30.母ちゃんの小説 第15話
「どう? 少しは体、暖まった?」
数分後、ウィートパックを腰に当てる遙に翔が声をかけた。電子レンジの光を頼りに翔がスイッチを見つけて押したため、室内は煌々と灯りがついている。
「ああ。だいぶ、な」
遙はウィートパックを肩に移動させた。
「ところで翔。さっきお前「オレが…あたためてあげるよ」と言ったよな。…あれはどういう意味だ?」
「え、あれは…その…」
翔は口ごもった。
「遙の体が冷たかったから、何とかしてあげようと」
「物理的にってことだな?」
「物理、的に?」
翔は考え込んだ。
暴走族の頭にオレはなる。そう決意したときから翔はほとんど学校に行っていない。本気で暴走族を極めるには、モーターバイクの構造そして走行に関連する物理の基本知識がある程度必要なのだが、残念ながら翔には将来への具体的な展望が欠落していた。
言い換えるならば「頭かもしれないが脳はない」である。
物理という単語だけで思考が停止してしまったらしい翔を見て遙は慌てた。
「あー、えっとだな、ほら、コンビニで弁当買ったら「ハシェ、おっけしぇまっしゃ〜? おべんとー、あたっ、あたたたたたっ?」って言われるだろ。あれと同じかってことだ」
翔の顔がぱっと明るくなった。
理解できたのだ。
「ホントはね、オレの肌で遙のことを暖めてあげたかったんだ。でも、そうしたら成り行きで「青少年の健全な育成に支障をきたす恐れがある行為」が発生して、突然「説明なく強制的に」この世界が終了しちゃうんじゃないかって怖くなった。だから、ウィートパックを使うことにしたんだ。オレの肌の代わりに」
少し舌足らずな口調で今までの人生で一度も使ったことのなさそうなフレーズを苦労しながらつぶやく翔を、遙は慈愛のこもったまなざしで見つめた。
「そうか。お前、そこまで俺たちやこの世界のことを心配してたのか」
手招きして翔をベッドに座らせる。
「大丈夫。お前と同じぐらい俺も、雄司も、他の「シマ」の連中も、そしてもっと存在が希薄なモブと呼ばれる、名前もない行き当たりばったりで出てくるヤツらも、みんながそれを意識し、世界の終了を回避していくはずだからな。ときにはアクセル踏み込んでギリギリの、いわゆる「R17.9」ゾーンまで突っ走っていくかもしれない。だが、基本は「R15」止まりだ。それだけは絶対に約束する。だから俺たちを信じてこの世界でお前自身の人生を歩んでいけばいい。だがな、一つだけ注意してほしいことがある」
「え?」
遙は手を翔の頭に置いた。
「誤用はするな。いいな?」
「え、何のこと? ウィートパックのこと? だって、バスルームにあったから、つい。そりゃ◯ッカイロのほうがポピュラーでみんなよく知ってるけど、普通、ああいうものは絆創膏と一緒に救急箱にしまってあったりするじゃない? オレはこの部屋に来てからシャワーは浴びた。でも、それ以外は何もしていないし、何がどこに置いてあるかも知らないんだ。で、電子レンジはあった。部屋に入ったときは全然存在に気づかなかったけど、いつの間にかあった。だから使ったんだ」
むきになって言い訳する翔をあやすように遙はその頭を撫で、頬に唇をあてた。
「ウィートパックのことはどうでもいい「そんなハイカラなモンがその時代にあったのか?」と訊かれたら「ホットパックのことです、サーセン」とでも言っておけばいい。俺が言ってるのは漢字の誤用だ」
「か、漢字? オレ、遙が言ってること、全然分からないよ」
「さっき、お前は「オレが…暖めてあげるよ」って言ったよな」
「うん」
遙は目を閉じ、息をひとつ吐いた。
「よく聞け。「暖める」と「温める」はひらがなで書けばどちらも「あたためる」だ。だが、両者のニュアンスは微妙に違う。「暖める」は「暖房で部屋の空気を暖める」で「温める」は例のコンビニ店員のテンプレだ。だから、もしお前が俺の心をあたためるなら「暖める」、俺の体をあたためるなら「温める」となるはずだ」
「え、そうだっけ?」
遙の腕の中で翔は声を上げた。
「オレが参考にした辞書は[暖める・温める]で、どちらも同じように扱ってるよ!」
「何だと。どの辞書だ?」
「…◯波国語辞典第四版、それと◯文社国語辞典新板。…どちらもけっこう古い。遙は? 遙は何を見て言ってるの?」
「…俺は学校でそう習った記憶がある」
二人は同時にベッドを飛び降りると本棚に駆け寄った。都合のよいことに本棚にはあたかも二人に利用されるのを待つかのように国語辞書がずらりと並んでいた。
「うーん。はっきりした結論は出なかったね」
数十分後、床に放射状に投げ出された辞書の山を見て翔がため息をついた。
「そうだな。俺の記憶が正しいなら、恐らくはその後用法が変わったんだろうな。使い分けの規則が緩やかになったというか」
「そんなこと、あるの?」
「あるさ」
遙は胸を張った。
「例えば、翔、お前は「記憶が曖昧なこと」を何て言う?」
「ええと……うる覚え、かな?」
パーン。
いきなり遙に頬を張られ、翔は床に転がった。
「それは間違いだ。正確には「うろ覚え」! これは今のところどの辞書でもそうだ。だが、今後、数十年に渡って皆が使い続けたらいずれは「うる覚え」も選択しとなり、そしてもし「うる覚え」を使う割合が「うろ覚え」を上回ることがあれば…現在の間違いも未来には正解になってしまう。言わば「悪貨が良貨を駆逐する」だな」
「駆逐してやる、か」
「おい、そのジョークはやめとけ。まだあの作者は生まれたばかりだ」
遙は腕を伸ばし、床に這いつくばったままの翔を抱き起こした。
「ごめん。つい、興奮しちまったな」
翔は首を振った。
「ううん、いいよ。だって、オレたちも何にも考えずにさんざんスプレーで「夜露死苦」とか「鏖」とか書きまくってきたからさ。遙に指摘されてはじめて言葉の大切さに気づいたよ」
二人は改めて向き直った。
「ねえ、遙、一つ訊いていい?」
翔が媚びを含んだ甘い声で訊いた。
「遙はさ、オレが「あたためる」を「暖める」と言ったってどうやって分かったの? 喋った言葉なのに」
遙は苦笑した。
「それは、まあ、その、あれだよ「シマ」の力。音で聞いた言葉を瞬時に頭のなかで漢字に変換する、という」
「便利なような…あんまり大したことないというか」
「悪かったな。これでも昔は漢字の書き取りテストで重宝したもんだぜ」
そう言うと、遙は開いたままの辞書を一冊、床から拾い上げ、翔に手渡した。
「ま、お前もえらそうなことを言う前にそのポークビッツを何とかしろよな。気がついてたか、お前、ウィートパックを温める前からずっとすっぽんぽんのままなんだぞ」
翔は悲鳴を上げると両手で辞書を持ち「青少年の健全な育成に支障をきたす恐れがある物体」を隠した。
今回はほぼ100%俺の創作です。
母ちゃんのノートに「暖める」と書いてあったのですが、俺は「温める」派だから、この際はっきりさせとこうと思いました。
それで、一応、現在の母ちゃんの書き方も調べておこうと思って事情を伏せて質問しました。
母ちゃん、
「ひらがな」で書きやがりました。
「漢字より速くかけるから」だそうです。
退化するなよ……。
by「俺」




