ねえ、『パプリカ』っていう歌、知ってる?
ねえ。
パプリカが、いろいろな栄養素を含んだ野菜だってことくらい、君も知っているよね?
ビタミンCも豊富で、私たちの体に必要な成分がたくさん含まれている、とても健康にいい食べ物だ。
……だけど、ここ、トミーアパートの食卓に並ぶ四つの色のパプリカは、少し違う。
あれらは太陽の光や、土の養分を吸って育ったわけじゃない。
人間の肉体が最も残酷な形で崩れ落ちる瞬間に放出される『霊的栄養素』。
それを丸ごと吸収し、異常なまでに肥大化した奇形種なんだ。
もし冷蔵庫や食卓の上で、パプリカたちが童謡のメロディーに合わせて勝手に揺れ始めたら。
絶対に匂いを嗅いではいけない。
調理を始めてもいけない。
生きたいのなら、これから教える行動指針を絶対に覚えておきなさい。
一つ目。
表面が異様なほど艶やかで、血のように赤いパプリカ。
それは誰かが激情に駆られ、鋭い刃物で人間を殺した瞬間に噴き出した『新鮮な鮮血の栄養素』を、根から全て吸い上げて熟した果実だ。
赤いパプリカに刃を入れた瞬間、503号室の台所全体が屠殺場のような腐った血の海へ変わる。
そんな光景を見たくないなら、絶対に触るんじゃない。
二つ目。
妙に重く、黄色みを帯びたパプリカ。
それは人間の『黄色い脂肪組織と、引き剥がされた肉片』が内側に何層も重なり、その養分を吸収して育った個体だ。
黄色いパプリカをまな板の上に置いた瞬間。
君が最も愛する人間の肉が腐っていくような、凄まじい死臭が家中を侵食する。
その臭いは君の精神を狂わせるだろう。
すぐに窓を開け、遠くへ離れなさい。
覚えておくんだよ。
三つ目。
未熟な緑色のパプリカに見えるもの。
あれは実際には、『腐敗し始めた死体の皮膚表面に発生した緑色の死体カビと有毒ガス』が、皮の形に凝固した塊なんだ。
緑色のパプリカに触れ、その表面から流れ出す粘ついた緑色の液体が、ミンジュン、君の皮膚にほんの少しでも付着したら。
君の細胞もリアルタイムで壊死を始める。
やがて全身が緑色に変色し、腐っていくだろう。
四つ目。
最も不吉な、オレンジ色のパプリカ。
それは生きた人間を焼き殺した時に流れ落ちる『人間の脂と、真っ赤な炎の怨念』が歪み、濃縮された最終形態だ。
もし台所のセンサーライトが勝手に消え。
オレンジ色のパプリカが自ら橙色の炎を上げながら、
「熱いよ、ママ、熱いよ」
と子供の声で泣き叫び始めたら。
絶対に返事をしてはいけない。
イヤホンを耳に入れ、目を閉じた方がいい。
あれらは絶対に野菜なんかじゃない。
君も今日ここへ引っ越してきたばかりだから教えてあげるんだ。
覚えておきなさい、坊や。
◆◇◆
家に戻った俺は、あのおばさんの話をどうしても受け入れられなかった。
そもそも怪談なんて、結局は誰かが作り上げた話じゃないか。
今が一体いつの時代だと思っているんだ。
アパートの食卓でパプリカが歌を歌い、死体の栄養素を吸い取る?
そんな馬鹿げた話を、誰が信じるというのだろう。
新しく引っ越してきた俺をからかうための、向かいの部屋のおばさんによる悪質な冗談。
あるいは、年老いた人間の奇妙な妄想。
そう考える方が、遥かに合理的だった。
「まったく……オリーブオイルで炒めたら、あんなに美味いのに。くだらない……」
俺は鼻で笑い、スーツのジャケットを脱いでソファへ放り投げた。
ちょうど仕事帰りに寄ったスーパーでセールをしていたため、大量に買い込んできたパプリカの袋が、台所の食卓の上で色鮮やかな光を放っている。
腹も減っていた。
今夜は俺の大好物、パプリカとソーセージの炒め物を作るつもりだった。
ジュウウッ―。
ガスコンロに火をつけ、フライパンへ油を引く。
香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。
俺は袋から取り出した四色のパプリカを、まな板の上に一列に並べた。
その時だった。
リビングの隅でつけっぱなしにしていた小型ラジオから、
ザザザザッ―。
不快な周波数ノイズが流れ出した。
そして。
やがて聞こえてきたのは、澄み切った子供たちの童謡だった。
―赤いパプリカ~
血に染まったパプリカ~
「……ラジオ、どうしたんだ?」
周波数がずれただけだろう。
そう思って無視しようとした、その時。
食卓の上のパプリカが、微かに震え始めた。
子供たちが歌う童謡の、
ドン。
ドン。
ドン。
というリズムに合わせ。
野菜たちが、まるで生きた心臓のように脈打っていた。
一瞬、おばさんから聞いた行動指針が脳裏をよぎる。
だが俺は必死に首を振り、包丁を強く握った。
「はっ。冷たい冷蔵庫から出したばかりだから、収縮してるだけだろ」
俺は最も艶やかで、美味そうな赤いパプリカをまな板の中央に置いた。
そして。
そのまま刃を振り下ろした。
ザクッ!
「……うっ?!」
軽快な野菜の切断音。
だが。
断面から流れ出したものは、赤い野菜の汁ではなかった。
ボタッ。
ボタッ……。
切り裂かれたパプリカの隙間から、黒ずんだ赤色の粘液が流れ落ち、まな板を汚し始める。
台所の照明の下でぬらぬらと光るその液体は。
吐き気がするほど生臭い、鮮血の臭いを放っていた。
「な、なんだよ……これ?!」
悲鳴を上げ、包丁を握った手を引っ込める。
その時。
俺の視線は、隣に置かれていた黄色いパプリカへ向かった。
誰も触れていない。
それなのに。
黄色いパプリカは、
ズル……。
という音を立てながら、自ら真っ二つに裂けた。
本来なら種で満たされているはずの野菜の内部。
そこは空洞ではなかった。
血管の破裂した人間の黄色い脂肪組織。
そして。
肉片の塊。
それらが内部いっぱいに詰め込まれているような、異様な姿だった。
瞬く間に、鼻を突き刺すような凄まじい悪臭が台所を満たした。
脳が焼け焦げていくような、激しい眩暈。
――あの怪談は、本物だった。
規則を破った代償が。
今この瞬間も俺の精神を削り取りながら、確実に迫っていた。
「に、逃げ……逃げないと……!」
我に返り、後ずさろうとした。
その瞬間。
床に落ちていた緑色のパプリカを踏みつけ、足を滑らせた。
潰れた緑色の皮から、粘ついた液体が滲み出す。
それが足先に触れた瞬間。
感覚が冷たく麻痺し始めた。
まるで死体に生えた緑色のカビが、肉を伝いながらリアルタイムで広がっていくような。
凄まじい悪寒。
同時に。
パチン。
台所のセンサーライトが完全に消えた。
暗闇に包まれた台所。
食卓の上。
最後に残されたオレンジ色のパプリカが、自ら激しく燃え上がった。
橙色の炎。
鼻を突く煙。
そして。
「熱いよ……ママ、熱いよ……」
クスクスクス。
「おじさん……死の花が咲きました……クスクスクス」
ノイズ混じりのラジオ。
橙色の炎。
その両方から、全く同じ子供の機械音声が響き渡った。
ガチャッ!
玄関の電子錠が強制的に解除される、重い金属音。
やがて。
暗闇に沈んだ台所の床、その向こう側から。
何か冷たく巨大な影が、這い出してきた。
体が硬直し、動けない俺の首筋。
そして足首。
それらを一瞬で掴み取る。
リビングから流れる童謡が轟音となって脳を殴りつける。
それを最後に。
俺の意識は、完全な暗闇へ沈んだ。
◆◇◆
数時間後。
503号室の前には、大勢の人間が集まっていた。
「何かあったんですか?」
「警察が二回も来たらしいですよ……」
「臭いが酷いって……肉が腐った臭いらしいです」
管理人の男は青ざめた顔で、ドアを開けた。
玄関から。
粘ついた赤い液体が、廊下まで流れ出していた。
中へ入る。
台所は、完全な地獄だった。
まな板の上。
切り刻まれた赤いパプリカの破片が、血のような赤い汁を垂れ流しながら震えている。
黄色いパプリカは真っ二つに裂け。
人間の脂肪のような、黄色く脂ぎった肉片を吐き出していた。
緑色のパプリカは床で押し潰され。
粘ついた緑色の液体を噴き出しながら腐敗している。
オレンジ色のパプリカは、今も燃えていた。
その炎の中から。
子供の声が、何度も響いていた。
「熱いよ……ママ、熱いよ……死の花が……咲きました……」
床には、一人の男の死体が倒れていた。
首は半分ほど切断され。
口の中には、切り刻まれたパプリカの破片がぎっしりと詰め込まれていた。
男の手には。
パプリカを切るために使った包丁が握られている。
管理人は呻き声を飲み込み、後ずさった。
「……また一人か」
その日の夜。
503号室の住人は、引っ越してきてわずか二日後に自殺したものとして処理された。
だが。
アパートの住人たちは知っていた。
男がパプリカを切ったあの日。
廊下を通り過ぎた何者かが、小さな声で呟いていたことを。
「……パプリカ……パプリカ……」
◆◇◆
【トミーアパート自治管理委員会・事後調査記録】
日時:2026年5月16日 午前4時45分
場所:本棟503号室・台所
現場内部状況:503号室の新規入居者(成人男性)は、台所の床で「身体機能が完全に停止した死亡状態」で発見された。
特記事項:当該入居者の死因は急激なショック死と推定される。しかし、死後硬直が始まった遺体の顔面には、包丁で口角を無理やり耳の下まで切り裂いたかのような異様な笑みが鮮明に残されており、現場の収容作業は難航した。




