65.母ちゃんの小説 第32話
(今回残酷かもしれないシーンがあります)
冷房の効いたベッドルームで遙はタバコをくゆらせていた。
翔はいない。学校の補習に行っているはずである。本人は遙に教えてもらえばいいとむずがったが、補習に出席すると今までの欠席が幾らか帳消しになると聞くと、遙は厳しく出席を命じた。非行少年であっただけで馬鹿ではないので、翔はすぐ補習内容に追いついてしまって今は退屈しているらしいが、週末に埋め合わせをする、という遙の言葉を信じて何とか毎日通っている。
俺も学校は好きじゃなかったな。
だが、行けるとき行かないと、一生後悔するかもしれないし。
斑の髪をかきあげ、遙は煙をふうと吐いた。
遙と出会ったことで翔がずいぶん変わったように、遙もまた翔と過ごすうちにだんだんと日常が変わっていくのを感じていた。
今までは昼も夜も関係なく好き勝手な時間に起き、街に出かけていたが、学生の翔に合わせてかなり健全な生活を送るようになっている。そして、以前はそのときの気分次第で行きずりの関係を持つこともあったが、今や嫉妬深い新しい恋人はしっかり遙を監視下に置いて、彼を他のあらゆる誘惑から遠ざけるのだ。
さて、アイツが来る前にひと仕事済ませておくか。
遙は勢いをつけてベッドから下りた。
『死ね』
そのとき、ぞっとする声が頭の中に響いた。
いや、これは俺の頭じゃない。
鮮血と悲鳴。
無表情の男が刃物を振り上げる。
『僕はこの男を殺せない』
「雄司」
さまざまな情景が一気に遙の脳裏を駆け抜けた。
「なんだこれは」
しかし、最低限のことは分かっていた。
雄司が殺られる。
雄司が。
「うおおおおっ」
斑の髪を振りたて、遙は絶叫した。
刃先が、スローモーションのように迫ってくる。
だが体は動かない。
このままだと胸を突かれる。
僕はこの男を殺せない。
男の冷気が自分の体内にまで入り込んでしまったかのように寒気で全身の毛が逆立った。
『死ね』
赤く濡れた包丁の先端がスーツに触れた。
「あぁ」
雄司は思わず目を閉じた。
そのとき、閉じたまぶたの裏に閃光が走った。
そして耳をつんざくような衝撃。
一瞬、周りが真空になった。
これは。
目を開けた雄司は異様な光景を見た。
胸を刺し貫こうとした包丁の刃が、紙のように折れ曲がり、見るそばからぼろぼろと崩れていく。
刃だけではない。
木製の握りも粉々に砕け、青く筋が浮き出るほど強く包丁を握っていた手は、勢いあまって爪が手のひらに食い込んでいく。
ピキッ、ピキッ。
嫌な音がした。
男の拳の甲に孔が空き、そこから指が突き出ると同時に血が噴き出す。
「おぅっ」
男の口から奇妙な声が漏れた。
腕が、関節とは反対の方向に曲がり、だらん、と下がる。
ビキッ。
肩の骨が折れ、男の体が痙攣した。
「ううぅ」
男は喘いだ。
あごの骨が崩れ、もはや喉を鳴らすことしかできない。
男は生きながら全身の骨を砕かれ人間の形を失いつつあった。
雄司はあたりを見まわした。
これは「シマ」の力だ。
内部より物質を破壊する技。
この力を使うのは。
「美彌島じゃないぜ」
背後から声がした。
ランニングにジョギングパンツ姿の遙が立っていた。裸足である。
「遙。どうしてここが分かった。それに、どうやって美彌島の力を」
アスファルトの熱さに足踏みしながら遙はウィンクした。
「そりゃ、相棒だからさ。そして、あの破壊力は」
道路の上で蒸気を上げている粘土状の塊——かつて通り魔であったものーーを横目で睨みつけた。
「…お前の親父さんさ。一瞬の隙をついて俺の体を乗っ取り、俺を中継して力を放射したってワケ」
「…体を乗っ取って」
遙は鼻を鳴らした。
「そう。俺の断りなしに増幅器扱いしやがって。おかげで、こちとら力を使い果たしてゲッソリだ。——まぁ、無事で何よりだけどな」
「…体を乗っ取って」
うわ言のように雄司は繰り返した。
「おい、人の恥を何回も言うことないだろ。助けてもらっといて」
その言葉にようやく雄司は我に返った。
「すまない。兄貴にそんな力があるとは知らなかったんだ。「シマ」にもその力があるとは」
「何、呆けてるんだよ。殺されかけておかしくなったのか。生命を狙われるなんて、そう珍しいことじゃないだろ」
遙は雄司の顔をのぞき込み、目の前で手をひらひらさせた。
「とにかく、後片づけをやろうぜ。見物人の記憶操作に、ケガ人の治療。それからこの肉も。一気にやらないとヤバい。俺は始末書なんて書きたくないからな」
「ああ」
雄司は眼鏡を外し、力を最大限に高めながら応えた。
体を乗っ取られた男が僕を襲い、父に体を乗っ取られた遙が僕を救った。
そして通り魔事件はここに居合わせた人たちの記憶から消え、一人の男が東京からいなくなるだけだが…。
彼らがもし同じことを繰り返せば、通り魔は次々と現れるだろう。
それだけじゃない。
奴らは僕の存在を知っている。
僕ら「シマ」の存在を。
その日、東京は最高気温四十度という記録的な暑さで、墨田区、葛飾区、荒川区、千代田区、新宿区、港区、大田区では別々の通り魔事件が発生した。犯人はいずれも犯行後自殺してしまっているため詳しい動機などを突き止めるのは不可能となったが、彼らはみな犯罪歴もなく、一連の事件は昼過ぎに同時多発的に発生したにも関わらず、関連性が見られなかったため、新聞やテレビでは「謎の通り魔事件」として大きく取り上げられた。
すみません、俺のパートが書き終わりませんでした。
なので代わりに「母ちゃんの小説」を連続で載せておきます。
後日順番を差し替えてごまかすかもしれません。
by「俺」




