第38話 安芸の小京都
酒の匂いがする。
潮路丸の舳先が竹原の港に近づくにつれ、潮の匂いの中に甘い香りが混ざり始めている。米を蒸したときの、あのふくよかな甘さ。風向きが変わるたびに濃くなったり薄くなったりして、鼻の奥をくすぐる。酒蔵の町だ。港に着く前から、この町が何で生きているかがわかる。
嚴島から半日の航路。弥山を下りて、御手洗で一泊し、朝の干潮に合わせて出た。凪が舵を取り、暁が帆を操る。わたしは船首に立って、近づいてくる竹原の町を見ていた。
白い。
港の奥に広がる町並みが、白い。白壁の土蔵が通りに沿って並び、格子窓が整然と連なっている。屋根の瓦は灰色で、白壁との境がくっきりしていた。建物の高さが揃っている。二階建て。どの家も同じ高さ。通りの幅も一定で、角ごとに石の水路が走っている。
鞆ノ津のような混沌はない。高松のような威圧もない。商人の矜持で整えられた町だ。格子の意匠が家ごとに微妙に違っていて、同じ形式の中に個性がある。安芸の小京都と呼ばれるのも、頷ける。
「凪、ここで待っていてくれるか」
「いいけど。酒蔵の町で待ちぼうけってのは、あたしの性に合わないね」
「帰りに酒を積む。好きなのを選んでいい」
凪が目を細めた。「交渉上手になったもんだ」
暁は船に残る。竹原家の屋敷に海守衆の若当主が踏み込めば、角が立つ。これは七家の中の話だ。鷲羽家として行く。
暁がわたしを見た。何も言わない。ただ頷く。行ってこい、という目。弥山の火を一緒にくべた翌日とは思えないほど、いつもの暁に戻っている。感情を言葉にしない人だ。だから、あの山での対話が夢ではなかったことを、わたしは目の奥の光だけで確かめる。
*
竹原家の屋敷は、町並みの奥まった場所にある。
通りを抜けるあいだ、酒蔵が三つ続いた。板壁の隙間から、もろみの発酵する匂いが漏れている。さっき港で嗅いだ甘さよりも重く、湿った匂い。鼻の奥にまとわりつく。蔵の前に積まれた米俵の数を数えると、一つの蔵だけで百俵近い。この町の富がどれほどのものか、米俵が語っている。
道を歩く人の身なりがいい。木綿ではなく絹の着物を着た女が、日傘もなしに歩いている。冬の日差しが低く差して、白壁に影を落としている。影の輪郭がくっきりしていて、この町の空気の透明さがわかる。潮の匂いと酒の匂いが交互に鼻を撫でる。不思議な組み合わせだが、竹原では当たり前なのだろう。
屋敷の門は、町家の延長のような造りだった。格子の門扉。瓦屋根。控えめだが隙がない。門番に名を告げると、奥へ通された。
庭が見えた。松と梅。梅はもう散りかけていて、花弁が苔の上に点々と落ちている。白い花弁の上を小さな蟻が一匹歩いていた。その先の書院に、人影がある。
竹原涼介。
七家の宴で見た顔だ。あのとき、朱音の隣で姿勢を硬くしていた若い男。20代後半と聞いているが、もっと若く見える。切りそろえた髪が耳にかかっていて、目が大きい。商人の顔ではなく、学者の顔。帳簿より書物を好みそうな印象が、最初に会ったときからある。
涼介は書院の縁側に座っていた。膝の上に帳簿らしきものを広げている。わたしが庭を渡ってくるのが見えているはずだが、すぐには顔を上げない。帳簿の行に指を滑らせて、何かを確かめてから、ようやく目を上げた。
——数字を途中で放り出さない人だ。
「鷲羽家の瀬名様。遠路ありがとうございます」
立ち上がって、腰を折る。丁寧だが、過剰な恭しさはない。対等の家同士の礼。帳簿を脇に置く手が自然で、慌てた様子がない。来ることを知っていたのだ。文は三日前に出してある。
「竹原のお当主。突然の訪問をお許しください」
「突然ではないですよ。文をいただいてから、ずっと待っておりました」
涼介が笑った。屈託のない笑みだが、目の奥に計算がある。商人の家に育った人間の目だ。笑顔の裏で、相手の値踏みをしている。それを隠さない率直さが、この人の持ち味なのだろう。
書院に通された。
畳の上に膳が置かれる。茶ではなく酒だった。小さな盃に、薄い琥珀色の液体。匂いを嗅ぐと、甘い。酒蔵から漂ってきた匂いの、もっと洗練された形。口に含むと、米の甘さが舌の上で広がって、喉を過ぎるときにほのかな苦みが追いかけてくる。
「うちの新酒です。今年の米は出来がよくて、甘みの乗りが違います」
涼介が自分の盃を傾けながら言う。商人が自分の商品を語るときの声は、他のどんな話題よりも生き生きしている。
「おいしい」
嘘ではない。前世の千尋は酒を飲めなかったが、この体は飲める。瀬名の体が覚えている味がある。瀬都内海の酒は、海の食べ物に合うように醸される。塩気と甘みのバランスが、潮風の中で暮らす人間の舌に合っている。
「——七家の宴でのこと」
涼介が盃を置いた。表情が変わる。商人の顔から、当主の顔へ。
「面白かったですよ、あの提案は。過所旗の制度を開放する。交易の自由化。七家の利害を超えて、瀬都内海全体の繁栄を考える。あのまま潰されたのは惜しかった」
「潰したのは高松家です」
「ええ。高松の宗景殿は——古い方だ。変化を嫌う。自分の手の中に海を収めておきたい」
涼介が窓の外に目を向けた。格子越しに、酒蔵の白壁が見える。
「でも、わたしは——竹原家は、変化を望んでいます」
声が低くなった。盃を持つ手が止まっている。
「父が亡くなって、わたしが当主を継いだのは3年前です。竹原の酒蔵は百年の歴史がある。百年のあいだ、同じ米で、同じ水で、同じ蔵で酒を醸してきた。それは誇りです。けれど——」
言葉を切った。迷っているのではない。どこまで言うかを測っている。
「——百年同じでは、やがて死ぬ。新しい米を試したい。新しい水路を引きたい。東の港に直接売りたい。そのためには、今の制度が邪魔なんです」
今の制度。
過所旗による交易の統制。國主家が発行する過所旗がなければ船を出せない。七家はそれぞれの海域で通行権を持つが、他家の海域を通るには許可が要る。高松家が飛島回廊を封鎖すれば、竹原の酒を東——牛窓や鞆ノ津の先——に運ぶ航路が断たれる。
「鷲羽家として、竹原家に協力を求めに参りました」
わたしは盃を膝の前に置いて、背筋を伸ばした。
「嚴島で王家に申し立てを行いました。五十年の裁きの連環を止める。過所旗の制度を改める。そのために、七家の中で味方が必要です」
「王家に——申し立てを?」
涼介の目が見開かれた。宴での提案とは次元が違う。七家の合議の場で意見を述べるのと、王家に直接申し立てるのでは、意味が変わる。
「連名です。鷲羽家と海守衆の連名で」
「海守衆が——動いたのですか」
涼介が身を乗り出した。帳簿の人ではなくなっている。目に光が宿る。海守衆は七家の外にいる。制度の外にいる。その海守衆が鷲羽家と組んで王家に申し立てた。それがどれほどの意味を持つか、竹原の若い当主にはわかる。
「高松家が飛島回廊を封鎖しました。竹原家の交易にも影響が出ているはずです」
涼介の顔が変わった。笑みが消える。唇が薄く結ばれて、目の奥に怒りとも焦りともつかない色が浮かぶ。
「影響どころではない」
声が硬い。
「東の港に酒を運ぶ船が、2隻戻ってきています。回廊を通れない。迂回すれば日数が倍かかる。日数がかかれば酒が劣化する。春の商いに間に合わない。——竹原にとっては死活問題です」
やはり。
暁と読んでいた通りだ。高松家の封鎖は竹原家を直撃する。竹原の酒は東の市場が主要な販路で、飛島回廊を使えなければ商売が成り立たない。高松家は自家の利害で回廊を封じたが、その余波は竹原にも及ぶ。
涼介はそれを知っていた。知っていて、動けなかった。七家の中で竹原家の力は大きくない。塩と酒で富はあるが、軍事力がない。高松家に真正面から逆らえば、交易そのものを止められる。
涼介がわたしを見た。値踏みの目ではない。判断の目。この娘に乗るか、乗らないか。
「竹原家は鷲羽家を支持します」
静かに言い切った。
「——ただし、表立っては高松に逆らえない。裏で動きます」
「十分です」
わたしが頷くと、涼介の肩から力が抜けた。覚悟を決めた直後の、ほんの一瞬の弛緩。決断そのものは、文を受け取った三日前に済んでいたのだろう。今日は確認だ。鷲羽家の令嬢が本気かどうかを、この目で見て確かめるための。
涼介が盃を取り上げて、酒を注いだ。わたしの盃にも。
「——よい酒が醸せるといいですね、この先も」
涼介がつぶやくように言った。酒造りの話をしている。でもそれだけではない。この海で商いを続けたい。先祖から受け継いだ蔵を、次の世代に渡したい。百年の歴史を、二百年にしたい。涼介の願いは、そこにある。
盃を口に運んだ。二杯目の酒は、一杯目より甘く感じた。
*
竹原家の屋敷を出ると、通りの先に見覚えのある姿があった。
藍色の着物。細い体。髪を後ろで一つに束ねて、肩に薬箱を提げている。
汐音。
足が止まった。汐音もこちらに気づいて、立ち止まる。白壁の通りの真ん中で、十歩の距離を置いて向かい合った。格子窓から差す午後の光が、汐音の横顔を照らしている。
小豆島の潮の道で別れて以来だ。あのとき汐音は、自分が因ノ島家の血を引くことを知ったばかりだった。薬師としての生き方と、海守衆の末裔としての血と、その二つの間で揺れていた。文をやり取りしていたが、顔を合わせるのは久しぶりで——
「瀬名さん」
汐音が駆けてきた。走り方が変わっていない。小さな歩幅で、薬箱が揺れないように片手で押さえながら走る。鞆ノ津の坂道を一緒に登ったときと同じ走り方。
「文を受けて、鞆ノ津から来ました」
息が弾んでいる。でも目が笑っている。
「汐音さん。来てくれたの」
「当然ですよ。瀬名さんが動くと聞いて、じっとしていられるわけがないでしょう」
薬箱を肩から下ろして、通りの端に寄った。白壁に背をもたれて、汐音が息を整える。頬が赤い。走ってきたのだ。船を降りてから、竹原の町を探して。
「鞆ノ津の商人たちにも話しました」
汐音の声が変わる。息の弾みが消えて、芯のある声になる。
「飛島回廊の封鎖に、みんな怒っています。鞆ノ津は自由港です。どの船も受け入れる。どの荷も通す。それが鞆ノ津の誇りで、それで百年やってきた。高松家が勝手に回廊を塞ぐのは、自由港の理念に対する侵害です」
「商人組合が?」
「はい。組合の長老たちが連名で、鞆ノ津は鷲羽家の申し立てを支持すると。正式な文書を預かってきました」
汐音が薬箱の蓋を開けて、封書を取り出す。鞆ノ津の紋が押された和紙。中立だった自由港が動いた。商人たちの怒りが、封鎖によって味方に変わっている。高松家は自らの行動で敵を増やしている。
もう一通、文が届いていた。
涼介の屋敷を辞するとき、使いの者が持ってきた。牛窓の紋。朱音からだ。
封を切る。朱音の筆跡は相変わらず力強い。一筆書きのように迷いがない文字。
「牛窓家は沈黙する。だが邪魔もしない。——頑張りなさい」
短い。朱音らしい。余計なことを書かない。でも「頑張りなさい」の四文字に、あの橄欖園で笑った朱音の顔が重なる。沈黙は、この政治の海では意味を持つ。高松家に加担しないと宣言しているに等しい。積極的な中立。実質、味方だ。
指を折る。
鷲羽家。海守衆——暁と凪。竹原家。鞆ノ津の商人組合。牛窓家が消極的支持。五つ。小豆島家の動向はまだわからない。あの老当主は宴でほとんど口を開かなかった。どちらにつくか、読めない。
高松家と國主家が敵。残りの数家は様子見。
——五分五分ではない。まだ不利だ。でも、嚴島で申し立てをした時点では鷲羽家と海守衆だけだった。竹原から鞆ノ津へ、鞆ノ津から牛窓へ。味方が広がっている。一人で始めたことが、一人ではなくなっている。
*
夜。竹原の酒蔵の裏手。
涼介が宿として用意してくれた離れの縁側に、汐音と並んで座っていた。目の前に中庭がある。小さな庭で、石灯籠が一つと、低い松が一本。灯籠に火が入っていて、松の影が地面に落ちている。風が吹くと影が揺れる。
酒蔵の壁越しに、もろみの匂いがかすかに届く。発酵の甘さ。夜になると、昼よりも匂いが濃くなる。気温が下がって空気が重くなるからだろう。匂いが地面に沈んで、鼻の低い位置まで降りてくる。
「瀬名さん、強くなりましたね」
汐音が言った。膝を抱えて、灯籠の火を見ている。横顔に炎の色が映っている。橙色。汐音の顔は鞆ノ津で初めて会ったときから変わらないのに、纏っている空気が違う。あのときの汐音は薬師の娘だった。今は——何だろう。薬師であることを超えた何かが、この人の中に育っている。
「強くなんかない。仲間が増えただけ」
「それを強いと言うんですよ」
汐音が笑った。口元だけの笑み。目は灯籠の火を見ている。
「わたしは——鞆ノ津で、ずっと迷っていました」
声が低くなる。
「小豆島で知った血のこと。因ノ島家の血。海守衆の末裔。祖母がずっと隠してきた名前。知ってしまったら、薬師のままではいられないかもしれない。でも薬師をやめたら、わたしには何も残らない。薬草と保命酒しか知らない。それしかできない」
汐音の指が膝の上で組み合わさっている。力が入っている。爪の先が白い。
「——でも、瀬名さんが動いているのを見て」
わたしを見た。目が光っている。灯籠の反射ではない。内側から光っている。
「薬師をやめるんじゃない。薬師のまま、戦えると思ったんです」
戦う。汐音がその言葉を使う。鞆ノ津で保命酒を煎じていた汐音の口から。
「瀬名さんが来てくれて嬉しい」
わたしが言うと、汐音の表情が揺れた。口元が震えて、目の縁がほんの少しだけ赤くなる。泣きそうな顔。でも——泣かない。唇をきゅっと結んで、息を吸い込んで、それから笑った。涙の代わりに笑みを選ぶ。強い人だ。前からそうだった。鞆ノ津の對潮楼で、海を見ながら自分の生い立ちを語ったときも、汐音は泣かなかった。
「わたしも戦います。薬師として」
汐音が膝から手を離して、背筋を伸ばした。
「祖母の名前を隠さずに」
因ノ島家。海守衆の第三家。五十年の裁きで滅ぼされた家。汐音の祖母が身を隠して、鞆ノ津で薬師として生き延びた——その血を、汐音が公にする。
「裁きの場で、証言します」
声が震えていない。迷いがない。
「わたしが。因ノ島家の血を引く者として。五十年の裁きが何をしたか。わたしの祖母が何を奪われたか。わたし自身の口で」
灯籠の火が揺れる。風が吹いたのだ。松の影が地面を滑って、汐音の膝にかかった。汐音はそれに気づかない。わたしを真っ直ぐに見ている。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。もっと言うべきことがある気がする。でも言葉が見つからない。汐音が差し出してくれたものの重さに、言葉が追いつかない。証言する。自分の血を明かして、裁きの場で。それがどれほどの覚悟か。因ノ島家の名を出せば、高松家と國主家から狙われる。安全な場所はなくなる。鞆ノ津の薬師の娘ではいられなくなる。
汐音はそれを選んだ。
「ありがとうじゃないですよ」
汐音が笑った。今度は目も笑っている。
「わたしがやりたくてやるんです。瀬名さんのためじゃなくて、祖母のために。そしてわたし自身のために」
縁側の板が冷たい。冬の名残の冷気が尻から背中に上がってくる。でも隣に汐音がいる。同じ冷たさの上に座って、同じ灯籠の火を見ている。
一人ではない。
この言葉を、何度目に思うだろう。鞆ノ津で汐音に出会ったとき。能島で暁に認められたとき。塩飽で潮路丸が海に出たとき。弥山で消えずの火に薪をくべたとき。そのたびに思って、そのたびに少しずつ確かになっていく。一人で始めたことが、一人ではなくなっている。仲間が増えるたびに、できることが増える。
でも——責任も増える。
汐音が証言台に立つ。涼介が裏で動く。朱音が沈黙で援護する。凪が船を出す。暁が潮を読む。みんなが何かを賭けている。わたしの始めたことに、巻き込まれている。いや、巻き込まれたのではない。自分で選んで、来てくれている。だからこそ——失敗は許されない。
*
翌朝。
竹原の港に朝靄がかかっている。白い靄の中に、潮路丸の帆柱が突き出ていた。凪が甲板の上で伸びをしている。一晩船で寝たらしい。
「おはよう、お嬢。いい顔してるじゃないか」
「酒蔵の離れで寝たから」
「あたしは船の上だよ。板の上。背中が痛い」
文句を言いながら、凪の顔は機嫌がいい。甲板の隅に酒の壺がいくつか並んでいた。涼介が見送りの品として積ませたものだ。凪はもう味見をしたらしい。壺の一つの封が切れている。
暁が船尾で帆の具合を確かめていた。風を読んでいる。朝の風は北から吹いている。呉津へ向かうには追い風だ。
汐音が港に立っていた。薬箱を肩に提げて、わたしたちの出発を見ている。
「汐音さんは鞆ノ津に戻るの」
「はい。まだ準備があります。商人組合との調整と——祖母に、話さなければならないことがありますから」
祖母に。因ノ島家の名を公にすると。汐音にとって、裁きの場で証言するよりも、祖母にそれを告げるほうがずっと重いのかもしれない。隠し通した名前を、孫が掘り起こす。守り抜いた沈黙を、孫が破る。
「——嚴島で会いましょう」
汐音が言った。薬箱を肩にかけ直して、背筋を伸ばしている。港の朝靄が汐音の輪郭をぼかしていて、鞆ノ津で初めて会った日を思い出す。常夜燈のそばで、保命酒を差し出してくれた手。あの手が今、別のものを差し出そうとしている。
「嚴島で」
わたしが頷くと、汐音は微笑んで踵を返した。薬箱が揺れながら遠ざかっていく。靄の中に、藍色の背中が溶けていく。
潮路丸が港を離れた。
帆が風を受けて膨らむ。船首が西に向く。次は呉津。軍港の町。鍛冶と造船の技術を持つ町。そしてその先に——関門海峡。
竹原の白壁が遠ざかっていく。酒の匂いが薄れて、潮の匂いに戻る。
仲間が集まりつつある。
嚴島で火をくべ、竹原で味方を得た。鞆ノ津が動き、牛窓が沈黙している。
潮目が変わり始めている。わたしにはそれが見える。この体の目が——千尋の分析と瀬名の感覚が重なった目が——海の色の変化を捉えている。水面の下で、流れが変わっている。まだ表面には出ていない。でも、確実に。
帆が鳴る。風が強くなってきた。春の風だ。冬の名残を払って、新しい季節を運んでくる風。
わたしは船首に立って、西を見た。




