79.母ちゃんの小説 第38話
ネオンが瞬いている。
赤や、黄色や、緑や、青の。
聞こえるのは、遥か遠くの喧騒と酔客を狩るタクシーのエンジン音。
そして、ときおり響くハイヒールのカツカツという侘しいリズム。
ストリップやのぞき部屋…猥雑な性を売り物にする場所はサービスの受け手である客がいなくなってしまうとどこか滑稽ですらある。
異臭が漂っている。アルコールと、胃の内容物と、脂粉と、ローションが混じり合った、隠しようのない背徳感に満ちた臭いが。
パトロール中の二人組の警官とすれ違う。職務への忠誠心と怠惰への憧れ、早く家に帰って眠りたいという欲求が無表情の制服の下で点滅している。
涼はルビー色の目を細めた。
彼は無人の東京タワーにいた。遊覧できる時間はとっくに過ぎていたが、警備員も警報装置も涼の姿にまったく気づいていないようだった。
「外もこのぐらい涼しいといいんだが」
普通の人間なら鳥肌を立てて震え上がるほど冷房を効かせた展望台で涼は気持よさそうに薄い色の髪をかき上げた。
「「シマ」の氷室に比べれば格段落ちるが」
涼は一人だった。サングラスを外して警備員を一瞬のうちに支配下に置き、展望台に上がったのだった。
最初からこうしていればよかったのかもしれない。
涼はここから意識を集中させて新宿を「見て」いた。但し、直接肉眼で直接見ることは感度の高い島田のソナーには危険過ぎるため「中継」を受けることにした。ネオンやけばけばしい看板、盛り場特有の異臭は、実際に街を歩く雄司と遙から送られてくるものだった。
彼らの知覚を通して涼は街を見、気の分布を調べていた。
午前三時。
東京は束の間の眠りにつこうとしている。
警官はかなり長い間——といっても、三秒ほどだがーー茶褐色の髪の長身の男を見つめていた。その間彼の脳裏ではストックされていた凶悪犯の顔写真がフラッシュカードのように高速で浮かんでは消えた。
『ちぇっ、人を犯罪者扱いしやがって』
『照会写真には入ってなかったじゃないか』
『俺みたいなキュートな悪人がいるワケないでしょ』
雄司は笑いにむせ、笑われたと思った警官はあからさまに不快そうな顔つきで雄司を睨んだが、職務質問はしなかった。
新宿歌舞伎町二丁目。男二人がこの時間に肩を並べて歩いていても不審に思う者は誰もいない。
「漫才しにわざわざ歌舞伎町まで来たんじゃないぞ」
「へいへい。お仕事、ですな」
遙は白い歯をむき出した。
深夜を過ぎ朝に近いというのに、気温は三十度を下ろうとしない。日中の熱気がなおも地表から立ち上ってくるようである。そして多くの建物が冷房をつけたままにしており、そこから吐き出される熱気は街の温度をさらに何度か上げている。
いやな熱気だ。
雄司は手の甲で頬をぬぐった。
この暑さはあの日を思い出させる。
都内で通り魔が頻発したあの日を。
涼の忠告に従って二人は街をただ歩くだけにし、敢えて気をキャッチしようとはしていない。気を探り出し分析するのは、彼方でモニターを続ける涼の役目である。
仕事明けらしい、二十歳をちょっと出たぐらいの娘が通りかかった。胸を強調した黒のドレスといい、歳に合わないブランド物の高価なハンドバッグといい、娘が「まっとうな仕事」についていないのは明白である。
ドレスの色に負けないくらい目のまわりを塗った娘は遙の茶褐色の髪に目をやり、アロハシャツの下の引き締まった筋肉に素早く目を走らせた。実際よりふっくらと見せるために輪郭をはみ出すように赤く塗った唇が「おぅ」と言うように丸く開いた。
「…楽しむには遅すぎるんじゃない」
すれ違いざまに挑むような目つきで言った。
遙の「影島」のアンテナが反応するのが横にいる雄司には見て取れた。
指先でぐい、とサングラスを押し下げ、遙は薄茶の目で娘を見つめた。
「そっちこそ、家に帰るには早すぎるんじゃないか」
瞳の奥底から妖しい光が漏れ出した。
薄茶が抜け、緑色に取って代わる。
「街はまだまだ楽しいぜ」
黒く縁取られた娘の目が潤み、不意にとろんとした表情になった。
「——あぁ、暑いわねぇ」
娘はそう言うとうるさそうに髪を振り、紅い唇を舌で舐めた。厚く塗ったファンデーションで顔は白いままだが、耳朶が上気して赤く火照っている。
「ほんとに」
緑の光が強まった。
娘は片手でドレスのストラップを弄っている。ストラップは肩から今にも落ちそうに見える。
「おい、遙」
雄司は遙の肩をつかんだ。
「何をやってるんだ。ナンパしてる場合じゃないだろう」
遙は娘を見つめたままで雄司を押しとどめた。
「まあ見ててくれよ」
手を伸ばすと、娘のずり落ちそうなストラップを元の位置に戻してやった。




