第34話 二つの声
布団の中が温かい。
綿を詰めた掛け布団の重みが、肩から足先まで隙間なく覆っている。千歳が寝る前に湯たんぽを足元に入れてくれた。その温もりがまだ残っていて、指先だけが冷えている。指先はいつも最後まで温まらない。この体の癖だ。千尋の体ではなくて、瀬名の体の。
眠れない。
障子の向こうに月明かりがある。薄い光が格子の影を畳に落としていて、風が吹くたびに庭の木が揺れて影が動く。その影を目で追っている。追いながら、考えている。
春になったら、動く。
塩飽で潮路丸が完成し、光の過所旗が機能することを確かめた。暁と凪と、春になったら動くと約束した。梅がほころびかけている。冬が終わる。終わったら——始まる。
高松家と正面から向き合う。紫雲山の文書を出す。五十年の裁きの連環を、七家の前で暴く。國主家と全面対決になる。颯は——あの人は、助けてくれない。栗林の庭で、それはわかった。
わかっている。全部わかっている。頭の中には順序がある。暁と何度も話し合って、一手ずつ積み上げてきた。建築学科の千尋は構造を組むことが得意だ。計画はある。味方もいる。
なのに——眠れない。
体の奥が、ざわめいている。
胸の下、臍のあたり。あの場所だ。紫雲山の石室で初めて言葉を聞いた場所。「逃げないで」「この海を守って」。あの声が聞こえて以来、体の奥底にもう一人がいる感覚は消えていない。日中は意識しない。船に乗っているとき、暁と話しているとき、千歳と朝餉を食べているとき——日常の表面に隠れている。でも夜、こうして布団の中で一人になると、感じる。
呼吸のたびに、胸の底で何かが揺れている。潮の満ち引きに似ている。わたしが息を吸うと引き、吐くと満ちる。逆かもしれない。どちらがどちらなのか、区別がつかない。
今夜は——いつもより強い。
春が近いからだろうか。体が何かに備えている。わたしの意思とは別の、もっと深いところで。
目を閉じた。
障子越しの月明かりが瞼の裏に淡い明るさを残して、やがて暗くなる。
*
意識が、内側に落ちていく。
眠りに落ちるのとは違う。意識がある。目を閉じているのに、見えている。見えているものが——何もない。暗い。暗いのに、怖くない。
水の底にいるような感覚がある。でも冷たくない。体温と同じ温度の闇。息ができる。息をしているのかどうかもわからない。体がない。体がないのに、ここにいる。
匂いがする。
潮の匂い——ではない。もっと古い。海の底に積もった時間の匂い。千年分の砂と貝殻と、流れ着いたものが混ざり合って、一つの匂いになっている。この匂いを知っている。瀬名の体が覚えている匂い。子どものころ、鷲羽の浜で潮が引いた後の砂浜に顔を近づけたときの——
わたしの記憶ではない。
声が聞こえた。
自分の声だった。自分の声だが、自分が話していない。口が動いていない。口がない。声だけがある。暗闇の中に、わたしと同じ声が浮かんでいる。
「——あなたは、誰?」
心臓が跳ねた。心臓がないのに。体がないのに、胸の真ん中に衝撃が走る。
声の主を探す。暗い。どこを見ても暗い。上も下もない。右も左もない。でも声は近い。すぐそばにいる。手を伸ばせば届く距離——手がないのに、そう感じる。
答えなければ。
でも何と答える。わたしは誰だ。園部千尋。建築学科の大学3年生。瀬戸内を旅していて、水鏡に落ちて、この体に来た。——そんな説明が、ここで意味を持つだろうか。
口が動く。口がないのに、声が出る。
「……千尋。園部千尋」
沈黙。闇の温度が、ほんの少しだけ変わった気がする。温かくなったのではない。密度が変わった。空気が——いや、空気ではないものが、詰まった。
「千尋」
わたしの名前が、わたしの声で、わたしではない誰かに呼ばれる。奇妙な感覚だ。自分の声を録音して聞いたときの違和感に似ている。でも録音よりもずっと近い。骨を伝って響いてくるような。
「あなたは……ずっとここにいたの?」
わたしが訊いた。声が闇に吸い込まれて、反響しない。壁がない場所だ。どこまでも続く暗い水の中で、二つの声だけが浮かんでいる。
返事が来るまでに、間があった。考えている間ではない。言葉を探している間だ。ずっと黙っていた人間が、久しぶりに声を出そうとして、喉の使い方を思い出そうとしている——そういう間。
「ずっと」
短い。一語。でもその一語に、途方もない時間が圧縮されている。
「目が覚めたとき、あなたがいた。わたしは……沈んだ」
沈んだ。
その言葉を聞いて、頭ではなく体が反応した。体がないのに。臍のあたりが——あの、ざわめきの場所が——きゅっと縮む。
目が覚めたとき。鷲羽の屋敷で、天井の木目を見上げたとき。あの朝。千歳が「お嬢様」と呼んで、わたしが何のことかわからなかったとき。あのとき——瀬名は沈んだのだ。自分の体の中で、底のほうに。千尋が表面を占めて、瀬名は押し出されたのではなく、沈んだ。
「ごめんなさい」
口から出た言葉は、考えて選んだものではなかった。
「謝らないで」
瀬名の声が返ってきた。今度は早い。迷いがない。
「あなたが来なければ、わたしは裁かれていた。何もできずに。何もわからないまま」
——知っていたのか。
断罪の運命を。五十年の連環を。瀬名は、知っていたのか。
「知らなかった。何も。でも……感じていた。空気が変わっていくのを。父の顔が、月ごとに険しくなるのを。高松家の使者が来るたびに、屋敷の空気が冷えるのを。何かが近づいている。それだけは、わかっていた」
瀬名の声は静かだ。わたしの声と同じ音なのに、響き方が違う。もっと深いところから出ている。長いあいだ黙っていた人間の声には、抑え込んだ時間の重さが乗っている。
「あなたが——海を渡るのを、見ていた」
見ていた。
全部。鞆ノ津で汐音に出会ったときも。來嶋ノ瀬戸で凪に船から突き落とされたときも。能島で暁の前に立ったときも。紫雲山の石室で五十年の裁きの文書を読んだときも。
瀬名はずっと、この体の奥から見ていた。
「あなたは、わたしにはできなかったことをしている」
声が揺れた。初めて。ここまでの瀬名の声は静かで、平らで、水底の石のように動かなかった。今、揺れている。感情が言葉の表面に滲んでいる。
「島を巡って。人と話して。海守衆に飛び込んで。制度を壊すと——決めた」
わたしは黙っている。何も言えない。瀬名が見ていたのだと思うと、今までの行動の一つ一つが別の重みを持つ。わたしは千尋の判断で動いていた。建築学科の分析力で構造を読み、ゲームの知識で人間関係を予測し、計画を立てて実行した。全部、千尋の能力だ。
でもこの体は——瀬名のものだ。
瀬名の足で島を歩き、瀬名の手で舵を握り、瀬名の目で海を見てきた。
「あなたが呼んだから」
言った。紫雲山の石室で思ったことを。
「水鏡を通して。あなたがわたしを呼んだから、ここに来た」
長い沈黙。
闇の温度がまた変わる。今度は——冷えた。ほんのわずか。水底の水温が、一度だけ下がるような。
「……わからない」
瀬名の声が小さくなった。
「無意識だったかもしれない。水鏡のことも、呼んだことも、覚えていない。ただ——」
間。
「この海を、守りたかった。それだけは確か」
その言葉が、闇の中に落ちた。水面に石が落ちるように。波紋が広がる。目に見えないのに、波紋を感じる。瀬名の言葉が広がっていく。暗い水の底を、同心円状に。
守りたかった。
瀬名はこの海を守りたかった。生まれてからずっと見てきた瀬都内海を。鷲羽の浜から見える島影を。潮の匂いを。船の行き交う水面を。父が守ろうとして守りきれなかった、この海の暮らしを。
「わたしも」
声が出た。千尋の声で。瀬名の体から。
「この海と暮らしたいと思った。前世で」
父母ヶ浜。天空の鏡。水面に映った空と雲と、自分の影。あの夕暮れに、千尋は思った。ここにいたい、と。この海のそばで、建築を学んで、港を作って、海と一緒に暮らしたい、と。
それが——願いだった。千尋の願い。強いとか弱いとか、そういう尺度では測れない。ただ骨の芯まで染みている想い。この海と暮らしたい。
「同じだ……」
瀬名がつぶやいた。
同じ海を、違う世界から、違う人間が、同じように愛していた。瀬名は「守りたい」。千尋は「暮らしたい」。守ることと暮らすことは違う。でも根は同じだ。この海がなくなったら、どちらの願いも消える。
重なっている。二つの想いが、この暗い場所で重なっている。
「千尋さん」
瀬名が名前を呼んだ。さっきとは違う。さっきは確認だった。今は——呼びかけだ。
「——わたしの体を、使って」
闇が震えた。
瀬名の声に、覚悟が乗っている。長い時間をかけて、水の底で、一人で考えて、辿り着いた覚悟。千尋が島を巡るのを見ながら、暁と話すのを聞きながら、制度を壊すと決めるのを——見守りながら、瀬名が自分の中で育てた答え。
「借りているのよ」
わたしの声が震えた。
「違う」
瀬名の声は震えていない。
「借りているんじゃない。一緒にいる。二人で、一つの体にいる」
一緒にいる。
その言葉が胸を打った。胸がないのに。体がないのに。闇の中で、わたしの存在のいちばん深いところに、瀬名の言葉が届いた。
借り物だと思っていた。ずっと。この体は瀬名のもので、わたしは間借りしている。いつか返さなければならない。あるいは——いつか追い出されるかもしれない。その恐れがどこかにあった。口にしたことはない。暁にも、凪にも、千歳にも。でも体の隅に、いつもその恐れが蹲っていた。
瀬名はそれを知っていたのだろうか。体の奥から、千尋の恐れも見えていたのだろうか。
泣いている。
闇の中で。体がないのに、涙を感じる。目から頬を伝って、顎の先から落ちる——その感触がある。実際に涙が流れているのかどうかはわからない。ここには体がない。でも泣いている。確かに泣いている。千尋として。瀬名の言葉を受けて。
「何を守りたいか」
声が出た。泣きながら。亀老山で亀老翁に問われた言葉。あのとき答えられなかった問い。紫雲山で瀬名の声を聞いたとき、輪郭だけが見えた答え。
「——わかった気がする」
この海。
この人たち。千歳。汐音。暁。凪。父。朱音。仙酔。亀老翁。この制度の下で息をしている人たち。この海で船を出し、魚を獲り、塩を作り、酒を醸し、歌を詠み、木を削り、帆を張り、潮を読む人たち。
そしてこの制度を——五十年ごとに誰かの人生を奪う連環を——壊す。壊して、この海をこの海のままにする。
「二人分の想いで」
声は一つしか出ない。この体の声は一つだ。でも今、その一つの声の中に、二人分の想いが重なっている。千尋の「暮らしたい」と、瀬名の「守りたい」が、同じ声になっている。
闇が薄くなり始めた。
意識が体の表面に戻ろうとしている。瀬名の気配が遠ざかっていく。消えるのではない。ただ——近さの質が変わる。声が聞こえる距離から、気配を感じる距離へ。
「瀬名」
呼んだ。名前を。わたしの名前でもある名前を。
返事はなかった。でも——闇のいちばん深いところで、何かが温かくなった。同意でも肯定でもない。ただ、ここにいる、という温度。
*
目が開いた。
天井の木目が見える。鷲羽の屋敷の、自室の天井。節が二つ並んでいるところ。毎朝最初に見る景色。同じ天井。同じ木目。
でも——見え方が違う。
節の形が、前よりはっきりしている。木目の流れが一本一本読める。今まで漠然と「天井」だったものが、木の繊維の集まりとして見えている。瀬名の目だ。幼い頃からこの天井を見上げてきた目が、千尋の意識と重なって、木目を読んでいる。
頬が濡れている。
指で触れた。涙の跡。乾きかけていて、肌が突っ張る感触がある。泣いていたのだ。あの闇の中で流した涙が、この体にも流れていた。
起き上がった。布団を剥ぐと、朝の冷気が首筋に触れる。冷たい。2月の朝だ。でも湯たんぽの残り熱が足元にまだある。
体が——違う。
何が違うのか、すぐにはわからない。重さは同じだ。手を握って開く。指が動く。いつもと同じ。膝を立てて、立ち上がる。足の裏が畳に触れる。いつもと同じ。
でも——馴染んでいる。
今まで、この体にはどこか他人の服を着ているような感覚があった。サイズは合っている。動かせる。不便はない。でも「自分のもの」ではない微かなずれ。袖の長さが5厘だけ合わないような、そういう違和感。
それが——薄くなっている。消えてはいない。でも薄い。昨日までの半分くらいになっている。体がわたしを受け入れ始めている。わたしも、体を受け入れ始めている。
廊下から足音が聞こえた。
千歳の足音だ。小さくて、速くて、等間隔。朝餉の膳を運んでくる足音。毎朝同じ時刻に、同じ速さで来る。
襖が開いた。
「お嬢様、朝餉のご用意が——」
千歳の声が途切れた。膳を持ったまま、入口で止まっている。
「どうしたの」
「お顔の色が——」
千歳がわたしの顔を見ている。膳を持つ手が微かに傾いている。こぼれはしない。千歳の手は、感情が揺れても膳をこぼさない。でも傾いている。
「少し違いますか」
「はい。なんだか……穏やかです」
穏やかか。そう見えるのか。
千歳が膳を置いて、水差しと手拭いを持ってきた。顔を洗う。水が冷たい。2月の井戸水の冷たさ。指先が痺れる。手拭いで拭いて、鏡を見た。
鏡台の中に、わたしがいる。
藍色の目。いつもと同じ色。瀬名の目。この世界に来てから毎朝見てきた、鷲羽家の令嬢の顔。髪が少し乱れていて、目の周りがわずかに腫れている。泣いた跡。
でも——目の奥に。
何かがある。自分の目なのに、自分だけではない気配がある。奥のほうに、もう一人。消えていない。いなくなってもいない。一緒にいる。この目の奥に、瀬名がいる。
鏡から目を離した。
窓の障子を開ける。朝の光が差し込んで、畳の上に四角い明るさが落ちた。庭が見える。
梅が咲いている。
昨日までつぼみだったのに。固く閉じていた花弁が、朝の光の中でほころんでいる。白い。淡い白。五枚の花弁が、冬の空気の中でそっと開いている。一輪ではない。枝のあちこちに、三つ、五つと。
匂いが届く。梅の匂い。甘くはない。清い。冷たい空気の中に、凛とした香りが一筋通っている。
春が来た。
冬を越えて、春が来た。紫雲山の裸の桜も、いずれ花をつけるだろう。3000本の桜が山を覆う日が来る。
でも今は、梅だ。桜より先に、梅が咲く。控えめに、静かに、冬の終わりを告げている。
「千歳」
「はい」
「——春になったわ」
千歳がわたしの隣に来て、庭を見た。梅の白い花を見て、小さく息を吐いた。
「はい。春でございますね」
千歳の声が柔らかい。この人は冬が苦手だ。寒い季節になると手が荒れて、指先にあかぎれができる。それでも毎朝欠かさず膳を運び、着物を整え、湯たんぽを入れてくれた。この冬のあいだ、ずっと。
梅の香りが、朝の空気に溶けていく。
わたしの中で、もう一人の気配が——静かに、温かく——息をしている。




