72.母ちゃんの小説 第35話
三人は夜の霞ヶ関にいた。昼間は官僚やエリートビジネスマンが行き交うこの辺りも真夜中にはパトロールの警官がときどき現れるだけだ。
「夜は全くのゴーストタウンだな、これじゃ」
遙は大きく伸びをした。彼は五分ほど前に一人の警官に職務質問を受けたばかりだった。
警官はまず、いつもなら誰もいないような場所に三人も男がいることを訝しみ、次に島田の金褐色の髪と白い肌を見て、道に迷った外国人観光客だと思ったようだった。しかし、彼が島田に向かっておっかなびっくり英語で話しかけた途端、遙が大笑いしたため、彼を血祭りにあけることに決めた。
しかし、職務質問はしたものの、その記録は残っていない。警官と遙の問答が始まるなり、雄司が警官の意識を慰撫して彼を催眠状態に置きこの遭遇の記憶一切を抹消してしまったためである。
「もったいないよな。建物を二交代制で昼夜使えば経費が浮くのにな」
「一部の民間企業なら可能かもしれないが、治安や機密を考えたら難しいだろう」
雄司はそう言うと周囲のビルを仰ぎ見た。人気はなくなったとはいえ、ビルのあちこちにはまだ灯がついている。
「未練が残った気がずいぶん漂ってますね。これじゃ、まるで戦場跡だ」
島田涼はサングラスを外し、ルビーの眼で虚空を凝視した。
「…表沙汰にはあまりなっていないでしょうが、結構いますよ、自殺者も」
確かに夜の霞ヶ関は熱帯夜でも背筋に冷気が忍び寄るのが分かる。
「何か特に感じるものは」
雄司の問いに涼は目を細めた。
涼の、父親譲りは紅い瞳だけではない。彼にも広域の感応能力がある。
今、彼は広域でなく、霞ヶ関という小さなポイントに自らの気を密集させ、あらゆる異常を探査しようとしている。彼自身が超の付く高感度ソナーと化しているのだ。
「…裏金献金、…蒸発、左遷、…一人過労で脳梗塞直前だ…それから離婚の危機…ふぅ」
涼は息を吐いた。白いシルエットがよろめく。
「大丈夫か」
「ええ。都会は気の乱反射が多くて、実際以上の量の気がまともに僕にぶつかってくるんです。でも、雄司さんを襲った連中らしい気配は何も」
「複数の邪気に満ちた意識なんだ。感じないか」
紅い瞳が闇を透かすように見た。
「いいえ。単発の邪気の弱い意識はいくらかありますが、どれも誰かを襲うほどの覇気はないですね」
「大田区、港区、中央区、千代田区と来たんだぜ。ここもダメなんて。いいかげん、俺は疲れたよ」
遙は首を振って骨を鳴らした。
「どうして真っ先に一番怪しい新宿から行かないんだ」
雄司はサングラスをずらし、白い瞳を見せた。
「…分かってるだろう、あの警告のすごさを。僕たちは気を飛ばしかけただけで殺られそうになったんだぞ。そんなところに島田の感度で行ったらひとたまりもない」
「力でひねりつぶされるような殺られかただけは避けたいですね」
紅い瞳をサングラスで覆いながら涼もうなずいた。
「ちくしょう、なんて夜だ」
ぶつくさ言う遙の髪を、どこからともなく吹いてきた一陣の風があおった。
茶褐色の髪を逆立て、夜の空へと吹き流す。
「やはり行くしかないでしょうね」
サングラスの奥で赤い光が瞬いた。
「新宿へ」
雄司はうなずいた。
「行くなら、夜明けの直前、夜の人間たちが街を離れるころが一番だろう。気のトーンが落ちて邪気をキャッチしやすくなるはずだ」
「一番つまらない時間だがな」
遙はそう言うと新宿の方角を仰ぎ見た。




