもしれない。
ちらと彼女に視線を向けた。相変わらずまっすぐな視線。しかしどこか不安げに、そして必死に見えるのは気のせいだろうか。
「夏っぽいこと、ねえ……」
目を閉じて、一度考えてみる。
彼女であるこの可愛い後輩がしたいと言っているなら、それを叶えるのも嫌なわけじゃない。なにより、俺だって何かしたいと思っている。
しかし、夏っぽいことか。改めて考えてみるといろいろ頭に浮かぶ。
「海……とかか?」
とりあえず一番最初に浮かんだことを、そのまま口から漏らした。
海。うん、実に夏っぽい。いつも彼女と会うときも近場だったし、たまには一緒に遠出もしてみたい。
そんなことを考えての采配だったが、彼女の評価はどうだろうか。伺うように彼女に視線を向ける。彼女は顎に手を当て、少し考えたあと。
「……いいですね。合格です」
ずいぶんと偉そうにそう言った。
「いやそれはずいぶんと光栄だけど。合格ってお前何様だよ」
「んーでも、海なんて何年振りでしょうか。プールすら近頃行ってませんでしたし」
「無視か。……まあ、それは俺もだな。水着買ってこないと」
それは少なくとも俺にとって、ごくごく普通な会話だ。しかしおかしいのは彼女だった。
「水着……水着……」
急にずいぶんと難しそうな顔をして、小さく繰り返す。眉間に小さなシワが浮かんでいた。今の会話に何か考えるようなこと、あっただろうか。
「おい、どうしたんだ?」
「……いえ、なんでもないです。わたしも水着買わないとですし、少し後になりそうですね」
「あ、ああ、そうだな」
さっきまでの顔色を感じさせないような、ケロリとした笑顔。あまりの落差に、つい追求するタイミングを逃してしまった。
「楽しみですね、先輩」
いつもの背筋を撫でるようなものじゃない、ふわりとした笑顔。
その顔が繕っているようにも見えず、さっきの彼女は俺が見間違えただけじゃないかなんて思えてしまって。
「ああ、そうだな」
相変わらずな蝉の鳴き声の中、俺は彼女にそう笑いかけた。
◆
「やっぱ冷房は最高だな」
全身を包み込む冷たい空気。まだ熱気を孕んだような吐息を漏らしながら、思わずそう呟いた。
外出していることは先日と同じ。しかし場所が違うだけでこうも変わってくるものか。
俺は地元の大きなショッピングモールに来ていた。目的はもちろん水着だ。いろんな店が集うこの場所には、もちろんスポーツ用品も売っている。特にそれだけというわけじゃないが、水着を買いつつ他もブラブラしてみるか、なんて考えながら俺はここにきた。
夏休み、さらに休日ということもあるせいか、普段よりも人が多い。学生っぽい男女、子連れの親子、お年寄り。老若男女さまざまな人がひしめいていた。
その中にはもちろんカップルだっているわけで。
「やっぱもう一度誘ってみればよかったな……」
この前誘ってはみたのだ。夏に海にいくのがカップルというなら、一緒に準備するのもまたそうなんじゃないか、なんて。しかし彼女は俺に背を向けていったのだ。
『ん、いえ、私は私で買いに行きますよ』
『なんでだよ。一緒に行ってもいいだろ?』
『だめです。それに――当日のお楽しみというのも、また面白いではないですか』
俺と出かけたい、何かをしたいというなら、それを断るというのもおかしな話。しかし本人にダメと言われれば強く出ることもできない。それに、彼女が言っていたことも一理ある。実際、楽しみに思ってしまっているのだ。
彼女はどんな水着で来るのだろうか。ビキニだろうか。ならどんな? 彼女なら黒が似合うかもしれない。そんなことばかり考えて。
ようするにはしゃいでいるのだ。子供のように俺は、あいつと海に行くのが楽しみで。
そう自覚するとなんだか恥ずかしくなってくる。でもそんな感情もいやではなかった。この暑い中、自分の水着を買いに外出するくらいには。
しばらく歩いた頃だった。もうすぐ目的の場所といったところで、ふと。
「――ん?」
前方に見慣れた人影が目に入った。見覚えのある黒髪に、整った顔立ち。間違いない。俺の彼女であり後輩のあいつだった。
一緒には行かないと言っていたが、たまたまあったのだから無視する必要もないだろう。そう思って手を振り呼びかけようとしたところで、ふと俺は動きを止めた。
隣にもう一人誰かがいる。楽しそうに笑う女の子だった。歩くたびにセミロングの髪がユラユラ揺れる。そいつにも見覚えがあった。どこで見たんだったかな、なんて頭を巡らせ。
「――ああ」
思い出した。学校で彼女を目にするときよく隣にいる子だ。
髪を茶髪にして、メガネをかけて。どちらかといえば、落ち着いた雰囲気。今時の女子高生っぽいが、どこか真面目そうでもある。どこかチグハグな感覚が気になって、記憶に残っていた。
「友達と一緒に来ているのか」
彼女は人をからかうのが好きな性格だったり少し悪口が多かったりするが、意外なことに友人が多い。いや、彼女だからこそうまく立ち回っていると言うことだろうか。そう考えると友人と言うより人脈といった方がいい気がする。
とまあそんな話は置いておいて。
なんにせよ、せっかく友人と遊びに来ているんだ。邪魔をするのも忍びない。
俺の彼女はきっと、友人と買いにきたかったんだろう。
きびすを返そうとしたそのとき、彼女の二つの大きな瞳が俺をとらえた。きょとんとした、彼女にしては少し間抜けな表情。ああ、あれは完全に向こうも俺に気がついている。
お互い気づいているのになにもしないわけにもいかない。とりあえず片手をあげたが、意外なことに彼女は逃げるように顔を背けた。
「あいつが? 逃げるように?」
バカバカしいと笑いそうになる。あいつならニヤニヤ笑いながら駆け寄ってきてもおかしくないのに。しかし彼女は視線を俺に向けることなく、いまだあさっての方向に向いている。
「どうしたの?」
そう声をかけたのは彼女の隣にいた友人だった。いまだそっぽを向いた彼女の顔をのぞき込み、首をかしげ。そのまま辺りを見回して、こちらを向いて、「ああ」と楽しそうに笑って見せた。
「なーるほど、そういうこと! ほら、いくよ!」
「――え、ちょっ」
その友人は彼女の手を引いて、こちらに向かってくる。気まずそうな彼女の表情とは反対に、友人当人は俺の下まで来ると、さも楽しそうに笑ってみせる。
「えーっと、この子の彼氏さんですよね?」
「あ、ああ、まあそうだな」
「ですよね! 話はこの子のからよく聞いてますよー」
大人しそうな雰囲気とは裏腹に、やけに元気な子だった。
人当たりのいい笑み。すこしうるさいくらいに元気なこの感じは、いまだ目を合わせようとしない俺の彼女にはすこし合わない気がしたが。
「こいつと買い物か?」
「はいそうです! 昨日電話があったんですよー、水着買いたいから付き合ってくれーって」
やっぱりかと、すんなり納得できた。彼女が俺の誘いを断ったのは、自分の友達と行きたかったから。特にそれ自体はおかしな話じゃない。
しかしふと。
彼女たちを見ていると、おかしなことに気がついた。
「にしてはおかしくないか? こいつも君も、手ぶらじゃないか」
「――ッ」
その時初めてずっと顔を背けていた彼女の体がピクリと跳ねた。
そう、彼女達は何も持っていないのだ。俺は水着を売っている場所に向かっていて、彼女達は俺の正面から歩いてきた。ということは、水着がある場所にいたということ。なのに何も持っていない。
買えなかったのだろうか。そう考えて、何も考えずに口にした。
「買わなかったか?」
「それがですね……うへへへへへ」
おかしな笑い声を漏らす彼女のメガネが怪しく光った気がした。ニヤニヤとした笑みは俺の彼女のよく浮かべるものとはまた違って、不気味さしか感じない。よだれ垂らしてるように見えたのは気のせいだろうか。いや、気のせいじゃないな。今「じゅるっ」って言ったし。なんだこいつ、もしかして変なやつか。
「それがですねー、この子、すっごいかわいいんですよー!」
「かわいい?」
「ええそれはもう! わたしたち水着を買いに行ったんですけどね、この子ったらスタイルが悪いっていじけちゃって買えなかったんですよ!」
「へえ……――は?」
メガネを光らせたまま熱弁するその勢いに一瞬納得しかけ、しかし思い直す。
まあ、確かに俺の彼女はスタイルがいいとは言えないが。俺はハッと吐き出すように笑った。
「それはないだろ。こいつだぞ? そんなことでいじけるわけがない」
「おやおやおやおや? ダメですよー? 彼氏さんなのに、この子のこと全然わかってません! ほら、見てください!」
「ちょっ――ッ!」
突然その友人は、相変わらず俺に背を向けた彼女の肩を掴んだ。そして無理やり回転させ、俺と向き合わせる。彼女の大きく見開かれた瞳と俺の目が交差して、つい俺は間抜けな声を漏らす。
「……は?」
「ね?」
ようやく顔を見せた彼女は、その端正な顔を真っ赤に染めていた。今まで見たこともないくらいに、それこそ湯気でも上がるんじゃないかと思うくらいに。いつもの余裕そうな表情なんてかけらも見えない。
あまりにも現実味がなさすぎて、彼女らしくなさすぎて、俺はついじっと見つめてしまった。
俺と目があったまま数秒。ようやく我に帰ったのか、彼女は顔を赤くしたまま俺から逃げるように視線をそらす。
「あ……えーと……いや、意外、だった」
ようやく我に帰った俺が口にしたのは、そんなフォローにもなっていない言葉だった。
「……ッ!」
相変わらず顔を赤くしたまま、いつも以上に鋭い視線を俺に向けてくる。いつもの癖というか。それから逃げるように、今度は俺が視線をそらす番だった。
顔を赤くしたまま睨みつける彼女。そしてそれから目を背ける俺。
そんな俺たちを見て、彼女の友人はまた楽しそうに笑っていた。
「いいですねーいいですねー。たまりませんなあ!」
「お前のせいだろうが……」
その友人を俺は睨みつける。
そもそもこいつが彼女の友人なら、彼女がどんな感情でいるのかわかっていただろうに。わかっていながら俺に教えたんだから、こいつはきっと確信犯だ。
その友人は俺の視線にすこしも引くことなく、それどころか笑いながら距離を詰めてくる。
「この後、時間あります?」
「……俺も買い物に来ただけだから、まああるけど」
「それは良かった! ちょっとお話ししませんか!?」
「――ッ!」
ずっと俺を睨みつけていた彼女の肩が、小さく跳ねた。
「一応聞くけど、なんでだ?あと何話すつもりだよ」
「もー、みずくさいですねー。わたしたち、同士じゃないですか!」
「は?」
「この子のかわいさについて、存分に語り合いましょう! ほらほら!」
そう言いながらさらに距離を詰めてくる。かなり近いのに、すこしもドキドキしないのはなぜだろうか。いや、きっとニヤニヤ気味の悪い笑みを浮かべてるからだな。確実によだれ垂らしてるし。
「さあ! さあ!」
「――ッ!」
友人の手が、俺の手に伸びる。そのまま掴まれるのも彼女の手前、いけない気がして。俺が手を引こうとした、その時。
それより前に、誰かが俺の手を掴んだ。
「ん?」
「…………先輩」
手の甲に感じる、冷たい感触。俺の手を掴んだのは、ついさっきまで俺を睨みつけていた彼女だった。
こいつは意外にも身体的な接触をあまりしようとしない。だからこそ、その行動に少し呆気にとられているその隙に、彼女は俺の手を掴んだまま歩き出した。
「ちょっ……おい!」
「いいから、行きますよ」
制止する声を無視したまま、無理やり歩く。俺もそれに引かれたまま、歩き出した。
友達はいいのかと目を向けると、その友人当人は意外にも、微笑ましそうに笑っていた。
「たっしゃでなー!」
そう叫びながら手を大きく振る彼女は、我が後輩の友達だけあってわけがわからない。どう返したものかわからず、俺は手を強く引かれたまま、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
◆
彼女は何か話すわけでもなく、俺の手を握りながらただただまっすぐ歩いて行く。その黒髪がやけに跳ねるのは、それほど彼女があらぶっているからだろうか。まだショッピングモールの中だ。
体温が低くて冷たいその手のひらも。少なくない人混みを、少しも足を止めることなく進んでいくのも。すべてがなんとも彼女らしかった。
しばらくはまっすぐ歩く彼女の後ろ姿を眺めていた。しかしいい加減気まずいというか、何か言った方がいいんじゃないか、なんて思えてくる。でも彼女がここまで取り乱すなんて相当なこと。下手なことはいえない。でもやっぱり声をかけた方がいいんじゃ。
思考が頭の中で堂々巡り。その結果、俺は「あー……えー……」なんて情けない声を垂れ流していた。
我ながら情けない。彼女が口を開いたのは、俺が変な声を出し始めてそこまで時間がたっていない頃だった。
「……なにか?」
相変わらず俺の手を引いて前を歩き続けているから顔は見えない。しかしいつもより冷たいその声に、背中に冷たいものが走った。
「いや、その、大丈夫か?」
「まさか言うに事欠いて『大丈夫か』ですか? 全く先輩は馬鹿野郎ですね。もっとほかにあったでしょうに」
「……すまん」
「いえ、いいんですよ。先輩なんですから。それとその問いに答えるならもちろん、『大丈夫じゃない』です」
だよなと言いそうになり、口を開けたまま慌てて言葉を飲み込んだ。そんなことを口にしようものなら、たちまち言葉の針で串刺しにされかねない。
結果口を開けたまま行き場をなくした俺は、「あー……」と、共感にすらならない声を漏らす。
「大丈夫なわけないじゃないですか。休日に想定もしなかった先輩に出会って、一緒に来ていた友人にバラされて」
「あー……ほんとなのか? その、スタイルがうんぬん悩んでたってのは」
「ええ事実ですよ悪いですか。こんなことなら一人で来ればよかったですよ……」
彼女は早口でまくし立てた。
いや、正直意外だった。普段自信にあふれ、俺をからかってくる彼女だ。勉強ができなかったり弱点はある。それがばれたからって取り乱したりはしないし、なんなら「それがなにか?」くらい言いそうなものなのに。
だからなんとなく現実味がないし、さっきの顔を真っ赤にした彼女もいまだ幻覚だったんじゃないかなんて思いそうになる。
でも今彼女からそれが事実だと、ほかでもない彼女自身から聞いて。
「そうか」
なんとなく、ほほえましくなった。
いつも以上に早口で取り乱した彼女も。逃げるように、そのくせ俺の手は握ったままの彼女も。
なんだ、かわいいところもあるじゃないか。
「……なんですか、その顔」
そのとき歩き出してから初めて、彼女はこちらを向いた。鋭いが、どこか覇気のない視線。足を止め、俺もつられて歩くのをやめる。
さっきトマトかというくらいに赤く染まっていた顔は、もう平生通りに戻っていた。もったいないななんて、どこか寂しさを感じながら俺も彼女を見つめ返す。
「別にそんな気にしないぞ? その……胸が大きいとか小さいとか」
「よく言いますよ。私気づいていますからね? 先輩がすれ違う胸の大きい女性を目で追ってるの」
「うぐっ。いや、それはなんというか、しょうがないだろ」
「……変態」
俺の少し前を歩く彼女は、俺をジト目でにらみつけた。
いやいや、しょうがないじゃないか。自分で言うのも何だけど、こちとら性欲をもてあますような男子高校生なんだ。
特に反論もできずに言いよどむ。彼女はそんな俺を見ると、「先輩は相変わらず馬鹿野郎ですね」と。そういつものように吐き捨て、呆れたため息とともに再び歩きだした。
「だいたいなんですか。胸なんて脂肪の塊ですよ。胸に興奮するなら、メタボな人のおなかに興奮しないとおかしいじゃないですか。いえ、するべきなんです」
「いや、それは極論がすぎるだろ……」
「極論なものですか。それに男の人なんてみんな巨乳好きなんです。『貧乳はステータスだ』なんて言葉、嘘っぱちです」
いっちゃうんだな、貧乳って。俺も彼女の友人も、一度もそう言わなかったのに。
だがそれだけ彼女にとって恥ずかしいことだったのか。そう思うとそう追求する気にもなれず、前を歩く小さな背中を見つめる。
ショッピングモールを出て少し歩く。彼女の背中を追うにつれ、見慣れた景色が流れ始めた。
次第に世界が朱色に染まりだし、道に沿って並ぶ街頭がぽつりぽつりと灯り始める。ほほをなで後ろへと通り過ぎていく風が、夏だというのに少し冷たく感じた。
彼女が足を止めたのは、さらに空の向こう側が青くなり始めた頃だった。
「……すみません、取り乱しすぎましたね」
そう零された声はやけに弱々しい。
「ん、お前もそういうときだってあるだろ」
「フフ、なんですか? やけにやさしいんですね。先輩らしくもない」
「何を言うんだか。俺はやさしいほうだって自分でも思ってるけどな」
「おや、自分で言うなんて相当優しいんでしょうね。その優しさとやらを是非とも見せてもらいたいものです」
彼女は少しだけ振り返って、小さく笑った。すこし力はないが、どこか彼女らしい笑み。夕日に移された彼女の横顔はやはりきれいで、思わず見とれてしまいそうになる。
「私は、かわいくないでしょう」
その笑みが変化したのは一瞬のことだった。寂しげに彼女の黒髪が揺れる。その夕日の光が弱くなった気がした。
「世間一般に言うかわいらしさのようなものもないですし、かといってスタイルがいいわけでもない。口を開けば屁理屈ばかりが飛び出して、素直じゃない」
『素直じゃない』。彼女のその一言に、思わず笑みがこぼれそうになる。
そう口にできる時点でかなり素直だと俺は思う。『世間一般に言う』なんてつけている時点で負けず嫌いな彼女らしく、その愚痴すら愛おしくなってくる。
だからだろうか。気がつけば彼女の隣に並んで、その頭に手を乗せていた。
「ん……」
彼女は小さくうめき声を漏らす。
思ったよりも小さいんだなとか、絹みたいな手触りが気持ちいいなとか。自分でも笑いそうになるようなことを考えながら、ぽんぽんと頭をたたいてやった。
「なんだなんだ。そんな弱音なんて吐いて、おまえらしくもないな」
「……先輩程度が私を語りますか。いい度胸ですね」
「俺だから語れるんだよ。お前の彼氏の俺だからな」
「…………」
彼女は特に抵抗もしない。
正直意外だった。捉え方によれば馬鹿にされているとか子供扱いされているとも受け取れる行動なのに。
ただただなすがままに。一言も口にせず、少し俯き気味のせいでその表情はうかがい知れない。
「お前に世間一般を求めること自体おかしいんだ。お前はお前なんだからさ。そういうお前らしさが好きなんだよ、俺は」
その瞬間、小さく彼女が震えた。かと思えば、プルプル震え出し、姿勢もどんどん前のめりになっていく。注意して聞いてみれば、呼吸もどこか荒いように感じる。
「――くっ、くくっ……」
「ん? おい、どうした?」
どこか体調でも悪いのか。彼女の顔を下から覗き込もうとしたそのときだった。
「――アハハハハハ!!!」
彼女は、腹を抱えて笑い出した。
「は――は!?」
「アハハハハ!! アハハ、アハハハ!!」
再び目に入った彼女の表情は、先ほどまでの憂い顔はどこへいったのか、今までに見たことがないくらいに明るいものだった。いや、そもそも彼女が腹を抱えて笑う姿すら俺は見たことがないのだ。外聞もはばからず大声を出して、その瞳にはかすかに涙すら浮かべて。そんな彼女見たことがない。
だからあらゆる感情よりも戸惑いが強くなってしまう。ただ呆然と楽しそうな彼女を眺めることしかできなかった。
「はーっ……くくっ、はーっ……」
「……収まったか?」
「ええ、おかげさまで。あーもうおなか痛いです」
いまだ腹を押さえながら、彼女は息も絶え絶えでそう返した。恨めしく見つめる俺を気にすることなく、涙をぬぐってはまた小さく笑みを零す。
「できることなら何がそんなに面白いか教えてほしいんだが?」
少し強めにそう口にした。こちとら落ち込む彼女を励まそうとしたら大爆笑された身だ。なんだ、さっきの俺の気遣いは無駄だったのか。
さすがの俺でもいらだつ気持ちはわいてくる。
しかし彼女はにらみつける俺の視線にかまうことなく、いつもの笑みを浮かべて俺を見つめ返した。
「いや、たいしたことではないんです。ただ……」
「ただ……?」
「あまりにもらしくないこという先輩が面白くて――フフッ」
「――ッ!」
瞬間、一気に顔が燃えるように熱くなる。そして一気に脳内で再生される、俺の先ほどの言葉。
――俺はこいつになんと言った?
俺は彼氏だからお前のことを語れる? お前らしさが俺は好き?
数分前の俺を殴ってやりたい気分だった。
なんだその少女漫画のイケメンですら言わないようなクサい台詞は。なんだその言ってる本人どころか、言われた側ですら恥ずかしくなる、歯が浮くような台詞は。なんだその全く俺らしくもない台詞は。
「せんぱーい。大丈夫ですか?」
「……今はほっといてくれないか」
「フフフ、いいじゃないですか、おもしろかったんですから。ほら、そんな道ばたでうずくまらないでくださいな。今の先輩の方が、よっぽど恥ずかしいです」
「お前は本当に容赦がないな」
「そりゃそうですよ。これが私ですから。先輩が好きな、私らしい私ですから。ね、先輩?」
「やめろ!」
顔を自覚できるくらいに熱くしながら俺は立ち上がった。少し先に歩いてこちらを見る彼女は、やはりニヤニヤ笑っている。それこそさっきまでの彼女がすべて嘘だったかのように。
彼女が楽しそうなのはもちろんうれしいけど、なんというか。憂鬱げに大きく息を吐いた。
「お前落ち込んでたのも演技だったのか?」
「それはまたなんでですか?」
「お前のその態度だよ。まさにいつも通り。俺をまたからかってたとしか考えられないだろ」
「ひどいですね、馬鹿野郎ですね、先輩は。さっきのは全然演技じゃないですよ? 紛れもなく、素の私でしたよ?」
そう言うがやはりニヤニヤしているものだから、簡単に信じることができるわけがない。疑いの視線を向けると「やっぱりひどいですね」なんて言うのだ、楽しそうに笑いながら。
「まあ、まあ、それを信じるとしようか、一応な」
「一応とはまたひどいですね。それがかわいい彼女に対する態度ですか?」
「うるさい。信じるとして、だ。いきなりそんな立ち直るのもおかしな話だろうに」
彼女は落ち込むことすら稀なのだ。内に秘めるならともかく、俺に零すなんて一年に一度あるかどうか。それがこんな簡単に解決してしまうなんて、おかしいじゃないか。
しかし彼女は意外にも、キョトンと間の抜けた顔をして俺を見つめる。何を言っているんだとでも言いたげな表情で。
でも俺は本当にわからないのだ。そう彼女を見つめ返すと、また笑う。
「本当にわからないのですか?」
俺は頷いて返した。
それを見て彼女はやはりやはり笑ってみせる。
いつもの笑みよりずっと小さい。しかしどこか優しげに。夕日のせいかはたまた別の理由があるのか、顔をわずかに赤くしながら。
思わず見ほれてしまうような笑みを浮かべて、彼女は言った。
「――本当に、先輩は馬鹿野郎ですね」
相変わらず馬鹿にしつつも、どこかうれしそうな彼女に、俺は何も言えなかった。