第5章 知っている者
最初に気づいたのは、視線だった。
朝のホーム。
電車を待つ人の列の中で、
明らかに――こちらを見ている誰かがいる。
昨日の夢のせいだろうか。
やけに神経が尖っている。
だが、違った。
その人物は、逃げなかった。
俺が視線を返しても、
目を逸らさない。
黒いコート。
年は分からない。
若くも見えるし、妙に老けても見える。
電車が来る。
人の波が動く。
その流れの中で、
そいつは――俺の隣に、自然に立った。
「……話がある」
低い声。
昨日の“闇”とは、まったく違う。
「今じゃねぇだろ」
そう返しながら、
俺は逃げ道を探していた。
「じゃあ、放課後」
「断る」
「断れない」
断定だった。
腹が立つより先に、
背中が冷えた。
「……理由は」
コートの男は、俺のポケットを見る。
「それを持ってるからだ」
それ以上は、何も言わなかった。
放課後。
人の来ない古い公園。
ブランコが、風もないのに軋んでいる。
「で、何だよ」
俺は距離を保ったまま言った。
男はベンチに座る。
疲れているようにも、
そうでないようにも見える。
「それは“宝珠”だ」
やっぱり、という気持ちと、
聞きたくなかった気持ちが、同時に来た。
「……他にも、いる」
「知ってる」
駅前の血の光景が、脳裏をよぎる。
男は一瞬、目を伏せた。
「見たか」
「ああ」
「……そうか」
それ以上、言わない。
「説明しろよ」
苛立ちが、声に滲んだ。
「何なんだよ、あれ。
何で俺なんだ。
何で――」
「全部は、話さない」
即答だった。
「は?」
「話すと、お前は壊れる」
妙に、静かな声だった。
「……ふざけんな」
「ふざけてない」
男は、初めてこちらを見る。
その目は、
諦めと後悔が混じった色をしていた。
「宝珠は、徳だ」
「……徳?」
「仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌」
どこかで聞いたことのある言葉。
昔話みたいな響き。
「だがな」
男は続ける。
「徳は、人を救うとは限らない」
沈黙。
「持ち方を間違えれば、
人を傷つける」
駅前の少年。
血。
震える手。
「……俺のは」
言いかけて、止まる。
「仁、だろう」
男が言った。
心臓が、嫌な音を立てた。
「……なんで分かる」
「お前の力は、人を殺さない」
断言だった。
「闇にしか効かない。
それは――」
男は、そこで言葉を切った。
「……何だよ」
「いや」
首を振る。
「ここから先は、
知らなくていい」
「またそれかよ」
「いいんだ」
男は立ち上がる。
「お前は、
知らないまま戦える」
「……他のやつは」
「知りすぎている」
短い言葉だったが、
重かった。
「最後に一つだけ言う」
男は、背を向けたまま言った。
「闇の王に、
理由を求めるな」
「……理由?」
「理由を知れば、
お前は――」
男は、振り返らなかった。
「――選ばれる」
それだけ言って、
公園を出ていった。
一人、残される。
ブランコが、また軋んだ。
俺は、ポケットの中の宝珠を握る。
「……知るな、かよ」
胸の奥で、
昨日の声が、微かに重なる。
「それでいい」
理由なんて、分からない。
でも。
知ってしまったら、
戻れない気がした。
俺は、
まだ――
人でいたかった。




