第10章 事故 その1
坂の上から猛スピードで下りて来る車があった。
ゆるいカーブに差し掛かりその車はオーバースピードでカーブに入ってくる。
その坂道の歩道を孝一、圭子そして少し前をあつしと美奈代が歩いていた。
カーブにはいってその車の後輪がキッキッキとなり始め、次第に車の後部がスライドし始め、ついには車のコントロールできなくなった。
ここは2006年06月24日、ドイツのミュンヘン市にある、ミュンヘン・オリンピアシュタディオンから下りて来る坂道である。
つい二時間前、スタジアムのメイングラウンドでは、ワールドカップの決勝トーナメントの1回戦があり、B組2位だった日本と、A組1位のヨーロッパの強豪国チームとの試合があった。
試合は0対0のまま、後半終了間際までどちらが勝つか分からないような試合だった。
しかし勝利の女神はロスタイムの2分間だけ、ほんの少し日本に微笑んでくれた。
それはあまりにもあっけなく、またゴールとしてはいわゆる泥臭いゴールだった。
日本選手のミッドフィルダーが放ったミドルシュートは、ゴールから20メートル地点からの当り損ねのシュートで弱々しく、相手のキーパーの前に居る敵選手のところにふらふらと上がった。
それを相手のデフェンダーがヘッドでクリアしようとしたが、シュートそのものにスピードがなく、当然ヘッドでのクリアも弱々しいものになった。
ポロリと落ちるように転がったボールが、たまたま詰めていた日本選手の足に当った。
しかも当ったボールは、ノーマークでゴールの前に居た、日本選手のフォワードの前に転がったのだ。
そのフォワードはそのボールを冷静に、そして確実にゴールに押し込んだのだった。
スタジアムは一瞬静まり返った。相手国のサポーターは信じられないと言った面持で、絶句し、また日本のサポーターは喜びのあまり、絶句した。
しかし、次の瞬間、激しいどよめきが日本のサポーターから沸きあがり、また相手国のサポーターからは、ため息ともつかないどよめきが起こった。
延長になれば押されていた日本には、ほとんど勝ち目が無いように思えていたので、日本にとってまさにロスタイムの幸運であった。
そんな日本人サポーターの興奮のさなかに四人は先程まで居たのだった。
四人はドイツに居た圭子の所に、アメリカに居た孝一と美奈代、そして司法試験に無事受かり、弁護士として歩き始めたあつし達が集まったのである。
興奮を冷ましたから帰ろうと四人はスタジアムの周りを散策し後、そろそろ帰ろうかと言う事になり、スタジアムからミュヘン駅に行くバス停まで、緩やかな坂道を下っていたのである。
雨雄はこの時間に着き、あつしを東京で見つけた。
あつしは職を変える事もなく弁護士事務所に勤めていたので、簡単に見つける事が出来たが、いぜんとして美奈代の所在がまったく掴めなかったのである。
しかし映像のデータの中で、二人はドイツで再会すると言う事を言っていたし、時空管理局の監視室のパネルデータから、この時間に来れば二人に合えると思っていたのである。
その雨雄の思惑が見事に当った訳だが、当の雨雄は何となく憮然としていた。
当然あるべき事が、そのまま目の前で起きるのが何となく面白くなかったのであるが、その雨雄の不満をひき飛ばしてくれそうな事が目の前で起こりつつあった。
雨雄はリギュンから地表に降り、坂の途中で4人を窺がっていた。
雨雄にも坂の上からコントロールを失った車が、あつしたちの方に突っ込んでいくのが見えていた。
雨雄は「まずい」と、思った。
その車が真直ぐあつしと美奈代の所に進んでいくのである。
誰がどう見ても二人はその車にはねられるとしか見えない状況だったのだが、雨雄は車が二人にぶつかる瞬間リギュンによってリギュン船内に転送してしまったのだ。
あつしたち二人は街灯のポールの所を歩いていて、車は「ガシャーン」と言う、大きな音を立て街灯のポールにぶつかり停止した。
そして、その様子を見ていた周りの人々は、ポールの横にちょっと跳ね飛ばされた二人を見た。
圭子は車がぶつかる瞬間、どう見てもあつしたちが跳ねられると直感したのか、思わず孝一の胸に顔を埋め、ぶつかる瞬間を見ようとしなかった。
だが孝一はぶつかると思った瞬間、いやぶつかった瞬間をしっかりと見ていた。
それは車が二人に接触する直前二人の姿が消え、次の瞬間ほんの数十センチずれた所に二人が現れ、いかにも車にぶつかったように倒れこんだのだ。
それはほんの一瞬の出来事であったが、実はそこに現れたあつしや美奈代たちは、彼らの時間で二日の時間がたっていたのだった。
すぐに孝一は救急車を呼び、二人を病院まで運んだが、二人とも倒れた時の傷ぐらいで、たいした怪我は無かった。