黄金色の思い出
何年も前のコンクールに応募した作品を発掘したので、投稿します。
唐突に始まり、唐突に終わる雰囲気小説です。
ついてない。今の気分を一言で表すとこんな感じ。確かに嫌な予感はしていたんだ。
靴下の片割れが見つからない。
授業中分からないところばかり当てられる。
昼には嫌いなトマトが出て、そのうえ箸を忘れるというおまけつき。
それでもなるべく気にしないように努力していた僕なのに、この仕打ちとはちょっと酷すぎやしませんかね、神様?
「ご、ごめんなさい!!」
頭を何度も深々と下げて謝っているのは女の子。キュッと赤いバンダナを頭に巻いて、白いレースのエプロンをつけている。僕より一回りも小さな少女は大きな琥珀色の瞳を持っていた。そんな子が必死に頭を下げている姿を可哀想と思う人もいるだろう。けれど、僕は同情なんてしてやらない。なんていたって彼女に水をかけられたんだから。しかも水浴びするには遅すぎる十月も終わりに近づいた日に、である。
「うわぁ、やっぱり濡れちゃいましたよね?」
「・・・・・・濡れちゃいましたね。」
「寒い、ですよね?十月も終わりだし。」
「・・・・・・寒いですね。十月も終わりだし。」
僕は努めて平然とした態でそんなことを言った。ふつふつと湧き上がる怒りを年下の女の子にぶつけるのは、お兄さんとして情けないことこのうえない。ここは大人の威厳とやらを見せるべきだ。
「あのぉ、お詫びといったらなんですが、服が乾くまで私のお店で暖まっていきませんか?なにかご馳走しますよ!!」
屈託のない笑顔でそう言われて断れる人間がどれほどいるのだろう?少なくとも僕には出来そうもない。幸い濡れたのはシャツの袖部分。暖かい部屋にいればすぐに乾く代物だ。
「でも、本当にいいの?勝手なことしたらお父さんたちに怒られるんじゃない?」
ご馳走してくれるのは嬉しい限りだけれど、勝手に店のものに手をだして、彼女が両親にしかられたらそれはなんだか忍びない。けれどそんな僕の心中とは裏腹に、彼女は不思議そうな顔を見せた。
「???どうしてそこで両親がでてくるんですか?」
「へ?だって君は二人のお店をお手伝いしているんでしょ?」
「違う、違う、違いますよ。ここはちゃんと私が一人で経営しているお店なんです。」
コロコロと鈴が鳴るように笑う彼女。僕は目の前のこぢんまりとした建物を見た。
淡いレモンイエローの外壁と小さな丸い窓。扉は楕円形で金色の丸いドアノブがちょこんとついている。なにより一際目を引くのは看板で、丁寧な文字で『ビー・スタック・オン・ハニー』と書かれていた。
なるほど。シンプルながらに気品あふれる立派な建物ではないか。それを彼女が一人で経営しているって?しかも見ため7、8歳の女の子が?
彼女は僕の戸惑いを全く意に介せず、木製の扉に手をかけ、
「なんだかお客さんなんて久しぶりだから、少し緊張しちゃいますね?」
と振り返ってふわりと微笑んだ。それは妙に大人びた仕草だった。だから僕はそれが少し悔しくて
「緊張しているようには見えないけど・・・・・・」
とボソリと呟いた。しかしそんなささやかな意地悪も彼女には届いてないらしい。だって彼女は扉をグイッと押し開けて、さっさと店の中に入っていってしまったんだから。
僕は慌ててその後を追った。風に乗って運ばれてくる甘いにおい。
「うわぁ・・・・・・」
店内に足を踏み入れると目の前に広がる光景に思わず声が出た。そこにあったものは何十種類ものハチミツだ。四方の壁に戸棚が埋め込まれているようで、そこにハチミツが入った10cm程度の小瓶が整然と置かれていた。 僕は視線をサッと走らせる。
店内はいたって簡素なつくりだった。2,3個の白い丸テーブルと、それをとり巻く同色のイス。扉の正面にはささやかなカウンターが用意されていて、その後ろにも他の壁と同じようにハチミツの小瓶が置かれていた。それらは一つ一つが全く異なった色をしており、それぞれが日の光に反射して何十もの色を惜しげもなく見せている。
「私ってハチミツ一本で勝負している商売人なんです。」
彼女は何が嬉しいのかニコニコとしながらカウンターに入り、硬直している僕をチョイチョイと手招きする。僕はふぅと重いため息をつくとあきらめてその向かいの席に座った。嫌でも視界に入るハチミツに自分がとことんついていないことを悟る。
「さて、お客さん何にしましょう?」
彼女はズイッ顔を突き出して、期待にキラキラと輝く瞳で僕を見つめた。それから逃れるように僕はフイッと視線をそらす。
「何がって、何があるっていうのさ。」
どことなく声にとげが入った。けれど彼女はそれを気にした風もなく相変わらず笑顔で受け答える。
「あぁ、ここではホットミルクに好きなハチミツを入れて飲んでもらうんですよ。で、お客さんはどのハチミツが好みなんです?」
くるくると銀のスプーンを回しながら、弾むような声音で彼女は言う。半ば予想していた答えだったけれど、僕の胸はムカムカした。
「いらない・・・・・・」
「は?」
彼女は初めてその表情を崩すと、ポカンと口を開けて僕を見つめた。その澄んだ瞳の色を何となく見ることが出来なくて、僕はそっと俯いた。
「嫌いなんだ、ハチミツ・・・・・・」
「えぇ!!ハ、ハチミツが!?こんなにおいしいのに?」
まるで珍獣を見るかのように上から下までジロジロと眺められて思わずムッとする。口からはきつい口調の言葉が出た。
「ああ、大嫌いさ!!甘ったるいし、ベタベタするし、いったいあれのどこがいいって言うんだよ!!」
ハチミツは嫌いなんだ。だって、あれは―
「ふぅ~ん・・・・・・」
僕はハッと我にかえる。怒鳴った僕に彼女が返したのはそんなあいまいな言葉だった。怒るでも悲しむでもない、微妙な態度。何故だかこちらのほうが居心地が悪くなってしまう。ちらり彼女を盗み見ると、その顔は何かを考えているようだった。
「!!」
ふいに彼女とバチリと目が合う。ニコリと微笑まれて、僕の体を嫌な予感が駆け巡った。
「まっ、それは気にしないことにして。お客さんが選ばないなら、私が選んであげますよ!!なにがいいかなぁ。」
さらりと言われた言葉に僕はギョッとする。
「い、いらないって言ってるだろ!!」
慌ててとめにかかる僕の腕をするりと交わし、彼女は相変わらず笑顔で答えた。
「まあまあ、そうカリカリしないでくださいよ。おっ、これなんてどうです?桜の花のハチミツですよ?」
僕はピタリと動きを止める。ふいに蘇る懐かしい声。
そんな僕を尻目に彼女はその小瓶を手に取ると雑作もない手つきで蓋を開けてしまった。甘い匂いに混じり微かに花の香りがした。
「お客さん知っています?ミツバチが運ぶものって花の蜜だけじゃないんですよ?」
彼女は瓶の中に銀のスプーンを入れる。僕はまるで何かの魔法にかかったかのように、そのハチミツから視線を離すことができない。
「彼女たちは花が見たこと、聞いたこと、その花の記憶も蜜と一緒に運んじゃうんです。それは町を行き交う人々の姿だったり、酔っ払いの戯言だったりするんですよぉ?」
彼女はふふふと羽が生えたように笑いながら湯気の立つオフホワイトのマグカップを取り出した。そしてその頭上から一すくいしたハチミツを垂らす。それはスプーンからとろとろと流れ出し、黄金色の帯を描きながら白いミルクの中に消えていった。
「でも、中には宝物のような思い出も混じることがあるんですよねぇ。はい、どうぞ。」
コトリと軽い音をたてて目の前に置かれたマグカップ。僕はそっと腕を伸ばした。カップを両手で包むように持つと、じわりとその温かさが掌に伝わる。
ハチミツは―
僕は花の匂いに誘われるミツバチのように、その淵に口をつけた。頬を暖かい湯気が撫でるように通り過ぎていく。
嫌いなのに・・・・・・・
一口すすると口の中に優しい甘さと、桜の匂いがふわりと広がった。フッと僕の意識が遠のいた。
***
目が覚めるとそこは桜の木の下だった。僕は目の前を掠めて通り過ぎていってしまう花の軌跡を目で追う。すると、
「あーくん。」
聞こえてきた僕の名を呼ぶやわらかな声。ギクリと体が強張った。見覚えがある桜の木と記憶に残る懐かしい声に、僕の心がありえない期待で震える。
「ふふふ、どうしたの?篤葵。あなたもこっちへいらっしゃい。」
紡がれる言葉はまるですぅっと空気に溶け込んでゆくようなものだ。静かで耳に心地いい。僕はそっと振り返った。そうしなければ彼女が今にも消えてしまうのではないかと思ったから。
振り返った視線の先にいる人を見てハッと息を呑む。あの人は―
「まってよ、おばあちゃん!!」
子ども特有の高い声が辺りに響き渡った。僕は慌ててそちらに目を向ける。桜の木の下にたたずむおばあちゃんのそばに駆け寄るのは幼い僕だ。
これは・・・・・・過去なのか?
「ほら、はやくいらっしゃいな。今年も見事な桜が咲いているわ。」
彼女のしわくちゃな手がおいでおいでと幼い僕を呼ぶ。目じりにいくつもの皴を刻み、微笑みかけるその眼差しは穏やかだった。
幼い僕は走る勢いそのままに、彼女に抱きつく。たどり着いた僕の手を彼女はやんわりと握り返してくれていた。
「きれいねぇ。」
そう言って花を見上げる横顔は記憶に残る彼女の面影と何一つ変わりない。
僕の大切だった人。
もう会うことが出来ない人―
「あら?あんなところにミツバチさんが。」
ふと漏らされた呟き。彼女の骨ばった細長い指が桜の花の一点に向けられた。僕はそのゆっくりとした動作を追うように視線を桜に戻す。すると風に舞い散る花びらのなかを軽やかに飛ぶミツバチの姿が見えた。
「あぁ~、ほんとだぁ!!」
キャッキャッと楽しそうに笑う僕。
「きっと今年も美味しいハチミツがたくさんとれるわ。楽しみだね、あーくん。」
「うん!!おばあちゃん、ハチミツ大好きだもんねぇー。」
幼い僕は握られた手をぷらぷらと揺らしながら、彼女に笑いかけている。
そう、彼女はハチミツが好きだったんだ。いつもおばあちゃんと会うときはハチミツを食べさせてもらっていた。それはお菓子だったり、飲み物だったり、様々だったけれど、彼女からはいつでもハチミツの甘い匂いがしていた。
「あら?そう言うあーくんもハチミツ、大好きでしょう?」
彼女はコロコロと軽やかに笑う。僕は
「うん!!ハチミツはおばあちゃんだもん。」
と勢いよくそう言ってニコリと笑った。
あぁ、そうさ、そうだとも。優しく髪の間をすり抜けてゆく指の感触。そしてその温もり。僕に向けられるやわらかな視線と香るいい匂い。それらはハチミツのように甘くて、しっとりとしたものだと僕は思っていた。だから―
ハチミツが大好きだった。
「おばあちゃんはハチミツみたいなんだよ。」
僕はくすくすと笑っていた。
「私が?」
彼女は軽く目を見張ると、目じりにたくさんの皴をよせて微笑む。その手が僕の髪をすり抜けていくように頭を撫でていった。
「ふふふ。おばあちゃんにとってもあーくんはハチミツみたいだけれどね?そうだ、今度あーくんが来る時までに、桜の花のハチミツを用意しておきましょうか?」
彼女の瞳はまるで少女のようなきらめきを宿していた。
「ほんと?」
僕は頬を上気させて期待に胸を膨らませている。
「ええ、もちろん。そうしたら、一緒に食べましょうね?」
桜の花びらのように笑う愛しい人。
果たされることのなかった約束。
「うん!!」
何も知らない僕は無邪気に笑っていた。
***
ゆらゆらとカップの中の液体が小刻みに震えている。
「だから・・・・・・嫌いなんだ・・・・・・」
ハチミツ
それは甘さも香りも、何もかもが彼女に繋がっていた。食べてしまえば彼女を思い出してしまう。もう会うことが出来ないのに会いたくなってしまう。だから食べたくなかった。いつだって嫌いであろうとした。
「ハチミツなんて嫌いだ・・・・・・」
僕は強く拳を握り締めた。そのとき、
「でも―」
と、ふいに漏らされた囁きに僕はパッと顔を上げた。目に飛び込んできたのは細められた琥珀色の瞳だった。
「好きなものを嫌いといい続けることは、辛いことなんじゃありませんか?」
僕の目の前にそっと桜の花のハチミツが入った小瓶が置かれる。
「お客さんはハチミツが大好きなんですよ。」
彼女はふっと微笑んだ。
「だってそれには大切な思い出がいっぱいつまっているのでしょう?」
そう言って差し出される銀色のスプーンを僕は手に取る。
「悲しかったことも、楽しかったことも、全てを含めて大切だと思える思い出が、ハチミツの中にこもっているのでしょう?」
僕はそのスプーンをハチミツの小瓶の中に浸した。ゆるりと流れ落ちていく液体。
「だからお客さんはハチミツを絶対嫌いになれません。なれないんですよ!!」
彼女は満面の笑顔を浮かべた。僕はそれに励まされるかのように一すくいのハチミツを口に運ぶ。
広がる優しい甘さと香り。
僕の大切な人と同じもの。
「ふっ・・・・・・」
僕の頬を涙が滑り落ち机に当たって弾けた。
あぁ、そうか・・・・・・
唐突に心に舞い降りた答え。
同じだからこそ、こんなにも愛しくて仕方がないんだ―
僕の体を抱きしめるかのように、甘い香りが辺りを包み込んでいた。
***
「くすくす。」
「・・・・・・」
くそぉ、僕の人生最大の汚点だ。年下のしかも女の子の前で、子どもみたいに号泣するなんて。やっぱり今日はついていない日なのかもしれない。
「ふふふ、お客さんも素直じゃないんだから。初めからハチミツが大好きだって言えばいいのに。」
苦笑いを漏らす女の子。僕はそれが気にくわなくて、余計苦虫を噛み潰したような顔になる。まあ、半分以上はてれが含まれていたんだけど。
「・・・・・・どうしてハチミツが大好きだなんていえるんだよ。僕はそんなこと一言も言ってないじゃないか。」
これはささやかな僕の抵抗だ。年下の女の子に言われっぱなしでは、本当にお兄さんの威厳にかかわる。
「ふふふ、お客さん気がつきませんでした?」
「???」
彼女は悪戯っぽい瞳を僕に見せて微笑んだ。けれど何を言われたのかよく分からない。
「このお店の、な・ま・え。」
「ビー・スタック・オン・ハニー?」
それがどうしたというのだろう?まあ、少し変わった名前だとは思ったけどね。
「これって『ハチミツ大好き!!』って意味があるんですよぉ?」
「???だから?」
「だからぁー、このお店はハチミツが大好きな人しか入れないんです。そうじゃないと入ろうとしても弾き飛ばされちゃうんですよ。」
こともなげに告げられた台詞。僕はポカンと口を開けた。そんなバカな!!
「だからお客さんがお店に入れた時点で、私にはお客さんがハチミツを大好きなことがわかっちゃってたんですよね。」
彼女は晴れやかに笑った。それはあまりにも真実味にかける話だったけれど、それもありかもしれないなんて僕は思う。
やけに大人びた不思議な女の子と、客を選別する不思議なお店。そしてなにより記憶を呼び戻す不思議なハチミツ。
僕はもう少しこの居心地のいい空間にいたいと思った。
ついていない日を努めて気にしないよう努力していた僕なんだから、これくらいの我が儘は許されますよね、神様?