第20話 醤油蔵と、寒霞渓の影
朝の光が蔵の格子窓から漏れている。
格子の隙間が細くて、光は糸のように何本も並んで床に落ちる。蔵の外は秋晴れだというのに、中はほとんど闇だった。目が慣れるまで、入口で立ち止まるしかない。
醤油の匂いが、壁になって押し寄せてくる。
昨日、港に着いたときから匂っていた。でもあれは遠くの残り香であって、蔵の中のこれとは別物だ。大豆と麦が発酵した甘さ、塩の鋭さ、木樽に染みついた何十年分の酸味——それらが混ざり合って、鼻ではなく喉の奥に届く。息を吸うのではない。匂いのほうが体の中に入ってくる。
「ここで3年かけて醸造するんです」
蔵の主人——白髪交じりの壮年で、背が低く肩が異様に広い——が松明を持って先を行く。火の揺れで樽の影が壁を這い回る。樽は人の背丈を超えていた。直径は両手を広げた長さより大きい。前世の千尋が見た醸造所のステンレスタンクとは比較にならない。杉板を竹の箍で締めた、この世界の職人の手仕事だ。
建築学科の目が反応する。樽の木目の走り方、板と板の合わせ目の精度、箍の間隔。均一ではない。一つひとつ微妙に違う。つまり手で削って、手で合わせている。この蔵だけで樽が20を超えている。そのすべてが手作業。
「混ぜるのは1日2回。夏は発酵が速いから少なめに、冬は遅いから多めに」
蔵の主人が樽の一つの蓋を外した。木の蓋は厚く、両手で持ち上げて横にずらす。ずしりとした重さが伝わる。
中を覗くと、黒い液体がゆっくりと泡を立てている。小さな泡が一つ浮かんでは割れ、また一つ浮かぶ。音はない。目を凝らさなければ見えないほど小さい。でも——生きている。この液体は呼吸している。
「3年やって、ようやく味が落ち着く」
蔵の主人が細い竹の棒で液面をなぞった。粘度がある。棒を引き上げると、黒い雫が糸を引いて落ちる。その動きの遅さに、3年という時間が凝縮されている。
——3年。
潮術の習得に10年かかると暁が言っていた。保命酒の熟成にも年月がかかると汐音が教えてくれた。急いでは作れないものが、この世界にはある。この蔵の闇の中で、何十もの樽が静かに呼吸しながら3年を過ごしている。前世にはなかった時間の重さ。
「瀬名さん、見てください」
汐音が隣の樽を覗き込みながら手招きした。蔵の暗がりの中で、汐音の横顔に格子窓の光が一筋だけ当たっている。
「この樽の匂い、さっきのと少し違いませんか。熟成の年数で香りが変わるんですね。薬草と同じです——時間が味を変える」
嬉しそうに目を細めている。薬草の話になると早口になる癖は変わらない。けれど今日の汐音は、昨日の潮の道を歩く前とは少しだけ違う。わたしに見せたいものがあるときの、あの遠慮がちな横目がない。まっすぐこちらを見て、手招きをしている。
秘密を預け合ったからだろう。
昨日の砂の道で互いに打ち明けたことが、二人の間にあった薄い膜を溶かしたのだ。打算で始めた関係だった。それが今、醤油蔵の暗がりで並んで樽を覗いている。友達として。
*
蔵を出ると、秋の陽が目を灼いた。
闇に慣れた目には光が痛い。千歳が日傘を差し出してくれた。「お嬢様、少しお休みになりますか」と気遣う声に首を振る。
汐音が薬草の仕入れに行くと言った。蔵元の裏手に小さな薬草問屋があるらしい。
「一緒に行きましょうか」
昨日までなら、汐音は遠慮して「お待ちください」と言っただろう。でも今日は違った。
「ぜひ来てください。面白いものがありますよ」
薬草問屋は蔵元の小道を抜けた先にあった。石垣の上に建てられた平屋で、軒先に束ねた草が何十種類もぶら下がっている。乾燥した葉の匂いが風に乗って漂う。さっきの醤油蔵の重い匂いとはまるで違う、軽くて苦い匂い。
汐音が店の奥から出てきた老婆と親しげに言葉を交わしている。季節ごとに来ていると言っていた。顔なじみなのだろう。老婆が棚から包みを取り出し、汐音が中身を確認する。薄い紙に包まれた根が入っている。汐音がそれを手に取り、指で折って断面の色を見た。
「この艶がいいんです。秋に採った根は水分が抜けきっていなくて、断面がまだ少し光るんですよ」
見せてくれた断面は、確かに内側がわずかに湿って光っている。乾物のようでいて、中に命が残っている。さっきの醤油と似ている。どちらも、死んだ材料ではなく生きている何かだ。
「保命酒にはこの根が欠かせないんです。小豆島のものは土が違うから、鞆ノ津の近辺のものとは味が変わる。土地が違えば薬効も変わる——祖母がそう言っていました」
祖母。因ノ島家の血を引く祖母。昨日まで汐音はこの言葉を口にするとき、少しだけ声を落としていた。今日はそうしなかった。わたしの前では、もう隠す必要がないのだと——その信頼が、声の調子に出ている。
わたしは黙って根の断面を見つめた。返す言葉を探すよりも、この瞬間を受け止めていたかった。
仕入れを終えた汐音が、木箱を2つ抱えている。小さいが、薬草は嵩のわりに重い。千歳が手を出そうとしたが、汐音は笑って断った。「これはわたしの荷物ですから」と言って、しっかり抱え直す。
蔵元の裏手から丘に上がる。小豆島の内陸に入ると、斜面がオリーブの段々畑になっていた。銀色の葉が風に揺れて、乾いたさらさらという音が耳に残る。見渡す限りの銀色。海沿いの景色とも、鞆ノ津の坂道とも違う色だ。
畑の間を抜ける小道を歩く。足元の土は赤い。オリーブの根が土を押し上げて、道の端がところどころ盛り上がっている。踏むと硬い。乾いた土地で、木々が地中深くまで根を張っている証拠。
「小豆島の土は花崗岩が風化したものだそうです。水はけがいいからオリーブに向いているんですよ」
汐音が説明してくれる。薬草だけでなく、植物全般に詳しい。薬師として当然なのだろうが、話しているときの目の輝き方が専門家のそれだ。
千歳が少し遅れて歩いている。護衛の家臣が千歳の隣について、周囲を見回している。昨日の旅では千歳も少し緊張を解いていたが、今日は違う。小豆島は高松家の領域に近い。父の言葉を思い出す——「気をつけろ」。
*
午後、寒霞渓に向かった。
小豆島の中央にそびえる渓谷。紅葉の名所だと汐音が言っていた。まだ秋の入口だが、山の上のほうから色づき始めているらしい。
港から山道に入ると、空気が変わる。潮の匂いが薄れて、土と落ち葉の匂いに替わった。足元の道は石が敷かれているが、苔が乗っていて湿っている。草履の裏が滑りそうになるたびに、足の指に力を入れる。
山道は次第に急になった。
道の脇に岩壁が迫ってくる。花崗岩と安山岩が層を成して、垂直に切り立っている。建築学科の目が岩の成り立ちを読もうとする。水と風が何万年もかけて削った岩壁だ。人の手では作れない造形。壁面のくぼみに赤い楓がしがみつくように生えていて、根が岩の割れ目に食い込んでいる。
「瀬名さん、足元に気をつけてください」
汐音が振り返った。木箱は宿に置いてきたが、代わりに小さな布袋を腰に下げている。道端の薬草が目に入ったら摘むつもりなのだろう。
登るにつれて風が強くなる。渓谷の底から吹き上げてくる風だ。冷たい。夏の名残を剝ぎ取って、肌の上を走り抜けていく。着物の袂が煽られて、千歳が両手で押さえた。
「お嬢様、もう少しで展望の開ける場所に出ます」
護衛の家臣が先行して道を確認してくれている。曲がり角の向こうに光が差しているのが見えた。
道が開けた瞬間、息を呑んだ。
渓谷が、足元から落ちている。
垂直に近い岩壁が数十メートル下まで続き、その底に細い沢の筋が白く光っている。岩壁の対面にも同じ高さの崖がそびえていて、二つの壁の間に渓谷が走っている。その壁面を——紅葉が覆っていた。
赤い楓。黄色の銀杏。まだ緑の残る木々。3色が斜面を染め分けている。上のほうが赤く、下に向かって黄、さらに下は緑。秋が山頂から降りてくる途中を、そのまま目にしている。渓谷の向こう——はるか遠くに、瀬都内海の青い水面が覗いていた。
前世で見たことのない景色だった。千尋としての7日間の旅に小豆島は入っていなかった。建築を見て回る旅であって、自然の景勝地は予定に入れていなかった。この渓谷を見るのは、千尋としても瀬名としても初めてだ。
「きれい……」
汐音が立ち止まって、渓谷を見下ろしている。
風が髪を攫って、視界の端で黒い髪が揺れる。汐音の横顔に光が当たっている。紅葉の赤い光を反射して、頬がほんのりと染まって見える。
しばらく、誰も何も言わなかった。言葉を挟む余地のない景色だった。
「瀬名さん。あそこに——」
汐音の声が変わった。
柔らかさが消えて、硬い声。渓谷の向こう側を指差している。
岩壁の上に、人影がある。3人。こちらを見ている——ように見える。距離があって顔は識別できないが、着物の色はわかる。2人は灰色の旅装。もう1人は——紫。
「あの紫は」千歳が声をひそめた。「高松家の色でございます」
高松家。
胸の中で何かが締まる。父が「気をつけろ」と言っていた。高松家の領域に近い島。偶然か、それとも——。
向こう側の人影が動いた。渓谷沿いの道を、ゆっくりとこちらに向かってくる。
逃げることはできる。山道を引き返せば港に出られる。でも走れば不自然だ。ここにいる理由は薬草の仕入れであって、後ろめたいことはない。逃げれば、逃げたという事実だけが高松家の手に残る。
「千歳。そのままの速さで歩いてください」
「かしこまりました」
千歳の声が低い。護衛の家臣が自然な動きでわたしの斜め後ろに回った。手は何も持っていないが、腰の位置が変わっている。
汐音がわたしの隣に並んだ。表情は穏やかなまま。でも、腰の布袋を左手で押さえている。右手を空けている。薬師の手が、無意識に身構えている。
渓谷の曲がり角で、鉢合わせた。
紫の上衣を着た男。40代くらい。痩せていて、頬骨が高く、目が細い。笑顔を浮かべている。だが笑っているのは口元だけで、目は笑っていない。温度のない顔。能面に描かれた笑みに似ている。
「おや。鷲羽のお嬢様ではございませんか。小豆島でお会いするとは」
声も薄い。言葉の表面だけが丁寧に磨かれていて、その下に何もない。空洞を絹で包んだような声。
「……どなたでしょう」
知らない顔だ。高松家の主要な家臣の名は父から聞いているが、目の前の男はその中にいない。あるいは、名を聞いたことがあっても顔を合わせたことがない人物か。
「高松家の家臣、高松勘兵衛と申します。小豆島の交易視察に参りまして」
交易視察。こちらの行動を探りに来たと言い換えて差し支えない。小豆島は高松家の勢力圏の縁にある島だ。鷲羽のお嬢様がここで何をしているか——それを確認しに来ている。
二人の供が勘兵衛の後ろに控えている。灰色の旅装で、腰に小さな刃物を帯びている。帯刀ではない。護身用の小刀。でも勘兵衛自身は丸腰に見える。
「こちらは薬草の仕入れの同行です。鞆ノ津の薬師殿と」
汐音を示した。
勘兵衛の目がわずかに動いた。わずかだが、確実に。汐音を見て——見ている。視線が汐音の顔から首元、腰の布袋、足元と流れて、もう一度顔に戻った。何かを確認するように。値踏みとは少し違う。知っている顔を見つけたときの、照合するような目つき。
「鞆ノ津の薬師。汐音堂の方ですかな」
汐音の名を知っている。
汐音堂は鞆ノ津の薬種問屋だ。大きな店ではない。鞆ノ津の中では知られていても、他の島まで名前が届く規模ではない。それを高松家の家臣が知っている。偶然ではないだろう。
「……はい」
汐音が答えた。声は落ち着いている。だが手が——右手の指先が、わずかに握られている。さっきまで空けていた右手。
「それはそれは。保命酒は我が殿も好んでおられます」
勘兵衛が一歩近づいた。距離を詰めるというほどではない。でも会話の間合いが、ほんの少し狭くなった。
「——ところで、鷲羽のお嬢様」
勘兵衛の笑顔が深くなった。口角がさらに上がる。目はそのまま。温度差がさらに広がる。
「近頃、海守衆の当主方とお会いになっていると伺いました。来島の凪殿、巳嶋の暁殿。熱心なことでございますな」
——やはり。
知っていた。わたしの行動を追っている。凪に会ったこと、暁に会ったこと。それがどこから漏れたのかは問題ではない。瀬都内海は狭い。船の行き来を見ていれば、誰がどこを訪ねたかはわかる。
「交易について意見を交わしているだけです」
「ええ、ええ。交易は大事でございます」
同意しながら、首をわずかに傾ける。その傾げ方が——否定の符号だった。言葉で同意しながら体で否定する。このやり方は官僚のそれだ。前世の千尋が就活の面接で見た、人事部長の表情に似ている。
「ただ——」
勘兵衛が声を半音下げた。
「鷲羽のお嬢様が海守衆と親しくなさっているという話は、國主家のお耳にも入っております。世子殿下も——ご心配なさっておいでとか」
颯が。
許嫁の颯が、わたしの行動を「心配」している。心配という言葉の裏にあるのは監視か、それとも——。いや、今はそれを考える場ではない。
勘兵衛の視線がもう一度汐音に流れた。一瞬。ほんの一瞬だが、今度は明確に汐音の目を見ている。汐音は勘兵衛の視線を受けて微動だにしなかった。表情を変えず、ただ立っている。
——この男は汐音の何を知っている。
汐音堂の名を知っているだけか。それとも——因ノ島の血を、知っているのか。
「勘兵衛殿。わたしの行動について、ご心配いただく必要はありません」
声を平らに保った。感情を乗せない。乗せれば相手に読まれる。
「もちろん、もちろん。ただ、老婆心ながら申し上げますと——」
勘兵衛の笑みが固定された。動かない笑み。塗り物の面のように。
「50年前にも、七家と海守衆が近づきすぎたことがございました」
空気が変わった。
渓谷を吹き上げる風が、このときだけ止まった気がした。紅葉が揺れない。汐音の髪が揺れない。静止した一瞬の中で、勘兵衛の言葉だけが響いている。
「そのときは——」
言葉を切った。笑顔のまま。
続きを言わない。言わないことで、聞く側に想像させる。50年前に何が起きたか——五十年の裁き。潮守家が消された。海守衆との関係が近すぎたという理由で、一つの家が潰された。
この男は知っている。そしてそれを、牽制として使っている。脅しではない。脅しなら直接言う。これは牽制だ。「知っていますよ」と見せることで、行動を萎縮させようとしている。
勘兵衛の目が、最後にもう一度わたしを見た。笑顔のまま。
「お気をつけてお帰りくださいませ。山道は、暗くなると危のうございます」
頭を下げて、去っていった。2人の供が後に続く。灰色の旅装が渓谷の道を下っていく。紫の上衣が、紅葉の赤い背景の中で異質な色を放ちながら遠ざかる。
渓谷の曲がり角を曲がって見えなくなるまで、わたしは動かなかった。
*
紫の影が消えて、しばらく経ってから空気が動いた。
渓谷の底から風が戻ってきて、汐音の髪を揺らした。千歳が小さく息を吐いた。護衛の家臣の腰の位置が元に戻る。
汐音が口を開いた。
「……怖い人でしたね」
声は穏やかだが、右手がまだ握られている。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
汐音がわたしを見た。目が真剣だった。昨日、潮の道で秘密を話したときと同じ目。
「でも——高松家は、瀬名さんのことを見ていますね」
「ええ」
「あの人、わたしのことも見ていました」
汐音の声が低い。自分で気づいていたのだ。勘兵衛の視線が自分に何度も流れたことを。照合するような、確認するような目つきを。
「汐音さん。あの人が汐音堂の名を知っていたこと——どう思いますか」
「保命酒が有名だから、という理由では足りませんね」
汐音が首を振った。顔は前を向いたまま。
「父が隠してきたことが——もし知られているなら」
祖母のこと。因ノ島家の血。海守衆の末裔であること。汐音は言葉にはしなかったが、意味は通じている。
「まだわかりません。でも——気をつけましょう」
わたしが言えるのはそれだけだった。汐音を守ると言い切れるほど、わたしには力がない。ただ、知っている。敵の形が少しずつ見えてきている。
千歳が近づいてきた。
「お嬢様。そろそろ山を下りませんと、港への道が暗くなります」
「ええ。帰りましょう」
寒霞渓の紅葉に背を向けて、山道を下り始めた。登りよりも足元が怖い。苔の乗った石が下りでは余計に滑る。千歳がわたしの腕を支えてくれた。護衛の家臣が先行して、危ない石を避けてくれる。
汐音が黙って歩いている。さっきまでの薬草の話も、景色への感嘆もない。勘兵衛の視線が、まだ背中に残っているのだろう。わたしも同じだ。あの温度のない笑顔が、目の裏に貼りついている。
*
帰りの船は、来たときと同じ交易船だった。
甲板に座って、遠ざかる小豆島を見ている。山の稜線が夕暮れの空に黒く浮かんでいる。寒霞渓の渓谷は山の中腹にあるはずだが、海からは見えない。あの紅葉も、あの岩壁も、あの紫の影も——海の上からは何も見えない。
船が港を出ると、波が出た。行きよりも風がある。北西の風。秋の風が強まっている。甲板に座っていると、飛沫が時おり顔にかかる。塩辛い。
汐音は船室に入った。薬草の荷を確認すると言っていたが、一人になりたいのだろうと思った。
千歳がわたしの隣に座った。
「お嬢様。先ほどの高松の者——勘兵衛と名乗りましたが、わたくし、あの名に覚えがございます」
「覚えが?」
「旦那様が——お父上が以前、書状の中で触れておられました。高松家の庶流で、國主家との連絡役を務めている者だと」
國主家との連絡役。つまり高松家と王家の橋渡しをしている人間だ。交易視察という名目は嘘ではないかもしれない。だが、この島でわたしと「偶然」会ったことは——偶然ではない。
「千歳。父上に報告の手紙を書きます。鷲羽に着いたらすぐに」
「かしこまりました。船中で下書きをなさいますか」
「いえ。もう少し考えてから」
何を書くべきか。勘兵衛に会ったこと。五十年の裁きをほのめかされたこと。颯の名が出たこと。そして——勘兵衛が汐音を見ていたこと。
父に汐音の祖母の話をするべきか。いや、それは汐音の秘密だ。昨日預かったばかりの秘密を、翌日に父に渡すわけにはいかない。勘兵衛の不審な視線だけを伝える。判断は父がする。
寒霞渓の紅葉を思い出す。赤と黄と緑。3色が重なる美しい景色の中に、紫が立っていた。
この旅は楽しかった。汐音と潮の道を歩いて、秘密を預け合って、友達になった。醤油蔵の暗がりで並んで樽を覗いて、オリーブの丘を歩いた。楽しかった——その感情は嘘ではない。
でも、楽しいだけでは済まないのだ。
政治が、景色の向こう側に立っている。紫の上衣を着て、温度のない笑顔で。この海を渡るかぎり、どこにいても見られている。
船の舳先が波を切る音が、規則正しく響いている。暗くなり始めた海の上を、船は鷲羽に向かって進んでいる。
父に報告しなければ。
高松家が動いている。そして——わたしの周りにいる人間まで、見られ始めている。




