第42話 裁きの場
嚴島の回廊は、板が軋む。
一歩ごとに足の下で木が鳴って、その音が回廊の柱の間を抜けて海まで届いていく。潮が引いた干潟の上に回廊が浮かんでいて、板の隙間から泥と海水の匂いが上がってくる。磯の匂い。生き物の匂い。
前を歩くのは暁。後ろに凪。わたしの左に汐音。右に千歳。五人が回廊を歩いている。足音が五つ、少しずつずれて重なっている。
暁の足音は硬い。迷いがない。凪の足音は大きい。遠慮がない。汐音の足音は軽い。薬箱が揺れるたびに、中の壺が小さく鳴る。千歳の足音は——聞こえない。侍女の足は音を立てない。15年の奉公が体に刻んだ所作。
わたしの足音は、自分では聞こえない。藍の打掛の裾が板を擦る音だけが、足音の代わりに回廊に残る。
大広間の前で、立ち止まった。
襖が閉じている。向こう側に人の気配がある。衣擦れの音。低い話し声。畳の上で誰かが座り直す気配。
暁がわたしを見た。目が問うている。準備はいいか、と。
頷いた。
暁が襖に手をかけた。
*
大広間が開いた。
畳の匂いが押し寄せてくる。新しい藺草の匂い。この日のために替えたのだろう。広い。鷲羽の書院の五倍はある。天井が高く、梁が太い。梁の木目が暗くて、何百年分の煙を吸い込んだ色をしている。
正面の上座に、人影がある。
國主——ではなかった。空席だ。上座の座布団に誰も座っていない。代わりに、その一段下に颯がいた。白い着物。銀の帯。國主の代理として座っている。目の下の隈は、屋島で見たときと変わらない。
颯の目がわたしを捉えた。一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、何かが走った。驚きではない。わたしが来ることは知っていたはずだ。あの一瞬にあったのは——確認。本当に来たのか、と。
左右に七家の席が並んでいる。
高松家の宗景が左の筆頭に座っている。痩せた顔。薄い笑み。隣に勘兵衛。あの温度のない目がこちらを見ている。
牛窓の朱音がいる。腕を組んで、表情を消している。宴のときの屈託のない笑顔はない。今日の朱音は政治家の顔だ。
竹原の涼介が末席に座っている。目が合うと、微かに頷いた。それだけ。
小豆島家の老当主。相変わらず表情が読めない。
わたしは大広間の中央に進んだ。
被告の席ではない。原告の席に——いや、席はない。わたしが立ったのは、上座と七家の席の間にある空白の畳だ。ここに立った人間は、この大広間では見られる側になる。颯の目も、宗景の目も、勘兵衛の目も、全部がわたしに向く。
汐音がわたしの斜め後ろに立った。薬箱を足元に置いている。千歳がさらにその後ろ。暁と凪は七家の席の向かい側——海守衆の席に座った。大広間の東の壁に沿った場所。七家とは対面する位置。
全員が揃った。
静寂。
颯が口を開いた。
「本日、鷲羽家当主代行・瀬名殿より、嚴島への申し立てがあり、七家と海守衆の立ち合いのもと、これを受けることとする」
声が大広間に響く。端正で、感情がない。國主の代理としての声。颯個人の声ではない。
「瀬名殿。申し立ての内容を述べよ」
わたしは息を吸った。
畳の藺草の匂い。梁の古い木の匂い。汐音の薬箱から漏れる、かすかな薬草の匂い。
声を出す。
「わたくし、鷲羽家当主代行・瀬名は、國主家に対して申し立てがございます」
大広間が静まる。わたしの声だけが響いている。天井の梁に当たって、返ってくる。自分の声が上から降ってくるような感覚。
「飛島回廊の封鎖について。高松家の管轄のもと、國主家の直轄船が交易路を塞いでおります。この封鎖により、瀬都内海の交易は滞り、鞆ノ津をはじめとする自由港の商人が損害を受けています。鷲羽家はこの封鎖の撤回を求めます」
宗景の目が細くなった。予想通りの申し立てだという顔。手続き論で処理できると思っている顔。
「加えて——」
ここからだ。
「この封鎖が、より大きな制度的問題の一部であることを、本日この場で明らかにいたします」
宗景の笑みが消えた。
勘兵衛の目が動いた。
「紫雲山の文書を提出いたします」
千歳が進み出た。紫雲山の文書の写しを載せた盆を、両手で捧げ持っている。千歳の手は震えていない。侍女の手だ。15年の奉公が仕込んだ手。盆の上の紙が、千歳の歩みに合わせてかすかに揺れている。
盆を颯の前に置いた。
颯が文書を手に取った。読んでいる。——いや、読んでいるふりをしている。この文書の内容を、颯は知っている。屋島で「紫雲山」と聞いたとき、目を閉じた。知っていたのだ。最初から。
でも颯は読むふりを続ける。國主の代理として、初めて見る文書であるかのように。形式を守る。それが颯のやり方だ。
わたしは七家に向かって語った。
「この文書は、50年前の裁き——潮守家の取り潰しに関する記録です。海守衆の巳嶋家先代当主が保管していたものを、現当主・巳嶋暁殿が提出されました」
暁が席から立たなかった。座ったまま、腕を組んでいる。頷きもしない。文書が語ればいい、という態度。暁らしい。
「文書の内容を申し上げます。潮守家は、かつて八番目の家として、海守衆と七家の橋渡しを担っていました。その潮守家が50年前に取り潰された理由は——『姫が世子を誑かした』という罪状でした」
大広間に、かすかなざわめき。七家の席のどこかで、衣擦れの音。
「この罪状は虚偽です」
声を張った。張ったのは意図ではなく、体が勝手に声を押し出した。
「潮守家が潰された本当の理由は、海と陸の結びつきを國主家が恐れたからです。海守衆と七家を繋ぐ家が存在すれば、國主家の統制を超える力になりうる。その可能性を芽のうちに摘んだ。——予防的な処断です」
宗景の顔が硬くなっている。笑みはもう完全に消えた。勘兵衛がわずかに体を前に傾けている。
「そしてこの処断は、一度きりのものではありません。文書には、100年前にも同様の粛清が行われた記録があります。國主家は50年を周期として、勢力を伸ばした家を選び、断罪する。潰された家の所領と交易権は残りの家に分け与えられ、分け与えられた家が次の標的になる。連環です。止まることのない、制度としての粛清」
連環。紫雲山で初めてこの構造を理解したときの衝撃が、声に乗って大広間に広がっていく。
「50年前、潮守家を潰したとき、その所領を吸収したのは鷲羽本家です。鷲羽家は潮守家の港を得て、大きくなった。そして今——次の標的として選ばれている。わたしが、今回の裁きの対象です」
沈黙が落ちた。
重い。畳の上に鉛を敷いたような沈黙。
七家の当主たちの顔を見る。宗景は石のように動かない。朱音が腕を組み直した。涼介が唇を噛んでいる。小豆島の老当主が——初めて、目を開いた。閉じかけていた瞼を上げて、わたしを見ている。
颯は文書を膝の上に置いたまま、動かない。
「この連環を終わらせるために、わたしは今日、ここに立っています」
声が出た。震えていない。——いや、少しだけ震えている。でも構わない。震えていい。怖いということは本気だということだ。汐音がそう言った。
「証人がございます」
振り返った。
汐音を見た。
汐音が前に出た。
薬箱は足元に置いたまま。手に持っているのは紙の束だけ。47枚。祖母の記録を写した紙。
大広間の空気が変わった。七家の当主たちが、見慣れない女に目を向けている。着飾っていない。薬師の普段着だ。誰だ、という目。
汐音が大広間の中央に立った。わたしの隣に。
「鞆ノ津の薬師、汐音と申します」
声が澄んでいる。大広間の広さに負けない声。鞆ノ津の港で保命酒を客に勧めるときの、あのよく通る声。
「わたしの祖母は——因ノ島家の生まれです」
ざわめきが走った。今度は明確に。衣擦れではなく、声。小さな声が七家の席のあちこちから上がって、すぐに消える。
勘兵衛の目が、鋭くなった。小豆島の寒霞渓で汐音を見ていたあの目。照合するような目。——やはり知っていたのか。疑っていたのか。今、確定した。
汐音は動じない。
「因ノ島家は海守衆の第三家です。五十年の裁きで消された潮守家と深い繋がりがありました。潮守家が取り潰された後、因ノ島家の一部の者は身を隠しました。祖母はその一人です。鞆ノ津に流れ着き、薬師として生き、名を隠して暮らしてきました」
汐音の声が大広間を満たしている。柔らかい声なのに、隅々まで届く。壁に反射して、天井から降って、畳の上を這って、全員の耳に入っている。
「祖母は薬師でした。因ノ島から鞆ノ津に流れてきた漁師たちの体を診ていました。過所旗を奪われて、海に出られなくなった人たちの体を」
汐音が紙の束の最初の一枚を取った。
「裁きの翌月の記録です。因ノ島の漁師・伊三郎、42歳。過所旗を失い、沖合の漁場に出られなくなった。岸からの釣りでは家族を養えず、畑仕事に転じたが、海育ちの体は畑の労働に耐えられなかった。腰を痛め、半年で寝たきりに」
一枚目を読み終えて、次の紙を取った。
「同年の記録。漁師の妻・きよ、38歳。夫が漁に出られなくなり、海藻と魚が食卓から消えた。芋と雑穀で食いつないだが、冬に歯茎から出血が止まらなくなった。薬草を煎じて渡したが、根本の原因——海のものを食べられないこと——は治せなかった」
大広間が静まっている。汐音の声だけが響いている。
一枚ずつ。一人ずつ。名前を読み、年齢を読み、何が起きたかを読む。
「漁師・源六の末子。4歳。生まれたときから海の幸で育っていた。過所旗がなくなってからは、母乳の出が悪くなった母の代わりに薄い粥で育てられた。2年後、風邪をこじらせて——」
汐音の声が、一瞬だけ止まった。
ほんの一拍。息を整えている。次の言葉を出すために。
「——亡くなりました」
声は震えなかった。でも、止まった。その一拍の沈黙が、大広間の空気を変えた。
宗景の顔が強張っている。もう笑みを作る余裕がない。朱音が目を伏せた。涼介が拳を握っている。小豆島の老当主が、目を閉じた。——知っていたのかもしれない。この老人は、50年前のことを覚えている年齢だ。
汐音が最後の紙を取った。
名前の一覧。14人分。
一人ずつ読み上げた。名前と、年齢と、亡くなった年。声が大広間を渡っていく。14の名前が、畳の上に落ちて、染み込んでいく。
読み終えた。
紙を下ろした。
「以上が、祖母が記録した、五十年の裁きによって命を失った人々です」
汐音がわたしの方を見た。目が三日月ではない。まっすぐに開いた目。鞆ノ津の薬師の娘が、因ノ島の血を引く女が、嚴島の大広間で全てを晒した目。
汐音が七家と颯に向き直った。
「わたしは薬師です。人の体を診て、病の原因を探して、治す。それがわたしの仕事です」
声が変わらない。14人の名前を読み上げたときと同じ、静かで、通る声。
「この記録が示しているのは、海を奪われた人間の体に何が起きるか、です。過所旗の剥奪は——病です。制度が作った病です。薬では治せません。海を返すしか、治す方法がない」
汐音が紙の束を掲げた。47枚。祖母の記録。
「瀬名さんはその病の根を断とうとしています。50年ごとに繰り返される制度の病を。——薬師として申し上げます。この人がやっていることは、治療です」
治療。
裁きの場で、薬師が医学の言葉で瀬名を語っている。断罪の対象ではなく、治療者として。汐音にしか言えない言葉だった。祖母の記録を持ち、14人の死を知り、薬師として体と命に向き合ってきた人間にしか。
大広間に沈黙が戻った。
汐音がわたしの隣に戻る。肩が触れた。小さな接触。船の上で肩を寄せたときと同じ。怖い。でも、二人いる。
颯が動いた。
文書を置いて、立ち上がった。七家と海守衆を見渡している。
大広間の全員が颯を見ている。國主の代理。この場で裁定を下す権限を持つ人間。
颯の口が開いた。
「——七家ならびに海守衆の代表に問う」
声が、かすかに震えている。國主の代理の声ではない。屋島で漏れた「僕」の声に近い。
颯は震える声のまま、続けた。
「この申し立てと証言を、いかに受け止めるか。各家の見解を述べよ」




