故郷の呪い
ああ、どうしてこんなことになったのだろう。
ぐちゃりぐちゃりと水っぽい音を立てながら、女が志帆の方へ這いずってくる。
手に握られているのは大きな鉈。
その女が、生きた人間ではないことは分かっている。
首が、三分の二ほど繋がっておらず、そこから血を流し続けているからだ。
女がずるずると這いずるたび、首がぱかりぱかりと揺れて、肉やら骨やら神経やらの切断面が見える。気持ちが悪いことこの上ない。
恐らく手に握られた鉈は、女を死に追いやった凶器なのだろう。
冷たい床に倒れたまま、志帆は女が近付いて来るのをただ見ていた。
このところずっと食事を摂っていなかったため、頭がぼうっとしている。
既に心は凍りつき、恐怖すら浮かんではこなかった。
志帆はきつく目を瞑る。心を襲うのは諦念。
ーーーもう、どうでもいい。
ただ、そう思った。
◇
夢を持って上京したはずだった。
あの田舎から、なんだって良いから逃げ出したかった。
実家が農家だったからこそ、農家には絶対に嫁に行きたくなかった。
長男に嫁げば義父母との同居は必須。嫁は労働力と見做され、休みなく農作業に家事にと駆り出される。そのくせ家計は義父母が握ったまま。夫は親から小遣いを与えられ、嫁には自由な金銭は与えられず、まるで奴隷のような身の上。
都会から嫁ぎ、祖父母にいびられながら、こんなはずじゃ無かったと毎日の様に泣く母を見て、志帆は絶対にこうはなるまい、と固く誓ってきた。
だからこそ、赤ん坊の時から一緒にいた幼馴染みであり、彼氏だった圭一に「高校を出たら親父の手伝いを始めるんだ。苦労をかけるかもしれないけど、俺と結婚してくれ」などと言われた時、全身が粟立った。
彼との結婚を、自分の父も祖父母も、彼の両親さえも望んでいることに、志帆は気付いていた。
貴重な若い働き手になるであろう孫娘を、近所に嫁がせ、労働力として、いずれは介護要員としてこの地に縛り付け、搾取したかったのだろう。
ーーー冗談、ではない。
これ以上外堀を埋められる前に、志帆は逃げることにした。
東京に行くのだ。東京に行けば、自由になれる。何かが変わるに違いない、と。幼さでそう思いこんだ。
「嫌。私、あんたと結婚なんて絶対にしたくない。……大体、好きな女に苦労してくれなんて、よく言えるね?」
そう言って、志帆は圭一を一方的に切り捨てた。
ただ高校の間の、戯れの恋愛だから圭一と付き合っていただけだ。彼に引きずられ、こんな場所に縛られたくない。苦労するとわかりきっているのに。搾取されるとわかっているのに。
普段太陽のように明るい彼の、その時の打ち拉がれたような表情は忘れられない。
未だに思い出すたびに酷い罪悪感に苛まれる。
間違いなく彼のことは好きだった。
祖父母に折檻された時、兄との理不尽な待遇差に苦しんだ時、いつもそばにいて励ましてくれた。
ーーーだがそれでも、農家の長男である彼との未来など、おぞましくて考えたくもなかったのだ。
それだけ、夜に母が一人忍び泣く姿は、志帆の心に深い傷として刻まれていた。
高校を出てすぐに、引き留めようとする家族を振り切り、僅かな荷物を持って志帆は家を出た。
「親不孝者」と祖父母は志帆を詰った。
だが、母をいびる姿を日常的に見せ付けられていた志帆には、彼らに対する同情など全く沸かなかった。母親を痛め付ける人間を、その子供が愛するわけがないのだと。そんな当たり前のことを、なぜ彼らは分からないのだろうか。
だいたい家には彼らが溺愛し、家事の手伝い一つさせずに跡取りとして後生大事に育てた兄がいるではないか。甘やかされて育ったせいで、何もできないくせに自尊心だけが肥大した、大嫌いな兄が。
頼るなら、是非そっちを頼っていただきたい。
それなのに。罪悪感が消えない。この場所を、故郷を捨てることに対する罪の意識が。
心労からか、実際の年齢よりもずっと老けて見える母だけが、志帆の味方をしてくれた。
あの気弱な母が「この子の自由にさせてやってくれ」と怒り狂う家族から志帆をかばい、こっそり隠し持っていた独身時代からの貯金を持たせ、送り出してくれた。
祖父母は最後まで喚き続けた。
「故郷を捨てるなんて。いずれ必ずバチが当たるからな…!」
狂気すら感じる剣幕で、そんなことを何度も言われた。
子供の頃から祖父母はよく言っていた。故郷を捨てることは許されないと。故郷を出て都会へ行く人間は恥知らずだと。
一度ここを出た人間は、もう帰って来ない。
おそらくそれをわかっているからこそ、老人たちは必死に子供たちにそう言い聞かせるのだ。
この心に浮かぶ罪悪感は、植え付けられたそれらが原因だ。
気にする必要はない、と志帆は自らに言い聞かせた。
そうして小さな田舎から飛び出して、東京都下にある保証人不要の小さなアパートが志帆の新たな城になった。
調理師免許をとるために、専門学校に通いながら、アルバイトをする日々。
毎日がハードだったが、誰からも干渉されない自由な時間は、自由に使えるお金は、たまらなく愛しかった。
お金がないなりにお洒落をした。みんなに可愛くなったと褒められた。
田舎にいた頃は、不細工なくせにと、子供が色気付くなと散々けなされていたのに。
努力をすれば認められ、報われる場所。
だが、志帆のそんな幸せで充実した日々は、長くは続かなかった。
ーーーー最初は、靄だった。
ある日、専門学校の友達の肩に、黒い靄のようなものが乗っかっていたのだ。疲れているのかと、目をこすったが、消えない。
気のせいだと思うようにしていたが、靄は毎日少しずつ大きくなっていく。
さらに彼女の肩だけではなく、様々なところでその靄を見るようになった。
一体何なのだ、と志帆は不安になった。目の病気かとも思い、病院にかかったが、何も異常は見つからない。
「なんかやたら肩がこるんだよね……」
友人にそう言われたとき、志帆はぞっとした。彼女の肩にまとわりつく黒い靄が原因としか思えなかったのだ。
日が経つにつれ、見える黒い靄は増えていく。
一ヶ月経てば、それらが人の形を取るようになった。
友の肩に乗っていたのは、赤ん坊だった。
血の通っていない様な、真っ白な赤ん坊が、彼女の肩に乗っているのだ。
「赤ちゃん…」
思わず友人の肩を見て志帆が呟くと、彼女は顔をひどく顔を歪ませた。
「……あんた、いきなり何?……何か知ってんの?」
鬼気迫った表情で問われ、志帆は真っ青な顔で首を横に振った。本当に何も知らなかった。
するとコロンと赤ん坊の首が取れて、志帆の足元に転がった。次に手、足、胴。
ボタ、ボタッと水っぽい音を立てて、バラバラになった赤ん坊が床に落ちる。
「ヒィッ!」
喉から引き攣れた音が漏れる。
転がった赤ん坊の首と目が合う。
その赤ん坊が、うっすらと笑みを浮かべた瞬間。
ーーー志帆の意識は暗転した。
その後、医務室で目を覚ましたが、その友人は怯えるように、志帆を避けるようになってしまった。
彼女の肩には相変わらず赤ん坊が乗っている。志帆は目を合わせない様にした。
赤ん坊だけではない。そこら中にあった黒い靄だったものは、皆、人の形になった。
だが、それらは、どこか歪み、欠けていた。
首がおかしな方向へ曲がっているもの。内臓を引きずっているもの。血を吐き続けているもの。顔が半分砕けているもの。
目を合わせれば、近寄ってくるので、ひたすら何も見ない様、下を向く癖が付いた。
志帆は、認めざるを得なかった。
ーーーこれらは、全て死者だ。
どうやら自分は、突然幽霊を見ることが出来るようになってしまったらしい。
世界は、死者だらけだった。
朝、起きれば壁にびっしりと白い腕が生えていた。思わず悲鳴をあげてしまい、隣の住人に壁を殴られた。
昼、食事をしようとすれば、痩せこけ腹部の膨れ上がった子供達に熱心に見つめられ、食欲が失せた。
夜、街を歩けば、その量は一気に増える。死人だらけで歩くのも困難だ。家までの道を下を向きながら死者たちをくぐり抜けるように歩いた。
志帆は徐々に疲弊していった。
『ーーーバチが当たる』
ふとした瞬間に祖父母の言葉を思いだす。これがそうなのか。
あの田舎を出たから、こんな目に遭っているのか。
ならば、あの田舎に戻れば、これらは見えなくなるのか。
つまり自分は、あの田舎で、搾取され使い潰される以外の人生は選べないのか。
「いやだ、いやだ、いやだ…」
壁に寄りかかりながらブツブツと呟く。
暗闇が怖くて、部屋の電気は付けっ放しだ。
もう、何日もまともに眠れていない。
涙がこぼれ落ちる。……一体何の呪いだ。
本当にご先祖様とやらがいて、自分に罰を与えているのか。
ーーーあるべき場所へ戻れ、と。
帰りたくない。こんなにも帰りたくないのに。
それでも、もう限界だった。
3ヶ月ぶりに故郷に帰るため、向かった空港もまた、死人だらけだった。
「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ…」
志帆はブツブツ呟く。そんなことで彼らが消えないことはわかっていたけれど、それでも言わずにはいられなかった。
目さえ合わせなければ、彼らは志帆に興味を持たない。
必死に床だけを見て歩く。だが、その床から生首が生えていた。
踏みそうになって、思わずぐらりと体勢を崩す。膝を硬い床に打ち付ける。
周囲から見れば、きっと何もないところで転んだように見えるだろう。
そして顔をあげれば、女の首と目が合ってしまった。首が嬉しそうににやりと笑う。
「ひぃっ!!」
後ずさるが、女の首はコロコロ転がって志帆に近づいてくる。腰が抜けて、動けない。
「ーーーダメよ」
すると女性の声がした。その声の方へ向けば、見知らぬ女が、転がる首に向って話しかけていた。
そして志帆のそばに来て、手を貸し、立ち上がらせてくれる。
「遊んであげられないの。向こうに行って」
そういえば、生首はなんとも寂しそうな顔をする。
そして、彼女は志帆の手を引きその場を後にする。生首は、追いかけては来なかった。
「大丈夫?」
空港にある休憩所へと導かれ、優しく問われる。志帆は恐る恐る彼女を見た。柔らかな雰囲気を纏った、ごく普通の女性だ。
だが、そんなことよりも、とある事実に志帆は衝撃を受ける。
……彼女にも見えているのだ。死者が。
「助けてください…!お願いします…!助けてください…!!」
一筋の光が見えて、志帆は彼女にすがりついた。そして今まで我が身に起こった一連の出来事を話した。
話を聞いた彼女は、困った顔をする。
「ごめんなさい。私は霊能力者ではないの。ただ見えて、声が聞こえるだけ。あなたと同じ。助けてあげることはできないの」
祓うような真似はできないのだ、と申し訳なさそうに言う。志帆はうな垂れた。
「……でも不思議ね。突然見えるようになるなんて。生まれ持った体質の問題のはずなのに」
女性が首をかしげる。志帆も知りたかった。一体何が原因なのか。
「怖がらなくても大丈夫。彼らはただ、そこに存在するだけ。死者が出来ることは、生者よりもずっと少ないの」
そんなことを言われても、目の前に存在されるだけでどうしようもない。
「だって、死者になにかできるのなら、殺人犯はみんな被害者に祟り殺されてなくちゃおかしいでしょ?死んだ人間より生きている人間の方がずっと恐ろしいのよ」
ほんの少し、彼女は顔を歪めた。
「彼らは寂しがりやだから、自分を認識できる人を見つけると、纏わり付いちゃうの。一番良いのは構わないこと。認識できることを隠すこと」
つまり彼らと目を合わせないことだと彼女は言う。今まで志帆が本能的にしてきた対応は、どうやら間違ってはいなかったらしい。
「そのうち慣れるわ」
おっとりと彼女は笑った。
そして、出張から帰って来る夫を出迎えるのだと言って去って行った。
自分と同じものが見える人間に会えたことは嬉しかったが、結局原因も解決法もわからないままだった。
彼女は、『体質』なのだと言った。死者が見えることは、志帆の個人の『体質』なのだと。
ならば、やはりあの土地に、故郷に、先祖とやらに、自分は知らぬうちに守られていたと言うことなのだろうか。
故郷を離れ、彼らの守護を失ったから、死者が見えるようになってしまったのだというのか。
それは、志帆にとって絶望的な想定だった。
重い足取りで、実家に向かう。
「諦めて家にかえってきなさい。なんなんだその格好は。色気付きやがって」
「だいたいお前なんて東京にいたところで何もできないだろう。鈍臭いくせに」
ようやく家に着けば、居間に家族が集まっていた。そして、母以外の皆が口々に東京へ出た志帆を頭ごなしに非難し罵倒した。
だが、志帆はそれどころではなかった。
喚く彼らの背後には、たくさんの死者がいた。そう、東京と変わらず、いつものように。
喚き散らす祖母の背中に、怨嗟の表情を浮かべながらのし掛かっているのは、志帆がほんの子供の頃に亡くなった曾祖母ではないだろうか。
志帆は笑いがこみ上げて来た。
ーーーそうか。なぁんだ。良かった。
突然クスクスと笑いだした志帆を、家族が怪訝そうな顔で見る。
呪いなど、なかった。
故郷を捨てたことが、原因ではなかったのだ。
「……死んじゃえ」
志帆の口から小さくこぼれた言葉が、部屋の中に、妙に響いた。
それを聞いた祖父母が、父が、兄が、目を見開く。
罪悪感など、もう微塵も浮かばなかった。
こんな田舎に、未練など何もなかった。
そして、追い詰められていた心の箍が弾け飛んだ。
「死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ。おばあちゃんもおじいちゃんもお父さんもお兄ちゃんも」
志帆の言葉に家族が愕然とする。
何を今更、と志帆はせせら笑う。これだけ母と私を虐げておいて、愛されているとでも思うのか。
「みんな大嫌い。消えちゃえ」
するとそれを聞いた祖母が憤怒の表情で、お前の教育が悪いなどと母を責め立て始めた。
志帆は怒鳴る。
「うるさい!いつかおじいちゃんが死んでおばあちゃんが死んでお父さんも死んだら、この大事にしてる先祖代々の土地とやらをバラバラにして売り払ってやるから!」
祖母が、怒鳴り散らす志帆を見て、唖然とした顔をする。
大人しくいつも自信なさげにオドオドしていた孫娘の突然の変貌に、驚いているのだろう。
「私には継がせないつもりだったんだろうけど、残念でした。今の日本の法律じゃ相続には娘も息子も関係ない。相続率は一律なの。ああ、遺言残したとしても遺留分てのがあるからね?絶対に許さない。あんた達が大事にしてるものを何もかもぶっ壊してやる」
志帆は笑う。もう怖いものなど何もなかった。
「あ、そうそう。私に自分たちの介護とか手伝わせようなんて考えないでね?事故に見せかけてうっかり殺しかねないから。後生大事に育てたお父さんとお兄ちゃんにやってもらって。めでたく死んだ時だけ連絡ちょうだい。喜んであげる。だからもう二度と私に関わらないで」
一息にそう言って、志帆は踵を返し家を飛び出した。
涙が溢れてくる。だが、心の底からすっきりした。
ずっとずっと心の中に溜め込んでいた思いをぶちまけてやった。
そうしたら、無性に幼馴染に会いたくなった。自分から振ったくせに。なんとも自分勝手だ。
ずっと子供の頃から志帆を慰めてくれた、優しい幼馴染。
子供の頃から、祖父母や兄から強く当たられるたびに、彼の家に逃げた。
色付きのリップを塗って、みっともないと祖母に言われリップを捨てられた時は、可愛いと言ってくれた。
女に学は必要ないと、家業を手伝えと、高校進学すら渋られた時も、一緒になって怒ってくれた。時に祖父母から庇ってくれた。
母と同じく言いたいことを言えない志帆に、我慢するなと、言いたいことは言え、といつも背中を撫でてくれた。
そんな彼に「言ってやったんだよ」と伝えたかった。
もちろん、今更そんなことはできなかったけれど。
東京に帰り、小さなアパートの床に転がった。
結局、自分がこんなことになってしまった原因はわからなかった。
冷たいフローリングを頰に感じながら、ぼうっと過ごす。
すると、壁をすり抜けて、ずるり、ずるりと這いずる一人の女が通りがかった。歩くたびに取れかけた首がパカパカと動く。気持ちが悪い。
目を合わせないようにしなくては、と思ったが、疲れ果てていて、動く気にはなれなかった。
女がふと顔を上げる。そして、目が合ってしまった。
しまった、と思ったが、もう目を離せなかった。
ニヤッと女は笑い、志帆の方へと這いずってくる。
そして、志帆に向かってその鉈を振り上げた。
死人に、人を殺すことはできない。確かあの女性はそう言っていた。
本当なのだろうか。ようやく湧き上がった恐怖に、志帆はぎゅっと目をつぶった。
だが、いつまでたってもなんの衝撃も来ない。
恐る恐る目を開けてみれば、女はすぐ目の前にいた。
「ひっ」
喉が鳴る。しかし、彼女は一瞬不快そうな顔をして、その場からすっと消えてしまった。
それだけではない。壁から吊り下がっていた白い手も、冷蔵庫に張り付いていた目玉も。何もかもが消えていく。
ーーーピンポーン
そして、突然インターホンが鳴った。一体何があったのか。志帆は瞬きをする。
ピンポーン
またインターホンが鳴る。出るべきか出ないべきか。悩んでいると懐かしい声がした。
「ーーー志帆。いないのか?」
志帆は飛び起きた。這うようにして必死に玄関に向かう。そして、扉を開ければ。
そこには圭一がいた。
相変わらず人の良さそうな顔をしている。それから志帆を見て、ひどく顔をしかめた。
「お前、なんでそんなに痩せてんだよ! 東京生活をエンジョイしてるんじゃなかったのか?」
圭一が強く志帆を抱きしめる。志帆は震える腕で彼の背中に腕を回す。
心から安堵が湧き上がる。大きな掌が、なだめるように何度も何度も志帆の背中を撫でる。
涙が溢れでる。そして泣きじゃくり、泣き疲れて眠ってしまうまで圭一にしがみついていた。
朝、目覚めれば、そばに圭一の寝顔があった。
どうして来てくれたのだろう。自分は彼に、あんなにひどいことを言ったのに。
ずっと彼の寝顔を見つめていると、彼の瞼がうっすらと開いた。そして志帆に気づくと気遣わしげに問う。
「ーーーおはよう、志帆。大丈夫か?」
それだけで、また涙が溢れそうになる。こうして心砕いてもらえることが、こんなに嬉しいなんて。
ちゃんと食事を摂れ、と圭一に連れ出され、ファミレスでモーニングを食べる。
3ヶ月ぶりにあった幼馴染は、愛おしそうに志帆を見る。
「志帆に言われたこと、ずっと考えてたんだ。ごめん。本当に俺、考えなしだった。志帆があの家で苦しんでたの知ってたのに」
志帆はゆるゆると首を横に振る。そう、志帆こそ考えなしだった。圭一が自分の父親とは違うことをちゃんと知っていたはずなのに。
「だからさ、俺も家を出たんだ。農学部のある大学に通おうと思って。それから経営もちゃんと学ぼうと思うんだ。今の家族経営のままじゃダメなんだよな。農業のやり方自体を変えるべきなんだよ」
「ご両親は反対しなかったの?」
「そりゃ最初は渋られたけど。でも話せばわかってくれたよ。時代は変わるからって。それによってやり方を変えていくべきだって」
そうだ。彼のご両親はとても温厚な人だった。志帆にも優しくしてくれた。
「苦労なんてさせない。幸せにする。絶対守るから。だからさ、いつかもう一回プロポーズさせてよ」
圭一の真摯な言葉に、また涙が溢れる。自分の視野の狭さを深く深く悔やむ。
そして、圭一が差し出して来た手を取り、握り返した。
「志帆、調理師免許とるんだろ?だったらさ、農家直営のレストランとかもいいよなぁ」
楽しそうに勝手に未来を語り出す圭一に、志帆も笑った。そして、気付く。
ーーー周りに、死者がいない。
いくら周囲を見渡しても。一人もいない。
あの女性は言っていた。これは「体質」であると。思い返せば、3ヶ月前に志帆が失ったのは故郷だけではない。
そう、圭一だ。昨日も圭一が志帆に近づいたら、死人たちが消えてしまったことを思い出す。
つまり、幽霊を引き寄せる体質もあれば、幽霊を近づけさせない体質もあるということか。
ずっと圭一といたから、志帆は今まで自分の体質に気がつかなかったのだ。
「……ああ、私。勘違いしていたんだなあ」
場所ではない。場所ではなかったのだ。
故郷の全てを毛嫌いしていたけれど。きっとあの場所でも、圭一がいたら幸せに暮らせるのだろう。
それから圭一は志帆の家に転がり込んで、一緒に暮らし始めた。拙いながら家事も手伝ってくれるし、優しい。
そんな、おままごとのような生活を志帆は楽しんでいる。彼と暮らし始めてから、死人は見ていない。
彼は一年遅れで大学に入り、将来を見据えて勉強をしている。
彼となら、いずれ故郷に帰ってもいいかな、と思うようになった。
志帆が家を出て数年後、祖母が死んだ。
ちっとも心は痛まなかったが、約束通り志帆は圭一を連れて実家に帰った。
すると実家は様変わりしていた。死ぬまでずっと長期入院をしていた祖母に代わり、母が家を切り盛りするようになったそうだ。家の中もリフォームされ、母好みに整えられている。
実は祖母が入院してすぐに母は、一度家を出たそうだ。祖母の介護はどうしてもしたくなかったのだと母は笑った。
そこで家事一つできない男たちは、途方にくれた。困り切った彼らは、母に頭を下げて戻って来てほしいと無様にすがったらしい。祖母の介護は彼らに任せるという約束で、母は家に帰った。
そんなことを、それはそれは楽しそうに母は話してくれた。
今では、祖父も父も兄も、母に頭が上がらないそうだ。我が家の男どもも、少しは自分の行いを省みたのだろう。
母は自信にあふれていた。あの気弱だった頃の姿とは別人のようだ。
「志帆がね、好き放題言ってくれたおかげで胸のつっかえがとれたのよね。私も好きに生きようって」
よかったね、と志帆は笑った。我慢するのに慣れてしまうのは、良くない。我慢はすればするほど、相手を増長させるだけなのだ。
だがそんな母は、とある話題になると顔を顰めた。
どうやらこの前あの兄が彼女を家に連れて来たそうだ。
母はその子が気にくわないらしい。髪を染めてるだの、格好が派手だったのと色々と文句が飛び出す。
妹からすれば、あんな兄とよく付き合ってくれてるな、と感謝しかないのだが。
母は、娘は大切に思えても、他人様の娘は大切には思えないらしい。母の新たな一面を見てしまった。
「私が台所で忙しそうにしているのに、『手伝います』とも言わないのよ!お母さん呆れちゃったわ…!」
志帆に同意を求めてそんなことを言う母の顔は、母をいびっていた時の祖母にそっくりで。
志帆はあの女性の言葉を思い出す。
なるほど。この世で恐ろしいのは、死者よりも生者であるのだ、と。
「ねえお母さん。おばあちゃんと同じ顔をしてるよ」
志帆がそう言えば、母の顔が酷く歪んだ。