32.母ちゃんの小説 第16話
国語論争で舌戦を繰り広げたにもかかわらず、遙と翔にはまだまだ体力が残っていた。
「よっしゃ、マッチ再開や!」
「はいっ!」
触れるか触れないかのパッティングから親愛の平手打ち、貪るように執拗なヘッドパットへと変わるのに時間はかからなかった。二人は言葉を交わす代わりに互いの拳をめり込ませ合い、心臓の鼓動に耳を澄ませた。
「ここでトドメのスリーパーホールド!」
「ぐはぁっ」
翔はたまらず腕を前方に伸ばした。
ロープに。
ロープにとどきさえすれば、レフェリーが制止してくれる。
そう思った。
だが。
その先にあるはずのロープが、なかった。
そうなのだ。
ここは四角いリングではなく、ただのキングサイズのベッドだった!
プロレスのリングは約6.5m四方、対するキングサイズベッドは幅1,940mm×長さ1,950mm、明らかにキングサイズベッドのほうが小さい。逃げるにはたやすく、翔のような弱者に有利な展開となる。しかしここではロープの有無が勝敗を左右した。
「ううっ」
翔の白い肌がたちまち紅潮する。ちなみに翔は遙から奪ったサテンのトランクスを履き、遙はブリーフの三枚履きで試合に臨んでいる。
「ギブアップか?」
「や、やだっ」
「ならば、こうしてやるっ」
遙は両足を翔の体に巻きつけた。長身で足の長いため、その姿はさながら獲物を捉えたアシダカグモのようである。そしてその姿勢からあろうことか片足をさらに曲げ、つま先を翔の腕に這わせた。
「あ、ああっ?」
翔の口から当惑の声が漏れた。股関節でも外さない限り常人には出来ない芸当である。
「は、ハルカ、一体、何を?」
遙は答えず、つま先を動かし続ける。手のひらから前腕へ、そして肘を過ぎ、上腕にさしかかる。
「ハルカっ、そこはっ!」
「車内の対戦でじっくり見せてもらったぜ。お前の弱点を」
つま先が狙ったのは腋下、
別名「わきのした」だった。
「やめてっ」
翔の哀願が耳に入らないかのように無情にもつま先は彼の腋下にぴたりと貼り付いた。
そう、つま先には耳はない。
「いい声で鳴かせてやるよ、翔」
足の親指の爪が、かりり、と翔の柔らかい肉を掻いた。
「いっ、いやああああああっ!!」
室内に少年の絶叫が響きわたった。
「…何か聞こえなかった?」
あどけない声がつぶやいた。
声の主は桃子である。彼女は「シマ」の男たちとともに会合の場にいる。
「さ、さあ」
男たちは一斉にあらぬ方を向いた。
「私は全く聞こえませんでしたな。やはり年には勝てませぬ」
中年の外観の但馬がわざとらしくしわがれた声で答えた。
「え、聞こえなかったの? ドシン、バタン、ドサッ、きゃー、とか、ぎゃーとか。すごくうるさかったよ」
「いや、俺は現場で働いてるから毎日ドリルやらブルドーザーの音聞いてるんで、小さい音にはにぶいかもなぁ」
間島が頭をかいた。
「私は洞窟を調査しているときに落盤事故に巻き込まれてね。今朝やっと出てきたばかりなんだ。だからまだ耳が外界の音に慣れていないようだ」
島田は桃子を見て優雅な笑みを浮かべると女のような細い指先でおもむろに耳の穴をほじった。
「ねぇ、パパは? パパも聞こえたでしょ」
桃子の隣で雄司は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
あの馬鹿野郎が! こっちまで丸聞こえだってのっ!!
雄司は心の中で毒づいた。
「…ああ、そうだね。そういや何か聞こえたね。あれは、そう、きっとサルか何かがお山でケンカをしているんだよ」
「サルってニホンザルのこと?」
桃子の黒目がちの瞳が雄司の惑う視線を捉えた。
「ニホンザルは日本に広く分布してる。もちろん「シマ」の村辺りにも。ニホンザルの鳴き声はあんなじゃない」
「あ、じゃあ、イノシシか、ニホンカモシカか、ヒグマだよ」
「ヒグマですって?」
桃子の目が険しくなり、声のトーンも一段と高くなった。
「ここは山梨でしょ。ヒグマの生息地は北海道よ。まったくパパの無知にはあきれるわ」
どこから取り出したのか、桃子は白檀の扇子を広げるとぱたぱたと雄司に風を送った。
「ヒグマは北海道、本州はツキノワグマ。そんなの◯ツゴロウさんじゃなくても知ってるわよ」
いつの間に桃子はこんなに動物に詳しくなったのだろう。
流れこむ白檀の甘い香りを鼻腔に感じながら雄司は思った。
「…そうか。じゃあ、もしかしたら遥と翔じゃないかな。口げんかでもしてるんだよ、たぶん」
桃子の顔に笑みが戻った。
「そっか、遙にいちゃんと翔ちゃんか。知ってるよ「お耽美」って言うんでしょ。光子おばさんや華子おばさんがそういう本たくさん持ってて、桃子もよく見せてもらうよ」
なっ、なんだってー!
雄司は平静を装いつつ心の中で驚きの声を上げた。
あのババァども、僕が留守の間に大事な娘にとんでもないこと教えやがって!
村を離れ「シマ」の神社のエージェントとして各地で働く若者たちは修行期間中に理由なく村に帰ることを禁じられており、雄司も例外ではない。しかしこの事実を知ってしまった以上、近いうちに村に行って関係者の責任を問う必要がある。
桃子に伝令をやらせた川嶌の透は一発殴り、伯母の光子と華子には厳重注意、
そして。
遙と翔は尻バットそれぞれ30発ずつだ。
雄司はそう決意した。
母ちゃんはこのシーンのためにこの小説を書き始めたのではないか。
ここ数日俺はそう思ってます。
それくらいこのシーンは長いです。長過ぎます。
そして改変者の俺には辛い日々が続きます。
もう、許されるならロケットランチャーか何かで部屋ごとぶっ飛ばしてシーンを終わりにしてしまいたい。
そう思うくらい俺は追い詰められてます。
by「俺」




