67.家族で外食(後編)
ある夏の夜「俺」一家は外でチープな食事をした。
その続きはこちら〜。
急に、鼻の奥のほう(鼻腔というらしい)がくっついて、においがそれ以上進まないようにブロックしているような感じになった。
「何かよからぬものだ」と、知覚より先に嗅覚が察知し、事前ににおいを遮断しているのだ。
俺はにおいを通すことにした。
すると、それは来た。
畳の臭いをツンと来るくらい凝縮させたもの。
たぶん保存料だと思う、安っぽいジャムパンの、パンの部分の酸っぱいにおい。
脂の臭い。ちゃんと髪を洗っていない頭の。
オッサンのひどい口臭。よく混雑した車内で感じる。
生ゴミの臭い。魚の骨やら皮やらを三角コーナーに放置したような。
いや。生ゴミじゃないかもしれない。
俺はさっき食べたばかりのハンバーガーとフライドポテトとス○ラ○トがたちまち胃からせり上がってくるのを感じた。
『…ねぇ…母さん』
俺は前方にいる母ちゃんを呼んだ。
喉がぐぶぐぶ鳴って、声がまともに出ない。
『…母さん』
二度目に呼んで、やっと気づいた母ちゃんが振り向いた。
俺と目が合っても、うなずきも首を振りもしない。
しかし、その顔を見て、俺は事態を完全に把握した。
『お父さん』
母ちゃんが父ちゃんに呼びかけた。
俺たちは電柱の街路灯の下、先に歩いていた父ちゃんはすでにアパートを囲むブロック塀の前に到着している。
『一階の、電気がついてカーテンが半分開いてる部屋あるでしょ。ちょっとそこの中をのぞいてみて』
ブロック塀は目隠し用で、母ちゃんの背丈ぐらいの高さがある。
『なんでだ。「俺」にやらせりゃいいだろ』
当然のように父ちゃんは拒否した。
『お父さん、お願いします』
言葉は丁寧だが、母ちゃんの声音には猛獣使いのムチがぴしりと地面を叩くような凄みがあった。
父ちゃんは口の中で『ちっ、しょうがねぇな』とつぶやくと顔を上げ、ブロック塀に手をついて伸びをし、中をのぞき込んだ。
『その、角の部屋よ。他の部屋はのぞかないようにして』
『のぞけ、のぞくな、ってイチイチうるせぇな。分かってるよ』
喉のところまで達した晩メシを何とか胃に送り返して涙目になっている俺にはグレーのスーツ姿の父ちゃんはブロック塀と一体化して見えた。
『あれか? ジイさんだろ、ここに住んでるの』
しばらくして父ちゃんの声がした。
『家にいるぞ。今、台所のほうに歩いて行った』
母ちゃんが息を呑む音がした。
『どんな感じで歩いてますか?』
『どんな感じ? 逆立ちで、とか言えばいいのか? 残念だが、全然おもしろくない歩きかただ。今、台所から戻ってきた。…あれ、また台所に行った。何だこりゃ。ジイさん、呆けてるのか? さっきから同じところ、行ったり来たりしてるぞ。ぐるぐるぐるぐる、ジイさん、一体、何やってんだ?』
俺と母ちゃんは顔を見合わせて父ちゃんの「実況」を聞いていた。
そして、母ちゃんは父ちゃんの言葉が終わるとぽつんと言った。
『お父さん。ここのおじいさんはね、足が不自由で、杖なしじゃほとんど歩けないの』
『何だと。おれがウソをついてると言うのか』
父ちゃんが憤然と俺たちのところに来て、俺の腕をつかんだ。
『杖なんか使ってないぞ。ほらお前もこっち来て見てみろ』
強引にブロック塀の前に連れて来られた俺は仕方なくつま先立ちをして、今にも窓から誰かが飛び出してくるのでは、という恐怖に怯えながら父ちゃんが見ていた方角をのぞいた。後ろでは、俺たちより頭ひとつは低い母ちゃんが何とか塀の向こうを見ようとジャンプを繰り返し、その度にヒールがアスファルトに当たって、カツ、カツ、と音を立てている。
『な?』
『…』
『今、ジイさんが歩いて来てるだろ?』
俺には見えなかった。
よろよろとブロック塀から離れると、俺は母ちゃんに抱きついた。
腰を屈めてどうにか母ちゃんの高さに合わせ、そのワンピースの襟元に顔をうずめる。
『「俺」だいじょうぶ?』
返事をする余裕もなく、俺は大きく息を吸い、息を吐いた。
先ほど感じた臭いの上に、今、感じることができる他のにおいをどんどん重ねていく。
車のシート、ケチャップ、オニオン、マスタード、フライドポテトの油、塩、ファンデーション、汗……母ちゃんの匂い。
求めていた匂いに行き当たると、俺は呼吸を早め、その匂いだけを頭の中で抽出し、何度も何度も反芻した。
母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん……。
嗅覚から呼び起こされた記憶が俺の時間を逆回しにする。
高校、中学、小学校、幼稚園、保育所、家のベビーベッド、病院。
初めて抱き上げられ、嗅いだときから全く変わらない匂いだ。
母ちゃん。
気がつくと、俺は現在に戻り、普通に呼吸していた。
『吐きそう?』
『いや。もう、落ち着いてきた』
『お前、いつまでやってんだ。気色悪い』
そして俺は父ちゃんに首根っこをつかまれ、母ちゃんから引き剥がされた。
それからの母ちゃんの行動は早かった。
携帯でこの地区の民生委員に連絡し、彼経由でアパートの大家に事情を知らせた上で警察に通報し、駆けつけた警察官に事情を説明した。
俺たちは老人がアパートで孤独死しているのを「偶然」発見したのだった。
『家族でご飯を食べた帰りにちょっと涼んで行こうってその辺をぶらぶら歩いてたんです。そうしたら…』
この地区を担当している中年の警察官は母ちゃんとは町内会を通して顔見知りだったようで、実際に部屋に入って遺体を見なかった俺たちは、おざなりの調書作成に付き合っただけで開放された。
後で菓子折り持ってお礼に来た大家さんによると、死亡推定時刻はその日の午前中だったそうだ。
母ちゃんは毎朝、散歩と称して町内をパトロールしている。恐らくは、その人が亡くなったすぐ直後にそこを通って異臭に気づいたのだろう。
しかし、そのときには通報できなかった。
人が感じるほどの臭いはまだ全然広がっていなかったので。
だから夜、改めて確認に来たのだ。
念のために「視える人」父ちゃんを連れて。
だが、どうして俺まで?
『覚えた? あの臭い』
警察官から開放されて三人だけになったとき、母ちゃんがささやいた。
俺はうなずいた。
『うん。ってか、忘れたくても忘れられねぇわ』
臭いを思い出して軽くえずきそうになった俺を見て、母ちゃんはちょっとすまなそうな顔をした。
『見つけたらどうするか、やりかたは分かったでしょ。今度から、アンタもこうやって知らせなさいね』
『え』
サイレンの音を鳴らさずに来た救急車が俺たちのすぐそばに止まった。
『これからは一人暮らしのお年寄りも増えるし、もっとこういうことが多くなるから』
『…それ、俺がやらなきゃいけないことなの?』
救急車のてっぺんで点滅する赤いライトが暗がりにいる俺たちの顔を規則的に浮かび上がらせる。
『できれば、ね。犯罪がらみの事件や火事は危ないから、お母さんは絶対にアンタに関わってほしくない。だけど、こういう人助けなら、ぜひするべきだと思ってる』
パトカーや救急車を見て、近所に住む人たちがだんだん集まり始めていた。
『遺体の発見が遅れると、臭いがひどくなるだけじゃなくて、部屋を貸している大家さんや、隣に住んでる人たちにも大損害になる。それに遺族だって、なるたけ生前に近い状態でいてほしいんじゃないかな』
『さっきから聞いていれば、人助けとか言ってるが』
不意に父ちゃんが口を挟んだ。
『やりたかったらやる、やる気が出なきゃやらねぇ、ぐらいでいいとおれは思うぞ』
そう言うと、父ちゃんは救急隊員が押すストレッチャーを指さした。
『あの上にはな、前に死んだヤツがまだ乗ってるんだぜ。お前らには見えねぇだろうが。だが、おれはアイツらには言わねぇよ。言ったら怖がって毎度毎度おれに聞きに来ることになるからな』
俺は目を細めてストレッチャーの上の空間を凝視した。
でも、何も見えなかった。
『ま、お前が母さんのように人助けしなくても、別に構わんぞ。おれには関係ねぇことだし』
父ちゃんは指で自分の鼻を押してみせた。
『おれはニオイは全然分からないからな』
俺たちは車に向かって歩き出したが、駐車場まで半分も行かないうちに母ちゃんが歩けなくなった。
『無理してヒールの靴なんか履いてたところにジャンプなんかしちゃったから、足が痛くって』
『どうする?』
俺と父ちゃんは顔を見合わせた。
『お前が母さんの腕、持って、おれが足、持って運ぶってのはどうだ?』
『それじゃ、まるで死体の運搬。絶対に警察に職務質問されるって。じゃあさ』
俺は気は進まないものの、提案した。
『俺が母さんをおんぶしようか』
しかし、父ちゃんは速攻で廃案した。
『冗談じゃねぇ。誰が他の男に自分の女の尻を揉ませるかってんだ』
父ちゃん、それ、俺の母ちゃんです。
『おい「俺」お前、先にひとっ走りして、ここまで車、持ってこい。おれと母さんはここで待ってるから』
俺は父ちゃんに言われたとおり、車が駐めてあるメガネショップの駐車場まで走った。
15分ほどで、俺は二人が待つ辺りまで戻ってきた。
しかし。
遠目に寄り添う父ちゃんと母ちゃんを見て、俺は二つ手前の角で曲がり、元来た道を引き返した。
あの分なら、少し遅れて到着しても文句は言わないだろうな。
このまま町を一周してから再びピックアップに戻ろうと思ったが、俺は気が変わって目に入ったコンビニの駐車場に車を乗り入れた。
晩メシのとき、俺たちはデザートを食べなかった。
なので、アイスは俺からのおごりってことで。
ま、このように母ちゃんはいざというときは冷静沈着なのである。
だが、沈着冷静でありながら、同時に何かポカッとしたミスもやらかす。
あの後、ガレージに車を駐め、溶け始めたアイスを持って慌てて家に入ろうとしたら、母ちゃんに呼び止められた。
『塩、振らなきゃ』
『塩? アイスに?』
『違う違う。お清めの塩』
そう言うと、母ちゃんはハンドバッグから紙バッグを取り出した。
ファストフードの店のポテトSサイズの。
清めの塩を持ってくるのを忘れたので、店で注文するときに「塩増し」にして袋に入れてもらったんだと。
『アホくさ。何もいねぇのに』
ファストフードの粒塩をぱらぱらと体に振りかける俺と母ちゃんの横を、口にアイスキャンディをくわえた父ちゃんがスキップしながら家へ入っていった。




