96.母ちゃんの小説 第46話
プスンプスン。
エンジンの音が変わってはじめてガソリンが切れかけているのに気がついた。
「ちくしょう、ガス欠か」
男はバイクのスピードを落とし、沿道を見渡した。
皮肉なもので、ガス欠に気づく前にはいくつものガソリンスタンドを通り過ぎたが、こうやって必要に迫られたときには一向に見えてこない。
こんなことなら、外苑通りだろうが、環八だろうが給油しとけばよかったんだ。
割高な都心のガソリンスタンドを避けて地元に戻ってから入れるよう心がけているが、ここまで切羽詰まっていたら話は別だ。
もうすぐ県道だ。いったん県道に入ったらこんな夜更けに営業しているスタンドを見つけるのはさらに難しくなる。
まいったな。
来た道を引き返そうとしたちょうどそのとき、前方にライトが見えた。
それは一軒のガソリンスタンドだった。
助かった。
男は迷わずバイクで乗り入れた。
不思議なことに、ガソリンスタンドは遠目にはライトが煌々として活気づいて見えたが、近づくと蛍光灯がいくつか切れ、またいくつかは弱々しい点滅を繰り返していた。建物の外壁には某大手チェーンであることを示す赤いフェニックスのシンボルが大きく描かれている。しかし、見回しても従業員はおろか人の気配すらない。
セルフ給油所なのか。
男はバイクを給油機わきに止めるとヘルメットを脱いだ。
暑いな。
こんな真夜中だってのに、ちっとも気温が下がりゃしない。
革手袋をはめた手で顔をこすった。
給油機はノズルとメーターが付いたごくありきたりなもので「セルフ」のサインは出ていない。
店員はトイレにでも行ってるのか。いないんなら、勝手に入れさせてもらうぞ。
早く家に帰ろうという焦りが男の良心を完全に消し去っていた。
男はキーを差し込み給油キャップを外した。
『何処へ行く』
背後から声がして男は硬直した。
「あ、あの、誰もいないと思ったので、先に入れさせてもらってから払おうと」
尻に手を当て財布の所在を確認してから男は振り向いた。
五メートルほど離れたところに人影があった。
しかし、ちょうど切れた蛍光灯の真下で顔ははっきり見えない。
「払いますから、ちゃんと。あ、なら、入れてもらえませんか。私、実はセルフの給油は苦手なんですよ」
男は人影に向かって笑いかけた。
高圧的な態度なのは職人肌の店員なのだろう。このテの人間はこちらが下手に出て顔を立てれば仕事はきっちりしてくれるものだ。壁のフェニックスがついたつなぎを着ていないのは、すでに着替えて閉店準備をしていたからだ。どんなに目を凝らしてもはっきり見えてこないその格好も自分がいいように理由づけた。
『何処へ行くと聞いているのだ』
再び声がした。
あれ。
声は聞こえ、言っていることは頭で理解できたが、声の特徴を覚えていない。
すぐ目の前で聞いたはずなのに、男なのか女なのか、若いのか年老いているのかも分からない。
それ以前に、大声だったかささやき声だったかも不確かだ。
「どこへって。家に帰るんですよ」
戸惑いを人影に悟られないよう、取り敢えず質問に答えてみた。
長時間バイクに乗っていて疲れているのだ、きっと。
『それに乗るのだな』
「え、ええ。でも、ガス欠になっちゃって。だからここに寄ったんです」
『それで走るのだな』
「はい」
聞かれているうちに苛立ちがつのってきた。
こっちは早く家に帰りたいんだ。
どうしてそんな分かりきったことを聞くんだ。
それになんだ、その高飛車な口の利きかたは。
あれ。
男は気づいた。
なぜ相手の声の特徴が分からないかを。
自分は言葉を口にだして喋っているが、この人影が声を出しているかも定かでない。
それ以前に。
これは人間なのか?
『なら、走れ』
男の手が勝手に動き、給油を始めた。
「ぅ、うわぁ…」
メーターが回る。
止めようとしても、手が言うことを聞かない。
「もう満タンに、なって、いっぱい入ってますっ」
せり上がったガソリンが給油口で黒く光り、だらだらとあふれ出した。
たちまち辺りにガソリンの刺激臭が広がる。
『いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい』
「手がっ。ガス、止めてくださいっ」
『止める、止めない、走る、走る、止まる、止まらない、走る、走る、止まれ、止まれない、走る、走る』
「助けてっ」
『助ける、助けない、走る、走る』
ようやく給油機が止まった。
手がぬらぬらする。
バイクの車体どころか下半身までガソリンで濡れそぼっていた。
これを何とかしないと。
下手に引火でもしたら…。
しかし、手は先ほどと反対の動作で給油キャップを締め、元通りにした。
「でも、これ、ガソリンがまだそこらじゅうに…」
『走れ』
「拭かせてください。このまま走ったら、爆発するっ」
男は人影に懇願した。
理由など分からない。だが、直感で「それ」が自分を動かしていると知った。
『走る、爆発、走る、爆発、走る、爆発、見たい、見たい、見たい、見たい』
声でない声が心なしか笑ったようだった。
ノズルを給油機に戻すと、男はバイクのエンジンをスタートさせた。
「やだ、まだ死にたくない」
うわ言に似たつぶやきを残し、バイクはガソリンスタンドを出て走りだした。
男が来た方向へ。
都心へ。




