64.母ちゃんの小説 第31話
昼の銀座とは思えない静寂が広がっていた。
デパート、ブティック、レストラン。通りに面したガラス戸はすべて閉ざされ、そこから無数の顔が表の様子を息を止めて見守っている。
男が俯いていた顔を上げた。
雄司を見ている。
一歩、前に踏み出した。
周囲で悲鳴ともつかぬうめきが上がった。
もう一歩。
男は雄司に近づいてくる。
また一歩。
作業着が返り血で赤く染まっている。
雄司の手前にいる女が後ろに向かって這いはじめた。腰が抜けているらしい。這ったあとには水たまりがあり、異臭を放っている。
顔を覆ってしゃがみこんでいる大学生風の男。
雄司だけが真っすぐ正面を向き、ゆっくりと近づいてくる男を見つめていた。
「……あぁ」
男が口を開いた。
「暑いよぅ…なんとかしてくれ…熱い」
口の端から涎がこぼれ、あごから胸元に滴った。
目の焦点が合っていない。
「熱いんだぁ…」
五メートルほどまで来た。
雄司の手からアタッシュケースが落ちた。
留め金がアスファルトに当たり、かつんと乾いた音を立て、周囲の目がそれに集中した。
その一瞬を、雄司は逃さなかった。
眼鏡の奥の瞳が白い炎と化し、同時に精神が男の内部に向かって触手を伸ばしていた。
探る。
兇悪な衝動の根源を。
彼の精神が正常であれば、すぐ見つかるはずである。
見つかれば、それを攻撃するなり慰撫するなどして、衝動を弱められる。
どこだ。
他者から見れば、ただ立ちつくしているようだが、雄司は全神経を集中させて根源を探し続けていた。
「暑い」とつぶやいているが、男の体内はぞっとするほど冷えきっている。
もし、生身の体で触れようものなら凍りついてしまいそうだ。
雄司の肉体は精神につられて、ぞくり、と身震いした。
だが。
やっきになって探っても、根源を成す気の塊は触手に引っかかってこない。
雄司の頬を汗が伝った。
どうして、こんなに強力なのに元がないんだ。
『それは、この男の意志ではないからさ』
何だ、今のは。
雄司の精神は男の体内であたりを見まわした。
『この男の正気は、とっくに俺たちが喰ってしまったからな』
なんだって。
五メートル先で止まっていた男が、再びゆっくり歩き出した。
機械じかけの人形のように、不自然な足どりで。
「暑い」
男はつぶやき続けている。恐らくこれが、この男が「生きていた」ときに最後に口にした言葉なのだろう。
『死ね』
男の体内で響くその声はぞっとする色合いを帯びていた。
雄司はなおも慌ただしく気を駆けめぐらせて男の正気を探した。この男の精神がもし生きているなら、殺すわけにはいかない。
男が雄司のすぐそばに迫った。
振り上げられた赤い包丁が、太陽の光に鈍く光る。
「ああっ」
銀座に居合わせた人々が全て息を呑んだ。
刃先は真っすぐ雄司の胸元を狙っている。
今回は「母ちゃんの自動書記」のバージョンを上げて、俺判断で行間を増やしてみました。
バトルっぽいシーンがあんまりきゅっと凝縮してまとまっていたら臨場感に欠けるような気がしましたので。
by「俺」




