黒レインボー ~カメレオンはただそこに~
お久ブロッコリーの更新。
どろりっちな心のカメレオンの話
これって何色だろう?
私の目の前には、それはそれは〝美しい情景〟と噂高い光景が広がっていた。山の上に私は立ち尽くしている。雨風に晒されても猛々しくそびえ立つ岩肌の生命力。底には湖が広がっている。それはまるで太陽の光を反射した巨大な鏡。脇にはこれでもかと首を伸ばして、私の顔を伺う向日葵がある。
一番綺麗な色って何だろう?
びゅう、と風が私の頬を撫でた。私は今、ここの地方では一番高い山の頂きで立ち尽くしている。太陽が出ていれば、この時期では脳天を焼くような熱を感じただろう。しかし、今日は曇っていて、梅雨のような蒸し暑さに私は粘るような汗をかいていた。
色が見えない。わからない。
〝美しい情景〟と皆はいうけれど、私にはどうしても色をそこに見出すことができなかった。赤土の大地に、蒼の湖。向日葵の黄色。それが絶景であると有名な場所なはずなのだが。私には土は土色をしているし、湖は魚色をしているし、向日葵は花の色をしていた。
自分のなりたい色が、見つからない。
絶望が頭から足の先まで堕ちてくる。私は〝カメレオン色〟をした私自身の掌を見た。
私、龍の民<イツァナム>カメレオン族である男、アル=クレーは、未だ彷徨っているのだった。
*****
僕らの住んでいる“龍の島”と、“人の島”は、二つ合わさって“アザトホール”と呼ばれている。広大な海に二つの島。そこには異なる宗教が存在していた。それにより誤解が誤解を生み、気が遠くなるほどの過去から戦争を繰り返している。その宗教での最大の論点は、このアザトホール含め全ての世界を統べる最高神の“容姿”についてだった。
動物の姿である龍<イツァナム>の姿であるのか、人間の姿である人<イシュルタ>の姿であるのか。お互い自分達の姿こそが神の末裔だと主張するのだ。主張することをやめた方が、下位民族として己の存在を認めなければならないからである。
かくして戦争は繰り返されている。海を挟んで存在している二つの島は、主に海戦と空戦で争い続けていた。お互いが島にいる民衆を巻き込まないために編み出した方法だ。兵は国の正義を信じて進む。進み続ける。相手を敵と信じ続けて、傷つけ続けるのだ。
*****
「クレー、お前は一体何が書きたいんだ?」
「…………」
小洒落た老眼鏡で、私のスケッチブックを見つめるのは私の父だ。重厚な雰囲気を身に纏っている彼に評価を待つ時間ほど、嫌だと思うときはない。粘り気のある灰色の膜が私の呼吸を妨げようとしている。彼の質問に、私は答える自信がなかった。言ってしまえば、それは不利な状況を招いてしまうと思ったからだ。最期の審判を待つ罪人のように、ただ彼を見つめるのだった。
「私は、模写をしろと言ったはずだ。お前は分析能力が著しく欠けている。何度言ったらわかるんだ?」
私は、ひたすら彼の言葉を頭の中で反芻する。それは私を今以上に大きくする言葉だと信じているからだ。どんなに苦しくても、受け止めなければ。
「それにこの色使いはなんだ? 独創性でも出そうとしたか。それはあまりにも稚拙だ。姉のようにインパクトのあるものは書ければまだ何も言わない。だが、お前にはそれもない」
アルという苗字を戴いた私の家系は父と母、そして三人の子で成り立っている。兄と姉、そして私だ。父は幼い頃から画家を目指していた。だが経済的な問題で働かなければならず、泣く泣く筆を置いた人なのだ。だからこそ、私達兄弟を画家にしようと精一杯努力をしてくれている。そして兄と姉は――――大成した。
兄は、写実的な絵を忠実に書き表す画家へ進化を遂げた。主に建物を書くのが得意で、自分の身体の色もコンクリートを連想させる黒と紺を混ぜた色をしていた。
姉は、荒削りではあるが非常に衝撃的な絵を書く画家へ進化を遂げた。見る者の頭に叩きつけるかのような攻撃的な色使いが話題を呼んだ。今では自分の色も、彼女が愛してやまないとショッキング・ピンクの色をしている。
その二人は“カメレオン族のアル兄弟”として芸術の世界で名高いものとなっている。
私は。
アルの血を継いだはずの私には、何もない。
「お前は一体何が書きたい。何を成したい? それがないのなら画家なんてなろうと思うな」
父の言葉が胸に刺さる。言い返したいけれど、これだと思う自分の意見が口から出てこなかった。すぐに論破をされてしまう。そんな気さえ起こってしまったのだった。
*****
そんな時を過ごし、私はずっと生きてきた。もう家を飛び出してから二十年は経つのではないだろうか。父の言葉を払拭できないまま、父は重い病に倒れこの世を後にした。まわりから『働きに出ないのか』と尋ねられることは山ほどあった。だが、私は今も絵を描き続けている。その行為が自分を雁字搦めにしているにも関わらず。
自分が探し求めている“何か”を見つけ出すため、様々なところに出向いては絵を描いていたのだった。
死んだような毎日を過ごしている時だ。考え事に気をとられ、ろくにまわりも見ずに歩いていたところ、なにやら暗い路地裏に入ってしまったのだった。ハッとして元の道に帰ろうとしたときに、一つの壁に目が入った。それは人<イシュルタ>が龍<イツァナム>が睨み合う姿だった。それは壁一面に描かれていて、落書きにしては大きいスケールのものだ。しかし、その大きさよりも圧倒的な迫力があって、その二対の神様に挟まれ、私は思わず息を呑んでしまった。
「おう、なんか俺の絵に文句あっか? スプレーかけんぞ」
「……えぇ!? い、いやっそんなつもりじゃ……」
路地裏の闇から現れたのは、丸坊主の人<イシュルタ>の民だった。その丸坊主には蜘蛛の巣のような刺青が彫られている。そして黒のタンクトップから分厚い腕の筋肉が生えている。そして雑巾のようにボロボロになったズボンを腰で履いている。
ガラが悪い。あまりにも危険そうな男だ。しかも、人の民だ。私が龍の民である以上、敵対関係になるのは必至である。
こ、殺される……!
私はせめて手に持っていた画材は守ろうと、それを背中に隠しゆっくりと後ずさる。
「……ハハハハハ!!」
すると、そのガラの悪い男は豪快に笑ったのだった。私はその笑い声にまた驚いてしまう。
「お前、背中に宝物一生懸命隠してっけど、お前自体が透明になって丸見えになってっぜ?」
彼のその言葉に私はハッとする。カメレオン族は基本的に、下しか服を着ない。半裸の状態で私はいつの間にか自分の身を守るために透明になっていたらしく、大事な画材が透明で透けて丸見えだったらしい。
「まぁ人間、命より惜しいものなどないってことさ。最後に選ぶのは自分の命。それは決して悪いことじゃない。ごく普通の生き物の本能さ」
彼はそう言って、私を見る。やっといつも通りの緑が戻ってきたところで、彼はにやりと笑って自分のことを親指で指差した。
「俺は、ダムだ。本当の名前ではないんだけどな。お前はなんていうんだ?」
「私の名は……クレー」
「クレーか! カメレオン一族って言えばあの兄弟が画家で有名だよな。もしかしてその兄貴の方か!?」
「……いえ、その絵はダムさんが書いたものなのですか?」
「おお、てか俺のことはダムでいいぞ。これはグラフィティっていうんだ。人によっては、エアロゾールアートともいうんだけどな。スプレーとかフェルトペンを使って、壁を洒落込む遊びさ」
そうしてダムさんが指さした視界の先が、暗闇を火で灯されたかのように開けた。そこには争っている人の民と龍の民の姿が描かれていた。それは残虐で、冒涜的で、それでいてリアルだった。今にも剣を交あう音が聞こえてきそうだ。中でも印象的なのは、人の民と龍の民の、両者の亡骸で作られた山に立ち、拳を突き上げているウサギの姿だった。ウサギといっても、龍の民であるウサギ族のものだ。ゴーグルをつけ、口の端を歪めて笑っている。
「俺はこの壁に“歴史”を刻んでいきたいのさ」
ダムさんは私が絵に対して見入っていることに、少なくとも悪い気はしなかったのだろう。にやりと笑ってそう言った。
「歴史……ですか」
「そう。ただありのままに起こったことをここに描き、記すのさ。そこに立ってるウサギ族の龍の民、かっけーだろ? アイツは義軍の大将でな。俺も前はそこのメンバーだったんだけどよ、いってることもやってることも滅茶苦茶なんだけどさ。なんかこう、魂を鷲掴みにするような魅力がある奴なんだよな。そいつにここで絵を描けって言われたんだ。最初はそいつに言われて始めたんだ」
「そんな民が……いるのですか」
「あぁ。まぁこの話したら日が明けちまうからな。俺のことばっか話してても仕方ねーわ。とりあえずお前のことを教えろや」
ダムさんはそう言って、私のことをじぃっと見る。しばらくしてから私の言葉をずっと待っているということがわかった。それがわかった途端に、何から話せばいいのかわからず口をパクパクさせた。長い舌が邪魔をして唾を飲み込むこともままならない。
そういえば、私が必要最低限の会話以外でこんなに誰かに何かを伝えようとしているのは久しぶりだ。
「……お前さんはそんだけ俺よりも口でかいのに喋れねぇのか?」
呆れたように言うダムさんの言葉に、私は焦る。また失望されてしまう。せっかく自分に興味を持ってくれた人を逃してしまう。
「まぁ、じゃあせっかく良いとこの画家さんなら、絵で語ってもらおうじゃないか。なんかここに描けよ」
その時、ダムさんは閃いたというような表情をして私にこう言ったのだった。そして指差した先は高くそびえたつ使われていないであろう店のシャッターだ。同時にダムさんは画材なのであろうスプレーの束をこちらに投げてきたのだった。嗅ぐからに身体に悪そうな有機溶剤の臭いが、ツンと鼻腔を刺激する。もちろんこんなスプレーを用いて絵を描くことなどしたことがない。しかし、私の絵を見てくれる人なんてそうそういない。私はそのスプレーをゆっくり拾いあげたのだった。
*****
「……なんとなくお前のことはよくわかったよ」
ダムさんの声は、平坦なものだ。私はできあがった作品を見ながらダムさんの声を聞いていた。少なくとも、感嘆の声ではなかった。私が書いたものはライオンがこちらに向かって噛みついてこようとする姿だった。不慣れなスプレーの割には、リアルにかっこよく描けたつもりではいるのだが。
「……どう、ですか?」
私は恐る恐るダムさんに感想を尋ねる。彼にはどう見えているのだろう。
「どうもこうもねぇな。この絵からわかったことは、お前のくだんない虚栄心だ」
ダムさんの声は冷ややかだ。その言葉の冷たさに水をかけられたかのような悪寒を感じた。そしてそれとは逆に目頭がじわりと熱くなった。あれだけ技術を磨いてきたのに、自分の思うような評価がもらえない。私の努力が、そんなゴロツキにわかるはずないのだ――――そんな的の外れた怒りさえこみあげてきた。
「帰りな。お前とはどうも気が合わなそうだ。そんなよわっちいライオンを描くようなやつはな」
私はふるふると震え、拳を握りしめた。自分がそれなりに気に入った作品をそのように言われるのは腹が立った。もうこれ以上、身元もよくわからないような男と話す必要はなかった。
「……私と話してくれてありがとうございました。では、さようなら」
だが、それを表情に出すのは自尊心が許さなかった。涼しい顔のまま私は一礼してダムさんと別れを告げた。一瞬だけダムさんに襲われないか不安になったが、そのようなこともなく何事もなく、先ほどのことが嘘のように暗い路地裏を抜けた。開けたいつも通りの街並みを見て、戻ってきたというような気分になる。
しかし、全くすがすがしい気持ちにはなかなかった。ダムさんから言われた言葉が頭の中にこだましているように、何回も流れていた。それと芋づるのようにズルズルと過去に父から言われ続けた言葉が再び掘り出されてきた。
なんで私は絵を描き続けているのだろう。
背中に隠そうとしたが、身体が透明になってしまって見えてしまった画材。絵を描くことよりも命を優先した私。それでも命を支配続ける絵への探求。
頭が痛い。
さっさと安価なホテルにでも入って寝てしまおう。今は美味しいものや美しいものを見ても何も感じないに違いない。私はフラフラと町を歩いていった。
*****
「さて、クレーちゃんよぉ。状況を説明してもらおうか」
「…………」
私は今、別れたはずのダムさんの目の前にいる。私とダムさんを見下ろすように私が生み出した真っ黒の狼が睨んでいる。その狼は元から描いてあった人<イシュルタ>と龍<イツァナム>を食い尽くしていたのだった。そう、怒りが収まらなかった私はダムさんの絵を汚そうとしたのだ。そしてその現場を本人に見られてしまったのだ。
もうこの路地裏の闇から逃れることはできないだろう。ここで殺されるにきまってる。
私はダムさんの目を直視することさえできなかった。ダムさんはゆっくりと薄汚れた絵の描いてある壁に触れる。そして、少し可笑しそうに口の端を上にあげたのだった。
「とある画家は好きなだけ自分の作品に触れ、汚せばいい。聖なるものは汚されることが前提にあるからという名言を吐いたんだってな……俺にゃその境地にはまだ立てなそうだな」
ダムさんは絵のほうに向けられていた視線を私に向けた。その瞳をやはり見つめ返す勇気はなかった。
「正直にお前にはこの蜘蛛の巣ヘッドがエクスプロードするくらいにはキレているわけなんだけどな。だけどな、この狼、嫌いじゃないぜ。全てを飲み込む北欧神話のフェンリルみたいだ。怒りと羞恥の念が、全てを食い尽くす。悪くないじゃねぇか、これが本来のお前の姿だろ」
私はそれを聞いて初めて、自分の身体の至るところに黒いスプレーの跡が残っているのがわかった。それだけ夢中になって人の作品を汚していたのだ。
これこそが、本当の自分なのか。
「お前はそのきったねぇ自分を隠すために、今まで感情を殺して面白くもねぇ作品を描いていたんだろ? それで好かれたいとでも思ってたんだろ? 馬鹿な考え方さ。好かれる作品を作って認められるんじゃなくてさ、自分が描きたいものを描いて自然と好かれ、認められていくものだろ」
「私は……、父の誇らしげな兄と姉を見て、羨ましいと思った。妬ましかった。悔しかった! でも何を描いても一言で一蹴された。何回も向いていないから画家をやめろと言われた……それでも画家をやめなかった理由は……それはただ絵を描くのが好きだったからではなくて」
私は言葉が漏れ出すままにダムさんに言った。声がワナワナと震えている。感情の赴くままに言おうとするのが言葉がつっかかる。これを言ったら相手にどう思われるか。頭がこれ以上は危ないと警報を鳴らしている。でも、もうどうでもよかった。ダムさんに嫌われようが、どうなろうが私のしったことではなかった。
「私が絵で大成し、父や兄、姉のことをぎゃふんと言わせたかった。長い舌を巻いてしまうくらいに、何も言えなくなってしまうに強烈なものを見せてやりたかった!」
ダムさんは私の言葉に一瞬だけ目を丸くしてから、すっと目を細めた。
「何過去形にしてんだ。まだまだこれからだろ。……グラフティの世界は絵に絵を上書きすることが認められてるのは、その上書きした奴のほうが知名度がある場合のみなんだ」
そして人の作品を汚すために買った色とりどりのスプレーの束を拾い上げ私に手渡した。
「だから俺なんてさっさと超えてしまえ。ぐっちゃぐちゃな汚ねぇ感情の怪物でアル一族への復讐してやれ。それをほくそ笑んで俺は見ててやるよ。それまでここから出すことを許さねぇ」
ダムさんはそう言ってにやりと笑う。それは美味しい獲物が巣に掛かった蜘蛛の笑みだった。
「まぁまずお前には酒を教えてやる。あと女をな。お前は感情のストッパーを外すところから始めるべきさ。これはお前とお前との戦いさ。丸裸のクレーを受け入れるための戦いだ。逃げるなら今のうちだぜ?」
私はその言葉に恐れを感じなかった。自分の胸に手を当てて笑って首を縦に振って見せた。その自分の身体からは様々な色が写し出されていくような気がした。
*****
それから何年経ったころだろうか。
人<イシュルタ>と龍<イツァナム>の争いが幕を閉じるときがきた。
暁の名と夕日の名を戴いた、狼男の双子が自然を神の化身として信仰する“マール”という国を作り出したのだった。そしてそれを予言していた画家がいたと話題になったのだ。
ネズミの死骸が赤くぼんやりと光る路地裏に君臨している、人と龍を食い荒らす狼の姿。その姿を生み出した一人のカメレオンが名を馳せた。知るきっかけがその狼ではあるが、それを見た途端に密度の濃いそのカメレオンの世界観に皆が虜となった。そのカメレオンの姿はありとあらゆる色が混ざり合った黒に近い色をしていて、身体にはスプレーの様々な色が写っていた。それは混沌の中にほとばしる虹のようで、その色は人の民、龍の民など関係なくファッションとして流行になった。
カメレオン、アル=クレーはその頃には周りのことさえ気にもせずに、あまりにも楽しそうに絵を描き続けていたそうだ――――。
END