猫川俊太郎の死
福島と告げるだけで、その場の空気を瞬間冷凍できる。そんな魔法の言葉「福島」出身である私という人間は、いったいどんな顔をしているのか? 目や鼻はついているか? 唇は柔らかいか?
「福島出身のあなたが、放射能を背負う必要なんてないと思うの」
などと会社の同僚は言ってくれるのだけれど、私は何も背負ってはいないし、今後とも何かを背負うつもりはない。
「だって東京だって毎日被曝しているのに、なのにみんなあたしをノイローゼ扱いして」
そんな東京の会社で昼休みを過ごしていると、携帯にメールが届いた。
「件名:愛してっぺ」
福島の友人から。
「本文:あんた、東京に彼氏でも出来たんかいな。311からずっと素っ気ないし。そらあメールの文面も関西弁になってまうわな」
と友人は言いつつ、実は今度関西へ移住するので、関西弁を練習している最中なのだと告白した。
「本文:いろいろ考えたんじゃけど、福島はもう限界。彼氏とも別れたし、猫川俊太郎も死によったけんね」
猫川俊太郎というのは、友人が小学生の頃から飼っていた猫の名前で、もうかれこれ百年は生きている猫なのだと、小学生だった私たちは信じて疑わなかった。
「本文:でもなんくるないさ。いろいろ考えたさ。いろいろな未来をさ」
残業を終えて会社から出ると、暗闇の中からキラキラと輝く東京が現れた。空気を吸い込むと、肺の中までキラキラしているような気分になった。
「おかえり」
私は電車に揺られながら、キラキラと夜の街を運ばれて行く人々を眺めた。もしこれがアウシュビッツ行きの列車だとしても、気付く人はたぶん居ないだろうと――私は暗い車窓に問いかけた。
「ずいぶん遅かったじゃないか」
アパートの明かりを点けると、ソファの真ん中に一匹の猫が座っていた。
「俺のことを忘れたか?」
いいえ、俊太郎。でもあなたは死んだはずでしょ?
「まあな。でも本当の死を受け入れる前に、お前の顔を見ておきたかったのさ」
死にも本当や嘘があるの?
「俺は疲れただけさ。死ぬほど眠たいから、昔みたいに優しく抱き締めて欲しいだけ」
私は力を失った俊太郎を胸に抱くと、そのままソファの中でうずくまった。
「お前は今でも、夏草の匂いがするね」
私を一人にしないでよ。
「馬鹿だな。俺は大好きなお前の中へ帰るだけさ」
馬鹿馬鹿。死にたいのは私のほうなのに。
「百年前は、俺のほうが駄々をこねてたな。もう死にたいって」