第7章 爪
最初に異変を感じたのは、
音だった。
夜の倉庫街。
人の気配はない。
なのに――金属が、軋む音がする。
俺の、すぐ近くで。
「……来てるな」
ポケットの中で、宝珠が熱い。
今までより、はっきりと。
闇が、濃い。
倉庫の影が、ゆっくりと盛り上がる。
人の形。
いや、人“だった”形。
複数だ。
「……多いな」
逃げ場はある。
走ればいい。
でも――
背後のフェンスの向こうに、
人影が見えた。
帰り道のサラリーマン。
イヤホンをつけ、こちらに気づいていない。
「……チッ」
考える前に、宝珠を握った。
紅蓮の小手が、片手に現れる。
いつもの感触。
影が、一斉に動く。
殴る。
叩く。
弾く。
闇は砕けるが、
数が減らない。
「……終わんねぇぞ、これ」
息が荒くなる。
そのとき――
背後から、声がした。
「下がって!」
振り返る。
あの“知りすぎた”少年だ。
刀を構え、距離を詰めてくる。
「来るな!」
「無理だ、数が――」
言葉の途中で、
影の一つが、少年の背後に伸びる。
「っ!」
考える暇はなかった。
少年を庇うように、
俺は前に出た。
その瞬間。
――もう一つ、音がした。
骨が、軋むような。
肉が、引き裂かれるような。
「……っ、なに……」
両腕が、熱い。
視界の端で、
紅蓮の光が――
両腕に、広がった。
小手が、もう片方の腕にも。
そして。
指先から、
小さな――爪のようなものが、伸びていた。
「……は?」
一瞬、理解が追いつかない。
だが、闇は待ってくれない。
爪を振る。
触れただけで、
影が――裂けた。
砕けるのではない。
切り裂かれる。
「……やりすぎだ……!」
少年が叫ぶ。
俺自身も、そう思った。
力が、
前より――
はっきりと“快い”。
それが、怖かった。
最後の影が消えたとき、
倉庫街は静まり返っていた。
息が、うまくできない。
「……外れない」
小手が、外れない。
爪も、消えない。
俺は、必死に指を動かす。
だが、紅蓮の装甲は、
皮膚の一部みたいに馴染んでいる。
「……落ち着け」
少年が、距離を取りながら言う。
「それ、戦いが終わるまで……」
「知ってる」
声が、低くなる。
自分の声じゃないみたいだ。
フェンスの向こうで、
サラリーマンが、こちらを見ている。
いや――
見ていない。
視線は、俺を素通りしている。
それなのに。
近づきたい。
触れたい。
――試したい。
「……やめろ」
誰に言ったのか、分からない。
俺自身に、かもしれない。
宝珠が、熱を持つ。
脈打つ。
まるで――
続きを、望んでいるみたいに。
少年が、静かに言った。
「……それでも、お前は」
「分かってる」
俺は、目を閉じる。
「人は、斬らねぇ」
言葉にした瞬間、
紅蓮の光が、少しだけ――
沈んだ。
爪が、短くなる。
小手が、
音もなく――
宝珠の中へ、引き戻される。
膝が、崩れた。
「……ハァ……ハァ……」
息を整えながら、
俺は、手を見る。
何もない。
普通の、手だ。
でも。
あの感触は、
残っている。
少年が、ぽつりと言った。
「……それが、呪いだ」
俺は、否定できなかった。
力は、応えてくれる。
思いに、正直に。
だからこそ――
危険だ。
立ち上がる。
夜風が、冷たい。
「……次は」
俺は、言葉を探す。
「次は、もっと――
ちゃんと、止める」
少年は、何も言わなかった。
ただ、その目に――
少しだけ、救われたような色があった。
俺は、知らない。
この力が、
どこまで行くのか。
でも。
一つだけ、はっきりしている。
この爪は――
望めば、もっと伸びる。
それを、
望まないでいられるかどうか。
それが、
俺に課された――
試練なんだと。




