走ることを止めた先にあるものは…
「コーヒーどうぞ」
「あっ、ありがとうございます。でも、私はカレーライスしか頼んでないですよ。」
「いいんです、今はコーヒー無料サービス中なんです。」
コーヒー無料のサービスは1週間前から始めて、いつまでかは決めていない。喫茶店を経営してから13年。開業した頃はお客さんが全く入らず経営難だったが、ここ数年は売上が軌道にのっている。それも、喫茶店の隣にある公園周辺を走り始めたからだ。ただ走るだけでなく、すれ違うランナーには挨拶をしたり積極的に話をかけ、喫茶店を知ってもらう機会を増やした。数あるマラソン大会にも喫茶店の名前を書いたTシャツを着て出場し、知名度を地道にあげて、常連客を増やすことに成功した。ただ、それも1週間前までの話。1週間前に付き合っていた女性と別れてから、なぜか常連客も足が少しずつ遠退いている気がする。自分が1週間前から走ることを止めたのもその理由の1つであるが、今はどうしても走る気持ちになれない。コーヒーをサービスするのも、お客さんの喜ぶ笑顔で少しでも落ち込む自分を励ましてほしいというのが本音だ。
「コーヒーありがとうございました。」そう言って出て行った女性が今日一人目のお客様。現在の時刻は14時。ランチで一人しかお客が入らなかったのはさすがに今日が始めてだ。今から休憩に来る営業マンやデザート目当ての主婦も来るだろうが、このままの集客だと経営が厳しい。プライベートが上手くいかなくなると、仕事も上手くいかなくなるのかと気持ちが落ち込む。
時刻は19時になり、喫茶店の営業は終了した。結局この日の売上は先週の同じ曜日の半分程。たった1週間でこんなに変わるのかとまたしても落ち込む。今後どのようにするのが良いのか考えながら、喫茶店のシャッターを下ろす。以前は家に帰るまで走っていたが、今は自転車で帰るようにしている。帰り道の途中にあるコンビニでデザートを買い、自分の作るデザートと味を比較するのが楽しみになっている。今日は、このイチゴと生クリームがのっているプリンと、ティラミス、飲み物はカフェオレにしよう。
「いらっしゃいませー。3点で756円でございます。」
財布から1000円札を出す。いつもは店員の顔もあまり見ないのだが、ふと顔を上げて見ると、そこにはランチに来た女性がいた。
「あっ、お昼はご来店頂きありがとうございました。」
「いえ、こちらこそコーヒーありがとうございました。」
「こちらで働いてたんですね…。」
「はい、喫茶店のマスターでもデザート買ったりするんですね。」
「えぇ、まぁ…。」
「またお越しくださいませ。」
軽くお辞儀をしてコンビニを後にする。お客さんがいたらあのコンビニに寄るの恥ずかしいなと思いながら、あのお客さんだってもう喫茶店には来ないかもしれないなとネガティブな考え方を持ってしまう。このままじゃダメだと思いながら、なかなか自分の気持ちに整理がつかないでいた。
翌日、女性はまた喫茶店に来た。
「いらっしゃいませ。本日は何にされますか?」
「…えっとー、オムライス下さい。」
「はい、ありがとうございます。」
「…本日もコーヒーサービスですか?」
「はい、サービスしますよ。」
「…。」
普通は喜ぶはずだが、女性は悲しい顔をしていた。
「あの…すごく嬉しいんですが、なぜコーヒーをサービスされるようになったんですか?」
「お客さんに喜んでもらうためですよ。」
「でも、コーヒーをサービスするのも経営的に大変じゃないですか?」
「まぁ、そうですね。そこはもう、正直、赤字も覚悟してます。」
「…あの、こんなこと聞くのもどうかと思うんですが…。」
「…何でしょう?」
「…1週間前、あの女性と何かあったんですか?」
「え!?」
カウンターに座っていた女性が素早くその場に立ち、頭を下げて謝ってきた。
「すみません!実は1週間前、この喫茶店で女性と話しているのを偶然見てしまったんです。コンビニのバイトが終わって、この喫茶店の前を通って家に帰っている時に、喫茶店の電気がついてたのでまだ開いてるのかなと思って覗いたら、女性とお話されて、険悪そうな雰囲気で…。お店に入らず帰ろうとしたら、女性がお店から早足で出て来て、マスターの顔が真っ青になっているのが見えて…。」
「それは…恥ずかしいところを見られましたね…。」
「すみません!それからちょっと気になって、次の日のお昼に喫茶店を覗いたら、コーヒーの無料サービスが始まってて…。マスターは元気がなさそうで…。」
「ご心配おかけしてすみません。」
「いえ…。それから、この公園でもみなさんがあることないこと話しているのを聞いてしまって…。」
「…何のことでしょう?」
「傷ついたらごめんなさい。マスターが走っているのはただお店をアピールしたかっただけだとか、お店の売上を上げるためだけの付き合いだったのかとか…公園のランナー達が話していたんです。」
それで、喫茶店のお客さんも少なくなっていたのか。
「それに…。」
「まだ悪口話されてましたか?」
「女性と不倫しているとか…。」
「…そう…ですか。」
もう別れたのに、悪い噂はいつまで広がるのだろうか。きっとこの女性も本心は呆れているのだろうと思っていた。
「でも…。正直に言います…。」
彼女が目をパッと開いて、私の目をじっと見つめながら話始める。
「私は、あなたの走っている姿に励まされたんです!私は、歌手になるのが夢で、今もいろんなオーディションを受けています。まだ事務所に所属できてなくて、コンビニでバイトをしてるのも、ボイストレーニングの学校に通ったり、オーディションにかかる経費のために働いています。1か月前くらいに最終オーディションまで初めていくことができ、すごく嬉しかったのですが、そこで落ちちゃって…。」
「それは残念でしたね。」
「私も最終まで行った喜びの反動で、すごくへこんでしまって…。もうここまでいってもダメなら歌手に向いてないんじゃないかなと思ってオーディションから帰っていた時に、私の横をあなたが走って抜いていったんです。その時は、走り方がきれいだなとしか思わなかったんですが、次の日もたまたまその時間にその道を通って、またあなたが走っている姿に出会いました。もしかしたら、毎日走ってるのかなと思って、ちょっと気になったら、次の日はコンビニのバイト中にあなたがコンビニの横を走っていく姿を見かけました。それからも何度も…。」
自分は走っている時に周囲の人をあまり見ていないが、周りの人にそんなに見られることもあるんだな。
「あなたが毎日前を向いて一生懸命走る姿、毎日同じ時間に走る努力をしている姿、あなたがとても輝いて見えて、私もまだ歌手を目指して前を向いて走って 頑張ろうと思うようになりました。あなたが喫茶店のマスターだということをコンビニのバイト仲間から聞いて、喫茶店を覗いてみようと思ったら女性と険悪な雰囲気で…。いつも輝いて走っていたあなたが、とても落ち込んでいるのが分かって、何かできないかなとか毎日考えてたんですが喫茶店に通うことしか思い浮かばなくて…。」
「そんなに、あなたに心配かけさせてすみません…。」
「謝るのは止めて下さい!私は、またあなたが走る姿が見たいです。ランナーの人たちもいろいろ言ってたけど、あなたの走る姿が見れないのは、本心は絶対寂しいはずです!あなたが頑張ってた姿見ていた人達はいっぱいいると思います!1人の女性と別れはあったかもしれませんが、走っていたらもっといい出会いありますよ!走りましょう!」
「……走る…。」
「…はっ!!すみません、私、勝手に自分の願望押し付けすぎました!すみません!きょっ…今日は帰ります!」
そう言って女性は店を飛び出して走って行った。
もう走ることはしないと決めていたし、自分が今まで何のために走っていたのかと、ここ最近は考えていた。女性の言葉を頭のなかで繰り返し思い出し入れながら、気がつくと私はお店を飛び出して、女性の元へと走っていた。